第五章 暗闇の中へ

25 「要らないあげる」

第五章 暗闇の中へ




 【廃劇場の殺人】のゲネプロが行われる今日、空はあいにくの曇り空だった。雨が降りそうな気配は無いが、気分の良い物ではない。リタは台所から窓の外を見て、溜め息をついた。昨日の気持ちも引きずっている。

 代わりに明日からの公演は晴れの日が続くと良いと思った。リタは台所のみならず室内に良い匂いが広がり出したオーブンの中のクッキー生地を覗き込む。鉄製のオーブン窯に入っているこれは、ジェシカにあげようと思って焼いているオートミールクッキーだ。ヴェルニコを貰うのだから、こちらも何か持っていかねば、と思い作っている。


「良い匂いだねぇっ」


 この匂いには人の気持ちを弾ませる力がある。段々と気持ちも軽くなってきて、子供のように口端を上げて焼き上がるのを待っていた。少し多めに作ったのでウェズリーにも出そうと思う。オートミールが好きなら絶対にこれも気に入ってくれる、そう思っていた時だった。


「……何の匂い?」


 ふと背後から声がし、悪い事をしていた訳ではないのにビクリと体が反応した。こんな朝っぱらにこの人が起きていた事は今まで無いので、驚く事しか出来ず棒立ちになってしまう。


「ウェズリー様!? お早うございます。今日は早いのですね?」

「こんな匂いがしてたら眠れないよ」


 まるでこの匂いが凶悪犯であるかのように吐き捨てながら、ぼさぼさの金髪をした寝巻き姿の青年はオーブン釜を覗き込む。


「何焼いてるの?」


 再び尋ねかけてくるので、体から力を抜きながら答える。


「オ、オートミールクッキーです。今日のゲネプロでジェシカ様に差し上げようと思って。先日お世話になりましたし、今日ヴェルニコを下さるそうなので、お礼になれば、と。同郷なんです、ジェシカ様と」


 ヴェルニコの名前を出すと、オーブン窯を覗いていた主人が三日三晩眠っていない人のようにうんざりとした表情を浮かべ、こちらを向いた。


「……まさかあの缶詰をここで食べる気?」

「大丈夫ですよ、ウェズリー様。ヴェルニコは確かに……場合によっては届け出が必要なくらいですが……あれは水中で開けるものなので、ウェズリー様の鼻には臭いませんよ。多分。ウェズリー様も食べます? あれのペーストを塗ったパン、しょっぱくて美味しいですよ」

「要らないあげる」


 口早に拒否した主人は深い深い溜め息をついた後、身を起こしてじろりと青い瞳をこちらに向ける。


「今日はもうこのまま起きて小説書いてようかな。集合時間早いし……。リタ、朝ご飯作ってくれる? 後このクッキー焼けたら僕にも頂戴」

「了解致しました。ふふっ、クッキーはそのつもりで多く焼いていますのでご安心ください!」


 早々に机に向かう主人の後ろ姿を見て、先回り出来たと勝ち誇って言う。


「……あっそ」


 自分の笑い声を聞いた主人の横顔は、見るからにふて腐れていた。その表情にもう一度笑い、柔らかくて甘い匂いが鼻孔を擽る中、オートミールをふやかす準備を始めた。

 主人の朝食の準備を進めている間にクッキーが焼き上がったので、すぐに冷めそうな小さいクッキーを数枚小皿に盛り、食卓にトレイを置いた。


「ウェズリー様! 朝食ここに置いておきますね!」


 声を張ると「んー」と気のない声が返ってきた。返事をしてくれる時は勝手に朝食を摂ってくれるのだが、今朝は思いの外早く主人が椅子から立ち上がった。どうやらクッキーが気になったらしく、礼を言って席に座った後一番最初にクッキーに手を伸ばしていた。ザク、ザク、と咀嚼音が周囲に響いた後、主人が口を開く。


「うん……、食べられる」

「そこは美味しいって言って下さいよ! もうっ。ウェズリー様、私少ししたらゲネプロの準備しに外しますね」


 目元を緩めて捻くれた事を言う主人に文句を言い、クッキーを包装紙に包んでから居間を後にした。アイロン台は離れに置いたままなので、アイロンをかける時は一旦離れに戻るのだ。扉の外は昨日よりもほんの少しだけ肌寒かった。




 ゲールに「うんとウェズを良い男に仕立ててきてね」と言われているので、あの小綺麗な人物にも納得して貰えるよう丹念にシャツの皺を伸ばした。

 今回はパーティーではなくゲネプロだが、恐らく隣に居る自分も値踏みされてしまうのだろう。少々気が重くなりながら、鏡台の前に座って自分の身なりも時間をかけて整える。身嗜みを整えた後、シャツと新しいジャケットを持って離れを出る。鍵を開けて屋敷に戻り、万年筆を手に思案している主人の隣に戻った。


「ウェズリー様!! お仕事中申し訳ありません。一段落付きましたらこちらに着替えて頂けますか!? それで良い時間になると思います」

「うわっ!? …………あーはいはい」


 何時ものやり取りを交わすと、主人は五年ぶりに腰を上げた人のように緩慢な動きで立ち上がった。こうやって主人に呼び掛ける度、有り得なさそうだが何時かこの人の心臓が破裂してしまうのではないかと心配になる。自分が抱えた服を取り退屈そうな表情を浮かべて二階に向かった主人と入れ違うように、リタは食器が置かれている台所に向かった。食器洗いのついでに台所の掃除をしていると、ガチャリと主人が戻ってくる音がした。時計を見ると、今から屋敷を出れば丁度いい時間に王立劇場に到着出来るだろう。


「おかえりなさい、ウェズリー様。さ、そろそろ行きましょ……」


 台所から顔を出し主人の姿を視界に映し言葉を飲んだ。墓参りに行った時も感じたが、質の良い服に身を包んだこの青年は、人気俳優にも負けないくらい格好いい。最近食生活もまともになったからか以前より健康的だ。ウェズリーの性格や態度を知っているからこそ落差が激しかった。


「…………」


 黒くて上等なジャケット、皺の無い白いシャツ、シルクハットのリボンの色と同じ赤いネクタイ。普段の姿からは想像出来ない紳士っぷりだ。思わず見惚れていると、居間を支配している沈黙に耐えられなくなったように顔を背けた主人が、ふんっと一段と大きく鼻を鳴らした。


「行くよ!」


 何かをはぐらかすように大きな声を出し、主人は身を翻して居間から出て行ってしまった。二回深呼吸をしてから、リタも準備をして急いで屋敷を後にする。屋敷のすぐ外には櫛の入った金色の髪をした青年が立っていた。とっくに通りを直進していると思った人物が居るとは思っていなかったので、「わっ」と驚き足を止める。


「そう言えば君さ本読んだ?」


 自分が屋敷を出るなり、他の話題は許すまいとばかりに尋ねてくる。その勢いに一瞬気圧されたが、もしかしなくても主人も気恥ずかしさを感じているのだと思うと、ふふっと笑みが溢れた。

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