第48話 晦明《かいめい》の空 2
フランスが降伏してイギリス海峡の対岸の全てがドイツ領となった以上、海峡上空の緊張感は当然高まり、哨戒に出るパイロット達は眉間に力を入れて大陸側の空を睨む。おそらくは当時世界一と言われたイギリスのレーダーシステムの目が誰よりも早く敵の機影を見つけるだろう。しかしそれを実感として得られないパイロット達は己の目を見開いて機影を探した。
とは言え、これが月明かりも無いような夜でポジションランプも非灯火で飛んでいる飛行機を見つけるというのは、夜にカラスを探すことと何も変わらない。どこかの戦闘機が目の前を横切っても敵と味方の区別もつかず、互いに機銃のトリガーも引けずに格闘戦がひっちゃかめっちゃかになる事も普通である。暗視装置などこの時代には無いのだ。まあ、今夜のように月が明るく、
アトキンズはクリフォード・ハロウズ中尉と共に2本目の夜間哨戒を終えるところだった。
(いい夜だ……)
彼は外の風を楽しもうとキャノピーのロックに掛けようとした手を止めて考えた後、無線のボタンを押した。
「イプスウィッチ管制室、こちらアトキンズ少佐」
「……はい、アトキンズ少佐。何ですか?まさか今度は不審機ですか?」
「!、いやいや…それは安心してくれていい。俺はこのまま着陸せずに夜間のテスト飛行に移りたい、のだが…お伺いを立てようにも大佐と両中佐は今は夢の中のはずだ。ただ、本機のテストは任務飛行時間外ならばいつでも認められているから問題はないはずだが…?」
このやり取りを聞いて驚いたハロウズ中尉が無線に割り込んでくる。
「ちょちょ、ちょっと少佐っ、なんだってこんな深夜にテストなんて……そんなにドイツが心配なんですか?それともまだ飛び足りないとか……?」
「どっちもかな……まだ燃料も十分に有るし、哨戒も兼ねて夜間テストをしてくるつもりだ。クリフは先に戻っていてくれ」
「ええ……?」
などと、アトキンズはもっともらしく動機を並べ立てているが本音は別にあった。
(こんな時に不謹慎だが、今夜は散歩にはいい夜だ……いや、こんな時だからだな)
かなり不謹慎である。本来なら領空侵犯に備えてパイロット控え室で待機しているべきである。
「管制室、そんなことで変更の承認と地域指揮所への連絡を頼む」
「了解…しました、アトキンズ少佐。くれぐれも事故の無いようにお願いします」
これは有事の義務から少々
「了解……2、30分で戻るからクリフもヨロシク」
「ちょっと、少佐っ?」
Mk5はイプスウィッチを直前にハロウズ機から離れ大きく旋回しながらスピードを上げた。
「稼働している最新機のMk5はこの一機だけ……そんな機体を散歩に使うのはさすがに、わがままが過ぎるか……?」
深夜2時の星空、アトキンズの目でも見通すことのできないどこまでも広がる暗い空は太古から人々を恐れさせ、神秘的な美しさは数えきれない物語を人に想像させてきた。
夜の暗さは宇宙との境を消し去って、地表を闇で覆いつくす。逆に光が
そんな天と地の
「まあ、これくらいは大目に見てもらいたいな」
アトキンズは川に沿ってゆったりと、再び海を目指してMk5を飛ばす。月明かりを反射する水面や空の星々があれば彼が自分の位置を見失うことは無い。パイロットの適正として大切な空間認識力においても彼はズバ抜けていた。そして何より、飛ぶことが誰よりも好きで楽しめる。激しいダンスから歩むような散歩まで、空に浮かんでいることを実感したい時は飛行機がその場に留まれないことを本気で残念に思うほどだ。
(これ以上ゆっくり飛んだら失速しちまう。まあ……彼女たちがうらやましいぜ……)
そんなやっかみを自分で笑いながらひとりの散歩を楽しんでいた。そんな時……
ドス…という軽い衝撃の後に突然機体が揺れて左に傾いた。
「おぉっ!?」
まるで木の枝でも引っ掛けたような一瞬の重みに驚いて左の翼に目をやる。
「なん、だ…っ?」
目を凝らして見た翼の先には確かに人影が……ベンチの様にちょこんと翼に腰掛けて空を見上げている。
「!、フレヤ…か?」
頭と顔にマフラーの様なものをグルグルと巻きつけてゴーグルで止めて、端は上着につっこんでいるスタイル。間違い無く彼女だ。
しかし、こんなブッ飛んだ異常な状況に普通ならもっと良いリアクションをするのだろうが、訓練の
(ウワサをすれば、か?いやしかし、ホントに……信じられんな。魔女と言ったって、ニンゲンにこんな事が出来るなんてな……)
彼が尚の事、彼女達を
(!、キャノピーを開けろと……?)
ワケが分からないが、彼は指示されたまま僅かに開けていたキャノピーを全開にした。すると……
「こんな時間にひとりで飛ぶことなんてあるのね?」
「なっ?!」
対気速度150キロの風の中、約5メートル離れて翼端に座っている彼女の声が、すぐ隣りにいるかのようにハッキリと聞こえる。完全に不意打ちを喰らってアトキンズは思わず無線のヘッドホンをむしり取った。
「ナンでだっ?何だコリャっ??まるですぐそばに……」
「あははは……っ、驚きすぎっ!気持ちいいわね」
「うお、気持ちワリ!」
「ふふん…面白いでしょ?まあ、風の影響とか条件はあるけれど、この距離なら小声でも大丈夫よ」
「いったいどういう…まてよ、コッチの声も届くってことは……サッパリ分からん……」
どうせ答えの出ない事だとアトキンズはすぐに考えることを放棄する。別にそれは
「まさかこんな時間に会うなんてね?それにパートナーがいない時もあるのね?」
「これはまあ…大きな声では言えないが趣味、かな……こんな天気の良い夜はツイな……」
「!、ふうん…それじゃあ、お互い月に誘い出されたワケね?」
彼女はそう言って月に顔を向けた。
「へえ、じゃあ君も、夜に飛ぶのが好きなのか?」
「まあ…ね。雲みたいに浮かんでぼんやり過ごすのが好き……」
「ああ…やってみたいな、それは……」
「そう…………?」
「ああ……」
ふと、アトキンズは不思議に思った。声がすぐそばに飛んでくるからじゃ無い、近いとは言っても5メートルは離れているフレヤの存在がすぐ
(そうか……君に感じていたのはこの夜空そのものだったんだな。だからいつも、居心地が良かったのか……いや、
「なっ…なによ、それ…?」
アトキンズが漂わせた情感は、きっと今まで見たことの無いモノがフレヤには見えて、彼女にしては
「ん?何が?なんだろうな……君の今の顔が見れないのが非常に残念に感じるのは何故だ?」
「ふ、ふん!そんなの知らないわよ……っ」
フレヤはツンと顔をそらした。
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