第10話 恐速の魔女 3

 粘るローレルを横目に地上員が電源車のケーブルを伸ばし始めたのを見てアトキンズとハロウズは搭乗前点検の為に動きだす。


 緊急発進でも無い限り搭乗前の点検はパイロットの責務であり、アトキンズが真っ先に入念に手を抜かずに確かめるのは意外にも主脚とタイヤであった。


 何しろコレに不具合があると無事に地上へ帰って来ることができない。それは必ずまた生きて戻る決意の為の点検でもある。例えるなら勝って収めるためのサヤを大切にする剣士の心境に近いものだろうか。


 その後は機銃を点検するとササっと目視で機体を一周してから左の主翼に登るのだ。


 そして機首から尾翼までを舐めるように眺めてから風防を後ろに引き開け、ライティングデスクを開く様に搭乗用のドアを下におろす、そしてコックピットへと滑り込み身体を収めるのだった。


 操縦席に落ち着くとドアのロックを確認してシートベルトをキツく引き締め上げる。その頃にはローレルは必ずそこそこ安全な機の真後ろに陣取って、エンジンに火が入る瞬間を水平尾翼を掴んで待っていた。


 ここでようやく彼は飛行帽にアタマをねじ込む。そして酸素マスク、無線をそれぞれ手際良く繋ぎテストし、操縦桿とペダルの手応えを神経を集中して確かめたところで一通りの儀式は終了となる。


 おっと、彼は忘れているが普通なら照準器のチェックもするべきである。しかし彼はとある理由からいつもこの手順を忘れてしまう。と言うよりは、そもそも意識すらしていないのが本当のところのようだ。


 地上にいる時、飛行機の殆どは空を見上げるように駐機している。一度座り込んでしまうと機体付近の直下など殆ど見えなくなってしまい、特に機首付近は操縦席の昇降機能を使っても確認出来ない。だから地上員に合図を送って安全を確認してもらってからエンジンを始動するようにしている。


 この基地の地上員は若干ローレルの存在にいぶかしい表情を浮かべていたが、アトキンズの要求に従い安全と電源ケーブルの接続を確認すると急かすように合図を返してきた。


 スロットルを少し押し込み、ポンプで燃料を数回送り込んでからスターターを入れた瞬間、乾いた炸裂音と共にエンジンが目を覚ます。


 そして目を閉じて待っていたローレルは機体に触れていた手からエンジンの鼓動を感じ取り、爆音だが心地よく響くエンジン音の中から忙しく動く各機関の音を聞き分け、そして巻き起こるプロペラの風で流れてくる排気の匂いから異常を嗅ぎ分けている。


 エンジンが暖まるまでのこの数分間、この瞬間が彼女にとってはとても大切な時間だった。本物のエンジンの動きに浸り頭の中で動き続ける脳内エンジンと完璧に同調する悦び、そして何より、同じようにエンジンの不調を感じ取ろうとしているアトキンズとも繋がっているような…そんな実感と喜びを得ることが出来たからだ。


 満足すれば彼女は機体から離れ横に回り込む。そしてアトキンズに笑顔を見せれば、彼は安心して敬礼の後に機を滑らせるのであった。


 ローレルは動き出したスピットファイアに向かって声を上げて叫んだ。


「少佐ーっ、変な女にちょっかい出されてもーっっ引っかかっちゃダメですよーーーっ!」


 はたしてその声がアトキンズに届いたのか……?彼はコックピットからにゅっと出した手を振った。


 滑走路の端で離陸直前になると飛ぶよりも先に座席の高さを元に戻して風防をロックする。何度経験してもこの瞬間には少し深く息を吸う。そしてスロットルを開けて混合気を送り込んでやれば徐々にスピードは上がり、タイミングを見計らって全開にするとエンジンの力と熱が握っている操縦桿を震わせた。


(っ!……これかっ!!)


 エンジンの振動が手の中をくすぐっている。アトキンズは突然のフラッシュバックに離陸直前にもかかわらず過去に迷い込んでいた。それはあのメイポールに触れた時に感じた力のつぶが暴れ回るような感触とよく似ていたからだ。


「おっと……」


 彼は離陸することを一瞬忘れかけたが、身体に刻まれたパイロットの経験が握った操縦桿を無意識に引かせていた。スピットは完璧な飛行線に乗って上昇しながら東へと綺麗な弧を描く。


「キレイ……」


 そのスピットの姿を眺めて地上に残されたローレルが呟いた。そんな彼女を見てオルドリーニはくすりと笑うと、


「よく…飛び上がるとか、浮き上がるなんて言うでしょう?でも、上手いヤツほどなんて言うか……空に引っ張り上げられるような離陸をするんですよね。俺も何千回と人の離陸を見てるけど今のはやっぱり格別ですね…しかしそれを見て取れるんだから、ローレルさんの目も相当肥えてますよ?」


