第47話 晦明《かいめい》の空 1

 1940年6月22日


 一昨日の不審者騒ぎは昨日早々の内に収束して、理由は不明だが捜索も早々と打ち切られた。ただ警備はそのまま強化されるようで、人員の補充があるまでは警備部の負担は増したままのようだ。イプスウィッチで待機している状態だったパイロット達の緊張感も、今回の騒動とドイツの侵攻が進むにつれ徐々に増していった。


 そしてこの日、フランスのコンピエーニュの森を舞台に、イギリスの運命に深く関わる調印式が行われた。ドイツとフランスの停戦協定である。これによりフランスは敗戦が確定し、フランス政府はドイツによる統治を受けいれることとなる。


 フランスはとっくに『死に体』となっていたが、敗北を受け入れたことによってもたらされるものは、単にドイツが対岸を制圧したという事実だけではないのだ。


 このニュースは兵士の間をあっという間に走り抜けた。夜のブリーフィングを前に自然と早く集まっていたパイロット達の話題も、当然『この事』ばかりになった。


「ああ…平和な日々ともお別れかー、スゲー楽しかったなあ……それにしてもまさかフランスがこんなにアッサリ負けるなんてなー」


 2班のオスニエル・アーキン少尉がぼそりとつぶやいた。すると同じ班で歳も近いハリー・ケインズ少尉が呆れた顔をした。


「お前が楽しかったのは非番の度に女の子とイチャイチャできたからだろう?たしか、トリシャだっけか?」


「彼女スゲー可愛いらしいんですよ、何か妙に親近感があるし…俺と同じで家業が漁師だからかなー?」


 すると少し離れて話しを聞いていたアマデオ・オルドリーニ中尉が口を挟んでくる、オルドリーニとアーキンはアトキンズが来る前は同班だった仲である。


「トリシャってあれか?ここに来て早々にパブで知り合った、あの小っちゃいか?」


「はい…」


「オマエもしかしてマジで…いや、いいんだが…良い事だけどあまり…『まだ』のめり込むなよ?その何だ…『励み』くらいにしておいたほうがいいんじゃないか?」


「ああ、大丈夫ですよ中尉、俺は『ソッチ』の方がむしろヤル気が出るんで!だから意地でもドイツにイギリス海峡は渡らせませんよ!」


 アーキンの不敵な笑顔に苦笑いする者もいれば、やれやれと首を振る者もいる。割合としては半々くらいだろうか。


「いったい、いつ頃ドイツはやって来ますかね?そもそも海峡を越えてまで西進しますかね?」


 1班のジェリー・ラングショーが同班のフレッド・アーキン少佐に問う。


「来るだろうな、ドイツはその海峡が欲しいのさ。それに、やはりこの国をナメているだろうしな。大国のフランスをこれだけ短期間で落としたんだ、まだ余力を残しているだろうし大陸の端に懸念けねんを残したくは無いだろうしな。放っておけば連合国側の中継基地にもなり得るからな」


「そんなのもう似たようなものですけどね。既に多国籍の混成部隊ですから」


「そうだな。だが助かるよ、それで何とかパイロットの数もギリギリ、まあ正直に言えばまだパイロットより戦闘機の方が大分余っているみたいだが…こうして足りないものを補ってくれる巡り合わせは、神の後ろ盾でも得ているように感じるな」


「それじゃあ今の兵力で十分ってことですね?」


「かもな…」


 そんな気休めをアトキンズも黙って聞いていた。ドイツとの戦力差を考えればとても笑ってなどいられない状況で、勝てると思える理由であればどんな気休めでも有り難かった。ただ幸いな事にイギリスの勝利条件はドイツを降伏させることでは無い。


「アトキンズ少佐、少佐はここに来るまではどこにいたんですか?」


「ん?」


 スピットファイアMk2をる2班のダリル・コールマン大尉が話しかけてきた。彼もパイロット歴が長く、経験も豊富な男だ。


「俺はずっと、大陸とイギリスを行ったり来たりしていたな。ノルウェーにも行ったし、フランスとも一緒に戦ったし、結局はいつもドイツ機とやり合っていたな」


「ノルウェーか…オレはノルウェーには行きませんでしたが、やっぱり独仏戦でした。しかしあの時は……性能で劣っていたハリケーンMk1で、撃墜どころじゃ無くて、ドイツ機を押し返すことも難しかった…」


「そうか、そうだな。もしも、この戦争の序盤から…連合国の各国に配備できるくらいの数のスピットがあれば、少しは成り行きが変わっていたかもしれない……しかしまあ、ドイツの大陸での強さは戦車部隊の強さと言っても過言じゃないがな」


「そうですね、海峡に隔てられたイギリスは陸を侵攻してくる戦車がないだけで相当楽だと言えますね?」


「ああ。だからイギリスは空と海の防衛に徹することができる。つまりこの戦いは籠城戦ろうじょうせんで、ドイツの猛攻を凌ぎ上陸を阻止することさえできれば、俺たちの勝ちだ!」


 それは大極的な話で痛みを伴う局所的な損害が必ず含まれる。


(おそらく、空爆の編隊の中にはフランス機もいるだろうな……)


 独仏の休戦協定の内容などは知るよしもなかったが、ドイツがフランスから接収した兵器を利用することは誰もが想像できた。それだけでは無い。その空爆を防ぎきることなど出来ないこと、そして必ず多くの犠牲者の血が流れる。それが分かっている彼らは、あえてそれを口に出そうとはしない。


(せめて海峡側の街とロンドンの住民を避難させる事が出来れば……まったく、本国の防衛はやりきれないな……)


 勇猛な兵士でも自分の命を惜しまない者などいない。しかしすぐ後ろにある故郷の大地を守るには自分の安否を気遣っている余裕が無いだけだ。

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