第8話 恐速の魔女 1
6月12日
現在のところイプスウィッチの警戒体制では宿直者以外の起床時間は午前6時30分、身支度と食事等に1時間30分をかけて、その後午前8時からブリーフィングとなる。つまり戦闘が始まらない限りはそこらの会社員と何ら変わらないタイムスケジュールで動いていた。
当時はパイロットの体調管理は個々の自己管理に委ねられていて、非番であれば任務に支障が出ない限りパブで遅くまで酒をあおろうが、デートで朝帰りしていようが咎められることは無かったようだ。
ただその半面、ハメを外したり勢い余って隊の品格を損なう行為をした者や、遊び気分を引きずって仕事をこなせない者には厳罰がかせられ、目に余るようならば不名誉除隊が待っていた。
そしてそれを重々に理解していて処分は当然だと思っているのがこの集まりであり、節度を持てない者は隊の中では孤独を味わうことになった。
だから非番明けの者は英気を養ってはつらつとしていなければならないし、疲れを見せて良いのは夜間任務をこなしていた者だけである。
「おはよう諸君」
ピアース中佐が入室する瞬間には当然全員が揃い、一斉に起立して出迎える。
「座ってくれ……今朝、昨晩と違うのはライランズ嬢がいないことと…厄介そうだが頼もしいパイロットが一名増えたことだな?」
くすりと笑ってその場の全員が同意した。
「昨晩の内に面通しも終わっているようなので改めてアトキンズ少佐の紹介はしない、早速今日の仕事だ。新たな編成表はもう見たなっ?」
第11戦闘機群イプスウィッチ飛行中隊編成
第一班
フレッド・アーキン少佐
マルコ・クリオーネ少尉
ジェリー・ラングショー少尉
第ニ班
ダリル・コールマン大尉
リーアム・ラスキン中尉
ハリー・ケインズ少尉
オスニエル・アーキン少尉
第三班
アール・アトキンズ少佐
クリフォード・ハロウズ中尉
アマデオ・オルドリーニ中尉
サイラス・アルドリッジ少尉
中隊指揮機はフレッド・アーキン少佐とする
「昼間の哨戒は3班、昨晩哨戒にあたっていた者は宿舎待機、残りの者は機体点検と訓練、まったくもっていつも通りの日常だが、常に機体と自身のコンディションを整えておくのがお前達の仕事で撃墜されないコツだ。気を抜いた者はとっとと家に帰っていただくからそのつもりでな!何か質問は?」
「……」
「では以上だ」
その言葉を合図に再び全員が起立してピアース中佐の退室を見送る。普段はこのようにブリーフィングは僅か5分で終了することが多い。
そしてブリーフィングが終わるとアトキンズのもとに3班が集まってハロウズ中尉が声をかけてきた。
「いきなりの『お散歩』ですね、少佐。しかし今日着任予定だったのにいきなり仕事とは……」
「俺が希望したんだよ、先ずはやっぱり、この辺りの地形を頭に入れておきたいからな。飛行ルートも自由に選べる許可も取っておいた、だからなるべく広い範囲を見ておきたいんだが…」
「なるほど、分かりました…では我々の受け持ちは主に港湾ですが、東のマートルシャム飛行場を越えて海峡を好きなだけ回ってから、帰りに南東のハリッチ飛行場を見ながら戻りましょう」
「分かった、そのように伝えてこよう。観光案内は頼むよ?」
イプスウィッチは深く西にくい込んだ湾内の最も西側にあり海峡からは離れた場所に位置している。湾の入り口両側にはそれぞれに海峡を監視するように幾つかの飛行場が点在しており、イギリス東部の海岸線を点で繋ぐように防衛線が引かれている。
東へ行けばマートルシャムが、南東へ行けばハリッチにやはり飛行中隊が待機しており、イプスウィッチや他の中隊とも密に連絡を取り合って任務に当たっていた。
パイロットは滑走路脇の控え室に入ると先ずは飛行服を身に付ける。しかしその前に班長であるアトキンズは管制室に顔を出して飛行ルートの提出と許可、次いで出発時間を確認する。
それは周辺の基地と連携して哨戒時間の重なり合いを避け、常に何処かの中隊の哨戒機が上空にあり続けるように調整しているためだ。それをイングランド東岸に配備した全ての飛行基地が連携すると、相当数の戦闘機が海峡上空を哨戒し続ける監視体制が築かれることになるのだ。
そして手順通りにアトキンズが哨戒コースの変更を希望すると管制官は中隊長であるレイヴンズクロフト上級大佐の許可と周辺3つの基地に確認を取る。
「アトキンズ少佐、コース変更の許可が下りました。時間は予定通り9時50分と14時になります、他の基地のそばを通過する時はニアミスに気を付けて下さい」
