第11話 恐速の魔女 4

 イプスウィッチを飛び立ってからマートルシャム飛行場を超えて海岸線までの20キロはスピットファイアにとって5分とかからない距離だ。


 アトキンズはハロウズ中尉の観光案内を無線で聞きながら急いで周辺の地図を頭にたたき込む、かと言って起伏の全く無いこの辺りでは戦術に利用できるような地形は無い。そもそも爆撃機を迎え撃つのだから高空での要撃が基本になることも分かっている。


 それでも戦闘の最中に爆撃機が何処へ向かおうとしているのかを予測し、自分がどの辺りを飛んでいるのかを報告するためには、街でも港でもとにかく伝えられる地名なりランドマークなどを頭に入れておく。他の戦地とは違ってここには張り巡らされたレーダー網があるが、それはそれ、これはこれである。


「『クリフ』、海峡に出たらドーバーまで行きたいが……」


「了解『アット』、他の中隊機に会っても撃ち落とさないで下さいよ?」


「心配するな、機体の識別は得意だからな。10キロ離れていても大丈夫だ!」


「10キロ…?鷹の眼じゃああるまいし……」


 ツッコもうにも出逢って間も無い上官相手にそのさじ加減に困っていると、


「もう、あの対岸はドイツなんだな……」


「!?」


 遠くに望む対岸を見てアトキンズが言った。


「ええ、そうですね…もしかしたら今も我々を睨んでいるかも…この通信も聞いているかもしれませんね?」


「そうだな」


 スピットからはかつてのオランダとベルギーの海岸線を見渡すことが出来た。その先のフランスへも1時間も飛ばせば助けに行くことが出来る。ただ航続距離を考えると戻る事は出来ないが。


 それに既にパリをあけ渡して地方へ逃れたフランス政府にこれ以上戦えるだけの兵力も気力も無いだろうと一般兵士である彼等でさえ理解していた。


 となれば次の大陸での作戦はフランス国民や政府の撤退を助けることである。イギリスは既にオランダとベルギーからの亡命者を受け入れており、両国の亡命政府も今はイギリス国内にある。逃げのびてくる際には大型の兵器や設備を放棄せざる負えなかったが、どちらも変わらずに連合軍に協力して、母国の奪還と汚名の返上を願っていた。


「今ならフランスに進行中のドイツを背後から急襲できますね?」


「爆撃機を連れてか?おいおい、そんな事を言うとメッサーあたりが飛び出してくるぞ?」


 冗談半分でたしなめると前を行くクリフ機が翼を激しく振り始めた。


「おうおうっ、来やがれドイツヤロー!『Bf』なんか尻を叩いて追い返してやりますよ!」


 ※ドイツの主力戦闘機であったメッサーシュミット社の戦闘機は『Bf』もしくは『Me』と表記が混在しているが、戦時中は『Bf』と呼ばれていたようである。どちらも同じ機体を指している。


「撃墜、じゃないのか?」


「え?いやほら、ヤツらを止めなきゃ爆弾を落とされるし、墜とせば海峡にゴミが増えるし…どちらにしても許せませんね」


「?、なるほど、まあそれも立派な愛国心かな……」


 景色を眺めながらそんな話しをしていると海がどんどんと狭くなっていく、ドーバー海峡である。ここからちょいと右に進路を変えて飛べば、すぐにロンドンが見える筈だ。


 アトキンズは舐めるように地上を眺めてから大陸側を睨み敵機と自軍の交戦を想像した。そして燃料計をチラリと見てからクリフに声を掛ける。


「『クリフ』そろそろ戻ろうか?」


 ここまでの飛行距離は100キロ位だろうか?今日の機速では参考にならないが、全速ならば10分といったところだろう。アトキンズはこの距離感を実感したかった。


 スピットファイアの航続距離は700キロほど、なんだけっこう飛べるじゃないか…そう思うかもしれないが、いやいや巡航速度を考えてみてほしい。


 スピットファイアMk2あたりの最高速度は時速600キロである。とくに急ぎの用事があるわけでも無く、ましてや哨戒任務であれば時速300キロ位で飛ぶかもしれない。それでも時間にすれば2時間くらい、ついでに機体のご機嫌をうかがおうと思うなら目一杯スロットルを開けることもあるだろう。そして1000馬力を超えるエンジンを唸らせてスピードを楽しんだり敵機と激戦を繰りひろげれば、飛んでいられる時間は1時間にも満たない。ましてや燃料が尽きると落ちるしかないから帰りの燃料にも余裕を持ちたいのが人情である。燃料だけではない、気持ちにもあまり余裕は無いのだ。


「了解『アット』…まあ、億が一敵と遭遇することを考えるとこの辺りが妥当な所ですね?」


 そう、警戒している以上哨戒中に敵と出くわせば交戦もあるかもしれない。その時には最低でも敵機を翻弄し振り切れるだけの余裕を残しておかなければならない。今はまだ『気楽な散歩』だとしても勝手気ままに飛んで行くわけにはいかないのだ。


「そうだアット、せっかくです、お互いの機体の様子見も兼ねてひとつ模擬戦といきましょう」


 ハロウズ中尉のやる気がヘッドフォン越しに伝わってくる。お互いを高め合うのがパイロットと考えるなら挑まれた勝負を拒む理由は無い、アトキンズの答えは決まっていた。


「それならイプスウィッチに戻る直前にしよう。さすがに今は任務に集中した方がいいだろう?」


「りょーかいしましたっ、それじゃあハリッチを過ぎた辺りで!」


「分かった」


 任務に集中すると言っておきながら2機は明らかに速度を上げて帰路を急いだ。

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