初夏色ブルーノート
けんこや
初夏色ブルーノート
待ち合わせの時刻までにはまだだいぶゆとりがあったので、明子は大通りに面した喫茶店へと足を向けた。
休日の午前中、店内の客はまばらだった。
閑散とした客席にはジャズのスタンダートナンバーが静かに響き渡っている。
ああ…この曲調…。
明子はこみあげてくる想いに蓋をするように小さく唇を噛むと、これから会う予定になっている相手のことに思考を巡らせた。
◇
明子には新しい恋人がいる。
付き合い始めたのはごく最近だが、知り合いとしての間柄は古く、同期入社として初めて顔を合わせてからもう十年になる。
長く同じ社屋ではあったが、部署がやや遠く、たまに顔を合わせる程度だったのが、近年発足した共同プロジェクトによって急激に距離が縮まり、打ち合わせを兼ねた食事を重ねているうちに、休日に一緒に出かけるようになり、そしてつい先日、唇を重ね合わせたばかりである。
正直なところ、恋人と呼んでいいかどうかもよく分からない。
現代的な感覚でいえば、友人に毛の生えた程度と呼んでも差し支えがないのかもしれない。
でも、少なくとも今の明子にとって、まぎれもなく生きている人間の中では最も信頼し、最も好意を抱いている男性である。
そして、その彼との口づけの直後に、明子は婚約を求められたのであった。
◇
当然、即答できるわけがない。
関係性としてはまだせいぜいキスをした程度であり、まともな大人であればどう考えても「婚約」に結びつくまでの手順をいくつも飛び越えているだろう。
瞬間的に一切の言葉を失い、思わずその胸元を両手で押し戻してしまった明子に、彼は激しく動揺を示した。
それからぽつんと謝罪の言葉を口にすると、自らの非礼を恥じながら、「突然の海外赴任の辞令」という事情を説明し、独り寂しそうに帰って行ったのだった。
街灯の下、大きな背中を小さく丸めて、とぼとぼと遠ざかってゆく後姿には、思わず走り寄って抱きしめずにはいられないような哀愁があった。
互いに三十路を過ぎた間柄である、そのうえ日本を遠く離れてしまうという途方もない環境の変化。焦りもあったし、様々な葛藤もあっただろう。それを思うとこの突飛な申し出にいたった心情も察することができないわけでもない。
かといって明子には「ハイ喜んで」などと安易に返事が出来ない事情がある。
彼としても、明子が抱えているその事情についてはよくよく知っているはずであった。
だからこそ、思いが積もりに積もって、こんな突拍子もないことになってしまったのだろうか、それを思うと尚の事、その手を安易にうち払ってはならないような気もする。
明子は、少し考えさせて欲しいという旨のメールを打つと、出発前にもう一度二人だけで会って、話をする日時を取り付けたのだった。
それが、今日という日である。
◇
カウンター席のガラスの向こう側には、大通りが見渡されている。
初夏の日差しが街路樹をつらぬき、緑の光線を広げている。
明子は注文したコーヒーに口をつけることもせず、ただぼんやりと、通りを行き交う人々の姿を眺めていた。
返事をしなければならないその当日を迎えてしまった。
ところが明子の心はまだ定まっていなかった。
素直に受け止めればありがたい話である。
齢三十を過ぎ、世間的に見れば適齢期と言ってもよい。
相手も、明子にとってもったいないほどの良き人である。
誠実で実直で、その人柄の良さは年を重ねるほどに厚みを増してゆく。
若い頃に彼が経験してきた辛酸も苦難も、同期としてよく聞いていたし、それを乗り越えたからこそ、将来を担う一人として海外に赴任することになるという経緯も十分すぎるほど理解できる人物である。
人となりも気質もよく知っていて、彼との生活はいともたやすく目に浮かべることができる。よほど変態的な趣味や性癖でも隠し持っていない限り、決してその生活が破綻することはないだろう。
しかしそこまでの確信がありながらも、明子には決して首を縦にすることができない理由がある。