「了解した、ありがとう」
「それじゃあ後は『地域指揮所』へ連絡を入れておきますから」
「ああ、頼むよ」
各所に点在する基地を地域毎にまとめ、当時世界最高と言われたレーダーシステムを運用、監視している『観測所』との仲立ちを行なっているのが『地域指揮所』である。
そしてどの地域に自国機が何機飛んでいて何処へ向かっているのか、観測所では基地から上がってくる報告を元にして不審機との区別をしている。勿論、本土から飛び出す航空機はその対象では無い。無いがしかし、予めマーキングをして監視しておかないと、もし海峡上空でレーダーが不審機を捉えても区別が出来なくなってしまうからだ。
「まだ8時40分か…まあ、のんびりと機体のチェックでもすれば丁度良いか、な……?」
足は控え室に向かわせて、呟きながら自分のスピットファイアに目をやると、同じ班の連中が自分の乗機を前にして盛り上がっていた。
「ふ……」
そりゃあパイロットなら新型機に触れてみたいのは当然だと、彼等を見てアトキンズは笑った。しかもスピットファイアはMk3、Mk4と実用化に失敗してきた経歴がある、だったら尚更満を辞して投入された新型機に対する期待が大きいのは当然だろう。
これは急いで着替えて彼等にMk5を紹介してやらないと……そう思った時、
「少佐っ」
アトキンズを見つけて小走りに追ってきたのはミス・ライランズだった。
「ん…?ああ、おはようローレル」
「おはようございますっ」
少し慌てている様子の彼女の仕事は研究開発、ならば机にかじりついて微細な図面を前に小難しい数式と日々戦っていると思われがちだが、彼女のワークスタイルは他の研究員と比べると大分違うものだった。
いつも白衣では無く油の染みた作業着、ペンでは無く工具を握り大半の時間は嬉々としてエンジンをいじくりまわして過ごしている。
何故ならアトキンズも認める才女である彼女はわざわざ図面を引っ張り出してこなくても完璧な青写真が頭の中には収まっていたし、ならばそれを描き替えることも自由自在だったし、決まりきった演算ならペンすら必要無かった。
いつも彼女の脳内では常に図面通りのエンジンが動き続けている。机を前にするのは何かを思いついた時だけ、自分の暗算と答えを擦り合わせる時だけだった。
「ふうむ、やはりその作業着が君のイメージとして俺の中で定着しているんだな」
「はい?」
彼女はいつも漂白されていない生成りな綿の厚いズボンと、同じ布地の前ボタンの長袖シャツ、ちょっとダブついたその袖を3回折ってたくし上げているのがいつもの姿で彼女の戦闘服である。
「いやあ、たまに昨日みたいな姿を見せられるとドキッとするよ」
しれっと言われたそんな台詞に逆に驚いた顔のローレルは肩を持ち上げて祈るように手を組むと、
「どきっ?そうなんですか?ホントに?萌えちゃいましたか?劣情を掻き立てられましたか?そろそろコイツを何とかしてやろうくらい思いましたか?ふふん!」
「な、何とか…って……劣情っ?何をどうするって?何だそのドヤ顔は、何を言いたいんだよ?」
しかしとぼけているのか、アトキンズには冗談として処理された。
(ぬぬぬ…これはもう絶対逃げて、る?……そんなに私ダメ?)
喜怒哀…『楽』は無かったが流転するローレルの表情にはアトキンズを困惑させてフリーズさせるのに十分な破壊力があった。
「もういいです……」
「?!、何だ何だっ何で怒ってシメるんだ?それに朝の挨拶より、その百面より何か用事があって呼び止められたんじゃないのかっ??」
ローレルは目をそらして不満を訴えつつ、可愛らしくクチを尖らせた。
「ま、まあ………昨日の…送ってもらったお礼と、今日は少佐が出ると聞いたから機体のチェックを…と」
「そうか、ありがとな……」
「!、ちがいますよっ私がお礼を言うつもりだったのに、もう……それで?何時に飛ぶんですかっ?」
「9時50分…」
「ええっ?!1時間しか無いじゃないですか!もうっ、早く言ってください!」
「いや飛行前チェックなんて10分もあれば十分だろう?」
「それはパイロットが行う点検ですっ。整備士は違うんです……まだ電源車も来ていないんですか?ああもう、急がないとっ」
「お、おい…」
アトキンズは目を丸くしたまま慌てる彼女を見送ってから呟いた。
「やれやれ、キミは整備士じゃ無いだろ…?」
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