26 「水中で開ける、ですね?」
「はい、屋根裏の住人が収録されている短編集を読みました。面白かったですよ。私、短編集という形の本を初めて読みました」
「なら良かったよ、短編集は読みやすくて良いスタイルだよね。まっ、短編集は読み手が優劣を付けがちなのが難点だけど。君もあったでしょう? この話は好きだけど、この話は少し……って言うの」
「えーと……?」
確かにそう言うのはあった。戸締まりをしながら主人の言葉の真意を考える。自分が受け取った本で短編集と言えばこの人が書いたヤツだけだ。それなのに正直に言って良いものか。どう返そうか悩み一瞬たじろぐと、それだけでこちらの気持ちを察したらしい主人がふっと目を細める。
「本当に君は馬鹿だよねえ、面白い小説なんて人それぞれだって。小説なんて他国料理みたいな物なんだから。食べなくても生きていけるけど、食べたら食べたで心か一つ豊かになる。他国料理でもデザート巡りが大好きな人が居れば、肉料理巡りが大好きな人も居る。それをうるさく言うシェフ、居ないでしょ? ……まあ寂しくはあるだろうけど、食べてくれるだけで嬉しいもんだよ」
僅かにこちらを向きながら言う主人の表情は、何時になくあどけなかった。先程まで気恥ずかしかった事も、もしかしたら忘れているかもしれない。絶望の中で始めた読書だっただろうが、この人はそんな事関係なく本が好きなのだ。曇天の中、快晴の下にいるような表情を浮かべているのだから。
同時に思う事があった。ウェズリーとデヴィッドの関係についてだ。上手く言語化出来そうになかったのでモヤモヤした気持ちを一旦横に置き、クスッと笑って主人に返事をする。
「そう言う物ですか。ウェズリー様は物語の事になると饒舌になりますね?」
「それで食べてるもんでね」
ウェズリーは何時ものようにふんっと鼻を鳴らし、門の外を歩いていく。こうやって前を歩かれると、主人の表情を見る事はおろか話しかけにくくもある。上手く逃げられたような気もしてほんの少しだけむっとした。
「……今日の天気は悪いですね」
だからという事もあり、珍しく主人に声をかけた。自分の世間話にウェズリーが小さく「そうだね」と笑う声が耳に届いた。
それ以降は特に会話はなく、リタは遠くで黒煙を上げているどこかの煙突をぼんやりと見ていた。少しして到着した王立劇場の前は何時だって活気がある。この人通りの多さを狙った露天商も数多く、客引きのラッパの音がしょっちゅう響いている。
そんな賑やかな通りの中一際背が高くて新しく、大きな煙突が目を引き付けて止まない建物が、デヴィッドが作った王立劇場だ。最近出来たばかりでありながら、劇団員なら誰しもここに立つ事を夢見ている。数ある公演ホールの一つを、今日はゲネプロに使う予定だ。
「立派な建物ですよね。ここの前を通る度、私はいつも息を飲みます。……デヴィッド様は本当に素敵な建物を造ります」
「そうかもね。っと……あの女性は」
珍しくデヴィッドを肯定した主人が、王立劇場の正面入り口に立っている女性の姿を認め、ふっと呟いた。癖の強いミディアムヘアの茶髪にはリタも見覚えがある。
「ジェシカ様っ!」
何時ものようにパンツスタイルの女性は、リタの声に気が付くと飼い主が帰ってきた子犬のようにパッと表情を明るくさせた。
「こんにちはリタさん! きゃっ、こんにちはウェズリーさん、今日は一段と良い男ですこと!]
「どうも。こんにちは、ジェシカ」
ウェズリーにお辞儀をされた私立探偵は、笑みを浮かべたまま機嫌良さそうにこちらに顔を向けてくる。
「うふふふっ、ウェズリーさん以前家に来た時よりも健康的に見えるわ。リタさんの日頃のしつ、じゃなくて働きが良いのね?」
「うーんどうですかね……ウェズリー様はどう思われます?」
ジェシカと話すと学生のような気分に戻ってしまう。隣で珍しい物を見るような視線を向けてくるウェズリーに冗談っぽく質問をすると、主人は表情を変えぬまま無言で肩を竦めた。どうも返事は貰えないようだ。主人の態度にくすりと笑うと、ジェシカが横で「それでね!」と話題を変えた。
「この前言ってたヴェルニコ持ってきたよ! 早く渡したくて外で待ってたぐらい」
褒めて褒めて、とばかりに向けられる笑顔が眩しい。
「覚えててくれて有り難う御座います! 私もですねっ、お礼にオートミールクッキーを焼いて来たんです、貰ってくれます?」
「きゃあっ嬉しい! クッキーの中で私一番オートミールクッキーが好きよ。あのザクザク感が堪らないのっ!」
「それは良かったです」
紙袋の中身をジェシカが気に入ってくれそうでホッとする。はい、とジェシカに小さくて可愛い紙袋を渡された。ズシリと重さを感じ自然と笑顔になりながらこちらも紙袋を渡した。
重量感のある紙袋を受け取ると同時に、差し出した紙袋の重さが消えた。ジェシカの表情につられ自分も笑顔になる。無言を貫いている主人はその間ずっと初めての物を見るような目で自分を見ていた。
「……リタさん。分かってると思うけど、ヴェルニコを食べる時は……?」
「水中で開ける、ですね?」
闇取引でも持ち掛けて来そうなジェシカの耳打ちにクスリと笑い、自分も重々しい様子で頷く。
「ふふふっ。私はこれで失礼します。ウェズリーさん、お引止めしでしまって申し訳ありませんね? 王立劇場は広いから、ゲネプロ会場はスタッフに聞くと良いわ。またね!」
大切そうに紙袋を抱え直した女性は淀みなく言い、ひらひらと手を振りあっという間に正面玄関の中に入っていく。自分も手を振り返しその背中を見送った。
「元気な人だよね」
「そうですね、私も思います。ウェズリー様、お付き合い頂き有り難う御座います。では参りましょうか?」
メイドは極力手が開いていた方が動きやすいので、貰った紙袋をメイド服のポケットにしまった。それを思って小さい紙袋にしてくれたのだと思うと嬉しくなる。頷き煤を払って正面玄関の扉を開けた主人の後を追い、リタも王立劇場の中に入った。思えばこの建物の中に入るのは、デヴィッドに付き添った時だけだったので新鮮だ。
王立劇場に一歩足を踏み入れると、そこには通りと全く違う世界が広がっている。ホールの天井には、寝台のように大きく、けれど寝台よりもずっと煌びやかなシャンデリアがぶら下がっている。フロアいっぱいに敷き詰められたベロア生地の赤いカーペットの上に、小綺麗な格好をした様々な老若男女がパンフレットを開きながら談笑を交わしているその景色は、社交界を彷彿させるには十分な物があった。
「会場、どこか聞いてきますね。少々お待ちください」
自分と同年代の女性達の視線が主人に向けられているのを感じつつ、リタは劇場スタッフと思しき正装の男性に声をかけた。劇場は繁盛しているようで、以前より人で賑わっている。内装に感心している声もそこかしこから耳に届くのでデヴィッドが褒められているようで、少々鼻が高かった。
ゲネプロ会場について男性に尋ねると、「こちらです」とすぐに話が通り、ウェズリーとリタは公演前のホールよりもひっそりとしたホールに案内された。扉に手を掛けようとした瞬間ふと内側から扉が開く。衝突を避ける為数歩身を引くと、中から見知った男性が姿を表した。
「うわっすみませ――ってリタちゃん?」
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