第2話 不気味な音

かなり打ち解けて、何回か二人きりで飲みにいきましたが、僕の方から口説くことはしませんでした。

恋愛関係になったら、この心地よい親友のような関係ではなくなってしまうと思いましたし、真依と深い間柄になるにはあまりにも社内の人間関係が密接であることも危険でした。


しかし、逆に僕のその姿勢が真依の心を変化させてしまったようなのです。きっと他の男性社員たちは露骨に貪欲な目付きをしていたのだと思います。

ある日、いつものように残業帰りに軽くビアパブに寄ったとき、真依に真剣に付き合って欲しいと言われて面食らいました。一瞬僕は言葉に詰まってしまいました。

「最初から好きだった」

と真依は僕に言いました。

「いま、誰とも付き合っていないなら私を恋人にして欲しい」とまっすぐに僕を見て言いました。緊張していたのか彼女の手は震えていました。

「えっ、僕?」とあたふたして答えたような気がしますがよく覚えていません。

お皿にひとつ残っていた唐揚げが気になっていたことだけはよく覚えています。僕たちにとっては、けっこう記念すべき場面だったにも関わらずそんなことしか覚えていないとは我ながら馬鹿というか呑気だなと思います。


正直迷いました。しかし真依は魅力的過ぎました。

僕ははっきり断ることはできず、目の前にいる美しい女性を今後自分だけのものにできるという男性としての素直な喜び、告白されたという高揚感、少しの酔いも手伝って真依の手をぎゅっと握りしめました。僕はとうとう婚約者がいることを言いそびれてしまったのです。


僕は昨年、学生時代から付き合っている同い年の彼女と婚約しました。そろそろ式場なども考えはじめようと思っていたところです。

すごい大恋愛かと聞かれればイエスとは言えないのですが、見た目も可愛いし肉体的な相性もそこそこいいと思っています。あと、婚約者の父親は資産家なのです。将来的には一戸建てを建ててくれることになっています。


婚約者は優奈といいます。

真依とは逆のタイプだと思います。

優奈はお嬢様育ちでほとんど何の苦労もせず大人になったんじゃないかと思います。

自分の婚約者をこんな言葉で表すのは気がひけますが、優奈は量産型で俗にいう“ゆるふわ”な女です。

世間知らずであり、流行りものが好きで、本は読みません。しかし、そういう子だからこそ僕は彼女を選んだのです。前にも言いましたがかなり可愛いしスタイルもいいです。そして何の知恵もないのですから。


真依は意外にも、僕以前に男性と付き合った経験がありませんでした。きれいで垢抜けていて会話も上手なのになぜ今まで出会いがなかったのか、僕は今でもそこが謎だなと思っています。

僕は真依と深い関係になってしまうと危険だとは思いましたが、僕が無理強いしたわけではありません。なにしろ告白されたのですから。

坂道を転げ落ちるというか、別に闇に転落したというわけではありませんが、何かフェーズがまるっきり変わってしまったと感じました。僕たちには余裕がなくなってしまったのです。

会えばすぐに二人きりになろうと常に焦っているふうで、一分でも惜しいといったあの感じ、恋愛に熱くなった経験がある人なら思い当たると思いますが、お互いの体に飽きるといった地点まで行かないとその状態は終わらないものみたいです。


彼女は僕しか知りませんでした。もっともっとと僕を強く求めるのです。どこからそんなエネルギーが沸いてくるのかわかりませんが、僕の肉体、精神、時間、全てを求めていた感じした。

僕は何人かの子と付き合ってきましたが、そんなに強く思われるという経験はなかったので、ちょっと人生観が変わりそうでした。僕は愛されているんだ。自己肯定感というんでしょうか、自信をもてるようになったのです。真依に感謝しなければいけません。


しかし真依の性格には少々問題があることに僕は気づき始めました。

しょっちゅう連絡が来ましたし、それに返信しなければ機嫌を損ねるだけではなく、次に会ったときに返信が遅かった理由などを説明しなければならないのです。そしていっそう激しく僕を求めるのです。それはもう疲れるどころではありません。

消耗、疲弊といったほうがふさわしいくらいです。

疲れてしまって僕の身体が反応しないと、浮気を疑う始末です。

しかし、実際は優奈ともちょくちょく会っていたので疲れがあるのはもっともなのです。真依との関係が浮気なのですから。


当時、僕は真依のマンションによく通っていました。

彼女の部屋はワンルームで、駅近で近所にお店も多く、片付いていてなんだか居心地が良かったのです。隣に生活音が漏れているだろうなという心配はありましたが。

部屋はマンションの八階にあり、エレベーター前は東西に吹き抜けた構造でした。エレベーターを待つ間、建物にあいたその長方形の穴から僕はよく遠くを眺めました。鉄塔やビルの隙間から、ちょっぴり富士山も見えました。暴風雨のときはちょっと困る構造でしたが。

ある風の強い日、真依との時間を過ごしてくたくたになった僕はいつものようにエレベーターを待っていました。

すると遠くから笛のような音が聞こえてきました。

例えるなら、たて笛を調子っ外れな音階でめちゃくちゃに吹いているような、淋しい不協和音が遠くから際限なく流れてくるのでした。

「真依、何の音かなこれ」

「“もがりぶえ”だよ。知らないの?」

真依はふふふと笑いながら、そのマンションにあいた大きな穴の縁に手を置いて外を眺めました。

強風が真依の髪をはためかせ、顔に激しく打ち付けているようでしたが、彼女は気にもせず、その不思議な音階を聞いていました。

そんな強い風の日に外出したことなどいくらでもあるはずなのですが、僕はその日はじめてもがりぶえなるものを聞きました。

「もがりぶえ、って入力してみて。後で」

めんどくさいというより、検索して詳しく読んでみて欲しいというふうに感じられる言い方でした。

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