27 「何で君が嬉しいのさ」


「あっ、カッレ様! こんにちは、邪魔をして申し訳ありません」


 扉越しに顎髭を生やした男性を認め頭を下げる。こちらが下がった事もあり、珍しくきちんとスーツを着ている男性が扉から姿を現した。髪と同じ茶色の瞳が主人を映し、見るからにホッと胸を撫で下ろしたのが伝わって来た。


「おっ、ちゃんと来たかウェズ! 今念の為お前の屋敷に電話を掛けようと思ってたんだ。まーリタちゃんが居るから大丈夫だとは思ったけどな」

「ふんっ、それはご丁寧な事で。そう思うんだったらもう少し早く電話を掛けなよ。今からじゃ遅いでしょ」

「悪いな、お前より大事な用があったんだよ。リタちゃん、ちゃんとこいつを連れて来てくれて有り難う」


 悪友のようなやり取りの後、カッレが開けておいてくれている扉に主人を追って着いていく。カッレの横を通る際主人はカッレに向かって鼻を慣らしていたが、どこか楽しそうだった。自分もカッレに挨拶をしてホールに入る。

 【廃劇場の殺人】のゲネプロ会場に選ばれたホールは、座り心地の良さそうな椅子が下り階段状に連なっており、視界が開けている。一番後ろの席でも十分に舞台が楽しめそうだ。


「わあ……っ!」


 思わず感嘆の声が口から零れ落ちた。観劇経験が少ないだけに関係者しか居ないホールが新鮮に映る。舞台袖を忙しなくスタッフが行き来しており、その奥にタキシードを着た若い俳優が見え胸が躍った。遠目からでも分かる程雰囲気のある青年は、街中の様々なポスターに起用されている人気の俳優だ。ちらりと主人に視線を向けると、主人は何も言わずに、けれど食い入るように舞台を見つめていた。


「……感動する物があるなあ」


 ぼそっと呟きが聞こえてきた。この光景を脳裏に焼き付けようと青い瞳が見張られている。何時もふてぶてしいウェズリーにしてはらしくない表情だったが、今の主人の気持ちはリタにも十分理解出来た。自分の気持ちが詰まった物が形になると、誰だって心が揺さぶられる。


「私も嬉しい物があります」

「何で君が嬉しいのさ」


 感慨が抜け切っていないのか、どこか惚けた声でウェズリーが反応をする。それに微笑を浮かべるだけで返事をすると、すぐ後ろの階段からカッレが囁きかけてきた。


「仲睦まじいところ悪いんだが、おいウェズ、前にハイディ伯爵が座ってるの分かるか? 挨拶しとけっ!」


 「一言余計なんだけど」と主人は唸る様に言う。一番前の席で使用人達に囲まれながら準備中の舞台を興味深そうにハイディは眺めていた。主人はカツカツとハイディに近寄り話しかける。何を話しているかまではこちらまで聞こえて来なかったが、何だか主人が違う生き物に見えてしまった。


「立派なところもあるんですね、ウェズリー様」


 近くを歩いている編集者にだけ聞こえるように呟くと、カッレが可笑しそうに喉を慣らして笑う。


「って事は俺が知ってる以上に家じゃ駄目人間なのか? あいつ」

「カッレ様がどんなウェズリー様をご存知かは知りませんが、魔境で眠れてた方ですしね」

「あー、リタちゃんもついにあそこに足を? 確かにあそこを形成した人物とあれが同一人物と見抜ける人は居ないだろうなあ」


 ぼそぼそと話している内に階段を降りきった。一番下の通路は大きいが、スタッフの往来も殊更多い。ここまで来ると、階上では分からなかったスタッフの声もよく耳に入ってくる。俳優同士が話している声が耳に届いた時は思わず体が震えた。


「おい、リタ!」


 あちこちに注意が奪われがちな中、不意にハイディに名前を呼ばれた。舞台俳優のように良く通る声だった。条件反射で背筋を伸ばしてしまう。


「こんにちは、伯爵。先日は有り難う御座いました」

「良い。それより怪我は大丈夫か?」


 ハイディの元に近寄っていきながら頷く。ハイディの周囲には俳優や女優のような人も多かった。それらの視線が自分に集中しており居心地が悪い。


「はい、お陰様で。今はこの通りピンピンしております。本当にお世話になりました」


 傍に寄り深々と頭を下げる。「それは良かった」と壮年の男性は嬉しそうに言い、改めてこちらを見上げた。


「私は演劇が好きでここには通い詰めているが、ゲネプロは初めてだ。こうして舞台裏を覗くのも勉強になる」

「そうですね。煌びやかな物には色々な人が関わっているのだと、改めて思い知らされます」

「全くだ」


 その時、自分とハイディの合間に割って入るように黒いドレスに身を包んだ女性が近付いて来た。勝気な表情を浮かべている綺麗な人だ。その人はリタに一瞥もくれる事なくハイディの前に立ち、しなを作るように両手を胸の前に組んでいた。


「はーくしゃく! 今日は来てくれて有り難う御座いますぅ」

「おおっ、久しいなっ!」


 女優と思しき人物を見て頬を緩ませるハイディの意識はすっかり自分から外れてしまった。後ろに下がる時、顔見知りのハイディのメイドから「今日のウェズリー様格好いいね」と耳打ちされ頬が持ち上がる。

 ふとウェズリーの方に視線を向けると、ウェズリーは見知らぬ男性とカッレと何やら話し込んでいた。執筆中の時のように真摯な表情を浮かべていたので、打ち合わせだろう。

 急に手持ち無沙汰になってしまった。大人しく隅の方で主人の打ち合わせを見ておこう。ふと後ろから声をかけられた。


「あらっ、リタちゃん! 暇そうねえ?」


 特徴的な男性の高い声。振り返ると、廊下に赤いロングヘアの男性が立っていた。新しい灰色のジャケットにきらりとルビーのブローチが光っている。ゲネプロの準備を手伝っているらしい。


「ゲール様、こんにちは。はい……ウェズリー様が打ち合わせをしている間、見ての通り私は無職なんです」

「ふふふっ。だったらあの丸椅子を照明室に持っていくのを手伝ってくれない? お給金は上げられないけど、後で私のチョコレートをあげるわ! 今日のウェズ、凄い良い男ね。リタちゃんの仕事が良いのかしら、健康的になった気がするわ」


 冗談交じりにゲールに有り難い提案をされ、パッと表情を明るくさせ頷く。この人の為に主人の身なりに尽力したような物なので、そう言って貰えて素直に嬉しかった。


「是非手伝わせて下さい! それと、ふふっ、有り難うございます」


 頬を緩ませ、早速廊下に出て示された丸椅子を抱え込んだ。


「ごめんね、照明スタッフが増えちゃって」


 いえいえ、と首を横に振り教えて貰った従業員用の廊下から照明室に向かった。ゲールとその従僕は台本が入った木箱を抱えている。廊下はホールよりも静かで涼しく、ホッとする物があった。劇場に行く事はあっても照明室に行く事なんて無い。初めて足を踏み入れる場所に胸が高鳴った。

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