「え?いえそんな、私にはよく分からないけど…でも『空に引かれる』……なんか良いですね…」


 彼女はあっという間に見えなくなったアトキンズの残響ざんきょうを見送っていた。





 ロンドン


 まだイギリス国内の生活に大きな変化は無かったが、新聞やラジオ、他の限られた情報から見積もっても着実に迫ってくるナチスドイツの影に国民は一様に危機感を抱いていたに違いない。


 ドイツが大陸の西の端まで到達してしまえば残る要害はイギリス海峡のみ、しかし最も広い場所でもその幅は180キロメートル、ドーバー海峡にいたっては対岸まで僅か34キロメートルの距離しか無く、そこからこのロンドンまでを含んだ距離は僅か160キロメートル……


 その距離は殆どの航空機が十分に往復出来る距離であり、危機感を抱かせる最大の理由となった。ほんの少しの想像力があればこの望ましくない危機に気付けただろう。つまり誰もが恐れていたのは……無差別な『首都爆撃』だった。


 そして、スタンモア


 スタンモアはロンドン中心部から20キロ以上離れた郊外にある。トラファルガー辺りのにぎやかさとは比べようもない程のんびりとした風情だが、悪く言えば辺ぴなこの町のとある修道院にイギリス空軍戦闘機軍団の総司令部が置かれていた。


 そこには総司令官である空軍大将を始めとして、有事の際にと代々20年を費やして防空網を築きあげてきた空軍の実力者と頭脳が名を連ねている。


 それぞれが多忙の中で集まった今日の頭数は5人、たっぷりとあご髭を蓄えた者、深いシワを顔に刻んでいる者、穏やかな表情の奥に鋭い眼光を見せる者、いずれもその年齢以上の経験と努力を重ねてきた強者を思わせる。


 彼らはあまり会議室を好まず人数が許せば応接室のソファーにゆったりと腰を掛けて、それぞれが好きなもの…例えばシガーなどをくゆらせお茶を味わい、思慮深く防空戦略について潜心し、随分と前からこのような状況の備えをしてきた。


「さて…一昨日のパリ放棄でいよいよドイツが目前まで迫って来ていると言えるが……」


 彼らが会話で声を荒げることは無い、その様な会話は既に過去のもので、今ではさながら近所の他愛の無い世間話にも聞こえる調子で語ってゆくのだが、何しろ国の行く末に関わる国防が議題である、その言葉の重みは言うまでもない。


 そして大将である総司令が今投げ掛けられた念押しの言葉に静かに応える。


「同盟国への派遣などで戦力の消耗はあったが、レーダー網、通信網、各地への中隊基地の配置、新機の開発と改良、そして幸いにも足りなかったパイロットは結果として各国の優秀な人材が我が空軍に参加してくれることとなった。おそらく物量ではドイツに劣っているだろう、しかしヤツらの闇雲やみくもな占領地の拡大は結果として前線が間延びし兵力の希薄を招くだけだ。一時的な敵戦力の集中はあるだろうが、それも長くは続くまい。これまでに築いた戦略と地の利を活かせば…彼らに遅れをとることなどあり得ない……」


 確信に満ちた口上に誰もが納得して頷いていたが、


「私も同意見だが……できればもっとパイロットを確保しておきたかったですな。見積もった中隊数は満たしたものの、このままではパイロットの負担が過大なものになってしまう、長期戦になれば不利になってしまうでしょう」


 ここに名を連ねる者は懸念けねんされる事柄があれば些細ささいなことでも示さなければならない。そしてその場にいる全員でまた熟考を重ねてその重要度を振り分けていく。


「宣戦布告をしたイタリアのことか?なに、それでも長期戦にはならないだろう。イタリアが加わったところで予想していた戦力に大きな違いは無い、それに主力であるスピットファイアの欠点が無くなり改良が進めば、結果としては戦力が増すことになるのだから」


「マーク5か…重武装に加えて高高度での性能が格段に良くなったとか…しかも頭を悩ませていた問題も解決の目処がついたらしいな?なんでも、そのアイデアを出したのは若い女性だと聞いたが?」


「ああ、有能だよ、おそらく君ら全員が思うよりも遥かにな。私としては王立研究所に紹介したいほどだ。まあ、当人の希望次第でもあるが……」


「なるほど、もう調べ上げているのか……ならばとっくの疾にファイルを上にあげたのだろう?」


「まあな……」


 他の4人の話しを異論無く静かに聞いていた大将もその女性のことは高く評価していることを皆に報告する。


「その女性のことは私も聞いている。彼女のような人材はこの国の宝だ、既に叙勲じょくんの申請もさせてもらった。おそらくは、これから会う機会もあるだろう。世がどうであっても功績にはすべからく国が応え、公に讃えられるべきだ」


「まことに……」


 そしてまた、全員の意見は一致した。

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