第5話 風の強い日

慰謝料の件は弁護士さんをたてて協議することになりました。優奈の近況は人づてに聞きましたが、実家で手厚くケアされて、徐々に体調も元に戻ってきたらしいとのことで安心しました。


僕は殴られたところもほぼ治り、精神的にはぼろぼろでしたが、なんとか仕事に通ってはいました。

でも常に頭の中にあるのは真依の妊娠のことです。

もう中絶は不可能な時期に入っているはずでした。

自分に責任があることはわかっていましたが、僕の知らない間に既に中絶したか、もしくは流産してしまったか、そんなことになっていたらいいのにと、僕は相変わらずそんなことを考える人でなしでした。

ある日唐突に真依から連絡が来ました。

「名前考えたよ!次の三つならどれがいいかな~」


僕がさんざん、優奈のことを黙っていたことなど長文で謝罪したことに対しては何の返答もありません。名前より、まずは生むか生まないか、結婚するかしないかの話し合いをしたいと再三伝えていたのですが、それに関しては何も答えてくれません。


「①優奈、②ゆうな、③夕南」

僕は手が固まってしまい、その先を読むことができずにいました。

婚約者のことは話しましたが、優奈の名前を出したことはなかったからです。

真依と結婚するという気持ちはこれを読む前からとっくに消え失せていましたが、これをきっかけに僕は真依と会うことすら避けたくなりました。

怖くて気持ち悪い、ただそれだけです。


でも、やはり一度は実際に会って話し合う場を設けなければ決着はつかないと思いました。

今まで、楽したい、面倒からは逃げたいということばかり考える人生でした。

元はといえばそんな性格が今回のトラブルの原因です。僕は意を決して真依と会う約束をしようと決めました。

僕の気持ちとしては、結婚はできない、子供は認知する、養育費については話し合いをしたい、というふうにまとまりました。


3月のとある日、僕たちは会う約束をしました。

とても風の強い日でした。

暖かくなりはじめた春先は、毎年風の強い日が多いものです。

僕は真依に指定された場所に向かいました。

なぜかそこは病院でした。

「屋上にいます。ベンチが三つ並んでるところだよ。遠くまでよく見えるよ」

「もう病院の入り口についたよ」

「エレベーターで7階まで上がってきて」

「了解、エレベーターきたよ。今日はなにか診察があるの?」


7階に到着すると、すぐに屋上に出る透明な扉が見つかりました。

扉は重たく、体重をかけて押すと屋上に出られました。ベンチと自動販売機があり、大きな植木鉢には観葉植物が植えられていて、思っていたより広々とした明るい雰囲気の屋上でした。


僕は二人分の飲み物を買って真依を探しました。

「屋上に出たよ、どこにいるの?」

返事はありません。

なぜか屋上には人影がなく、がらんとしていました。ベンチを見ると荷物がありました。

真依のバッグです。こんなところに置きっぱなしなんて無用心だな、貴重品も入ってるんじゃないのと思って回りを見ると真依がいました。

屋上の柵に腕を置いて、寄りかかりながら遠くを見ています。強い風が、真依の髪をはためかせています。「真依!遅くなってごめん!」

僕は飲み物と真依のバッグを持って近づきました。

僕の方を見ずに、真依はずっと遠くを眺めています。「真依、病院でどこか診てもらったの?」

彼女はゆっくりと僕の方に顔を向けました。ニコニコと微笑んでいます。

「聞いて」

真依はいたずらっぽい笑顔を浮かべて右手を自分の耳に添えました。自然に詳しいガイドが野鳥の声に耳を澄ますような、林間学校の引率の教員が子供に虫の音を聞かせるような、そんな「聞いて」なのでした。

「ほら」

真依は嬉しそうに風に吹かれながら音を聞いているのでした。もがり笛です。

この屋上は、真依のマンションのエレベーターホールとは比べ物にならないほど、もがり笛がよく聞こえるのです。

音も大きく、僕も聞いていて不思議な高揚感すら覚えました。

まるで陰惨な祭りの始まりを告げる、不吉なファンファーレのようです。

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