第34話 戦争の影 1

 1940年6月20日


 この日は朝から小雨の降り続くフライトにはイヤな空模様だった。しかし天災でも無い限り軍務に思いやりなどは無い。むしろ良い訓練になるとばかりにケツを叩かれるのであった。


 そんなイプスウィッチ中隊の大佐の部屋で朝一番に電話が鳴った。


「はい…」


 レイヴンズクロフトのバリトンボイスが回線の交換室官をどきりとさせる。


「あ…た、大佐、奥方様からお電話が入っていますっ」


「妻から?分かった、繋いでくれたまえ。それからこれはプライベートな電話だ、よろしく頼むよ?」


「はい、心得ています……」


 電話はケーブルを差し替えた時のノイズの後に静かになる。


「君か……?」


「あら、上級大佐殿…元気でやってる?もっとも一昨日話したばかりですけれど……」


「ああ…そうだな。どうしたのかね?君から連絡をよこすなんてあまり無いが…家で何か問題でも……?」


「……プライベートな話しですけれど誰も聞いていないかしら?」


「!、もちろんだ。交換室官は私が推薦した者だしな……」


「そう…ならいいわ。実はね…………」


 夫婦の密やかな会話を初夏の雨音がかき消した。






 見通しの悪い雨の中、哨戒任務も変更無く行われる。今日は早い時間に一本目が予定されていて、ローテーション通りに3班のアトキンズとアルドリッジ少尉が既に空に上がっている。


 そして今日もイギリスの空に異常のない事を確認して無事に帰路に着いていた。


「くっそーっまた今日も連敗だーっ!なんて言ってまだ一度も少佐に勝てていないんですけどね!」


 イプスウィッチを前にしてアルドリッジが無線の向こうで吠えた。アトキンズは毎回毎回哨戒の度に僚機りょうきに勝負を挑まれている。しかし毎回毎回勝っていた、今のところは負け無しである。


「しかし少佐はホントに『引き出し』が豊富ですよね?いつも勝ちが見えたと思うのにアッサリと逆転されるし、Mk5との性能差じゃないのがよく分かりますよ!」


「俺としては誘い込まれている事に気づいて欲しいんだがな?本当に不利な状況をそう見せかけ続けることで逃げる段取りを整える、ベテランがよく使う手なんだよ。気分が良い時は危険な兆候ちょうこうを見逃しやすいのさ……」


「そう言われても…その境い目なんか分かりませんよ……?」


 そんな講義をしながら2機は着陸で向かい風を捉えるべく、一度滑走路を通り過ぎようとしていた。


「まあ、後は下りてからに……ん?」


 アトキンズが滑走路を下に確認していた時だった。何かを気にして機体を垂直近くまで傾けると、目を見開いて地表を凝視ぎょうしした。


「どうしたんです、少佐?機を傾けて?」


 後続に着いていたアルドリッジが無線で問いかけてもアトキンズは応えなかった。そのかわりに……


「こちらイプスウィッチ中隊のアトキンズ少佐、管制官に通達っ、格納庫の裏に不審者を発見、繰り返す、格納庫の裏に『不審者』を発見。至急確認されたし!」


「了解、アトキンズ少佐!」


 少し緊張した声が無線で返ってくる。アルドリッジもアトキンズの深刻な声色に緊迫感を感じ取るが、すぐには鵜呑うのみに出来ないものがあった。


「不審者?この天候で下の人影を確認出来たんですかっ?」


「多分な、おそらくカメラをこちらに向けている様に見えた。言ってみれば照準器にとらえられた感覚かな?誰かは知らんがこのMk5が目当てに思えた。」


「嘘でしょっ?!人影どころかカメラまで見えたって言うんですかっ?!」


「ああ、すぐに警備が来るだろうが、俺がはやまった事をしたかもな?無意味に機を傾けたとは思わないだろう。とにかく急いで下りよう」


 しかし不審者がいるというなら着陸するというのは微妙な判断である。もしも危険人物がいるのであれば、今は下りずに警備兵が対応するのを待った方が余計なリスクを回避できるからだ。しかしアトキンズにはそれにも勝る心配があった。


(気づかれたと感じて逃げ出すだけならいいが……)


 滑走路を過ぎてアトキンズは小さく旋回を始めた。車輪を下ろし、ついでに高度も下げながら既に着陸態勢に入っている。


「ちょっと少佐?!それじゃ十分な距離を取れませんよっ??」


 完全に意表を突かれたアルドリッジが叫ぶ。彼はアトキンズの動きに釣られかけたが頭がついていかずに機体はそのまま変な方向に泳いで大きく旋回していた。


「無理をして着いてくるな、アルドリッジ!」


「いえっ行きませんけど…それに機首を下げ過ぎですっ」


「滑走路に車輌や人が入ってたら下りられないからな、ギリギリまで滑走路を見るんだ!」


 最小、最短で着陸する訓練はアルドリッジも受けている筈である。自陣にまで戦火が及んだ時、滑走路は真っ先に確保されることになってはいるが、時には障害物や人を避けながら着陸することもあった。


 アトキンズが旋回し終わった目の前には、滑走路が既に迫っている。その僅か100メートルの間に完璧な速度と着陸態勢を整えて、余裕すら感じるランディングを決める。


「無茶苦茶だな、この人…」


 後方のアルドリッジが呆れてつぶやいた。


 しかし飛ぶ度にワザと失速させて遊んでいるアトキンズにとっては、この程度の強行はきもを冷やすことでは無かった。精々少し集中して機を操る、そのくらいのことである。その証拠に今日はいつもより短い距離で滑走路から外れて駐機ちゅうきし、アルドリッジのために滑走路を空けた。


 アトキンズは駐機するよりも早くエンジンを切り素早くシートベルトを外すと、任務の時に胸にひそませているリボルバーを引き抜き弾倉を確認した。そして先ずは操縦席から辺りを見回しながらキャノピーを引き開け乗降用ハッチを倒す。


 どうせ耳を澄ませても下りてくるアルドリッジ機のエンジン音が邪魔で辺りの様子は分からなそうだ。彼はすぐに飛び出して主翼を飛び降り小走りに動きながらぐるりと見回す。


「んっ?」


 そしてアトキンズが目指している格納庫の前には小銃を下げた警備兵がこちらを驚いた顔をして見ている。おそらく彼が握っていた拳銃に気がついて、少し警戒しているのだろう。しかし目に入ったのはこの警備兵がただひとり…そりゃあ管制室にも人かげはあるが一瞥いちべつしただけで異常が無いのが分かる。


(他の連中は?)


 彼が想像していたのは警備兵や他の人間も次々とやって来る物々しい現場なのだが……とにかく取り敢えず、周りを気にしつつも格納庫に急いだ。

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