明子は、七年前に最愛の夫と死別しているのだった。
◇
わずか一年に満たない新婚生活。
その半分は夫の病魔との闘いだったが、全身全霊を愛に注ぎ込んだ壮絶な一年間だった。
夢のような愛に溢れた日々と、やせ衰えてゆく夫の体からにじみ出る死の影。
叫び出したくなるような壮絶な日常の中、生涯に費やすべきエネルギーを吸い尽くしてしまうかのような、恐ろしいほど純度の高い毎日。
そして、小さな壺になってしまった智昭を墓石に納めたとき、自分には一切の色が失われた世界しか残されていないのだと思ったのだった。
以来、明子はかたくなに夫の姓をつらぬき、かげ膳を欠かすこともなく、月命日のお参りをつづけている。
しかし七年という歳月は、枯渇していた明子の心が再び潤いを取り戻すに十分な時間だった。
楽しいことを悪びれることなく楽しいと感じるようになり、テレビのバラエティに屈託なく笑い、ごくあたりまえの事をあたりまえに感じ取り、そして忘れてゆく。それが良いことなのか悪いことなのかも分からなくなってきている。
周囲も、近しい人であればあるほど再出発を勧めることをはばからなくなってきている。
例えば智昭の七回忌の法要の後などは、義母も義父も改まって明子の将来を案じ、せめて籍だけでも戻したほうがいいのではないかとしきりに諭して来るのであった。
その方が、智昭が安心するだろう、と。
◇
店内を流れるジャズナンバーが、明子を優しく包む。
明子はコーヒーにひとくち口をつけると目を閉じ、心に染み渡るブルーノートスケールにゆったりとその身を浸した。
その旋律はいやがおうにも智昭との蜜月を呼び起こさせる。
智昭との出会いは友人の結婚披露宴だった。
座っていた時はほとんど存在感が無かったのだが、新郎側の余興にサックスを手にふらふらと登場し、定番の結婚式ソングを演奏したとたんに会場全体の注目を鷲掴みにしたのである。
音大でサクスフォーンを専攻していたというその実力は、会場の誰もが思わず息をのむほど素晴らしく、その方面に全く関心のなかった明子の魂が、まるでその音色に導かれるかのように智昭のほうへと吸い寄せられていったのだった。
それから明子の方から積極的にアプローチをし、それに響き合うかのように智昭の心に火がともり、情熱的な恋愛から結婚へと結びつくまでにそう時間はかからなかった。
智昭は優しい人間だった。まるで怒りという感情をどこかに置き忘れてしまったのではないかと思う程、その性格には棘というものがなく、およそ利己というものを考えない人だった。
それゆえか、どこか生活感がスコンと抜けたようなところがあり、例えば勤務している個人経営の楽器店では無茶苦茶にこき使われながらも、嘘のような薄給に終始ニコニコと笑っているのである。
智昭は朝から晩までひたすら店に従事し、明子は明子で勤務先の大手広告代理店は残業が定常化しており、お互いの生活は何かとせわしなかった。
それでも、共に過ごす時間の限りを、互いに癒し合いながら、融け合い、混ざり合うようにして日常を営んでいた。
そしてその背後には、智昭が厳選した甘く、ゆるやかなジャズの調べが、月夜の海のように二人の世界を包み込んでいた。
かけがえのない時間だった。
◇
窓の向こうで、街路樹が風にあおられていた。
少し強い風が吹いたようで、枝という枝、葉という葉が一斉に踊り出す。
通りを行き交う人達が、一様に立ち止まり、足元をおさえ、顔を背けた。そしてまた、何事もなかったかのように歩き出していった。
明子はガラス窓の向こう側に広がるそれらの光景を、ただ茫然と眺めていた。
七年間。
智昭が亡くなってから七年間、明子は智昭と過ごした時間を思い出さない日は無かった。
智昭との時間を記憶に呼び起こすほど、その記憶は研ぎ澄まされ、不純物の取り除かれた結晶のように、心の奥深くで光を放つ。
そうして、その思い出を心に携えながら、生涯をたった一つの愛でつらぬく。
それが、自分にとってのたった一つの幸せなのだと考えていた。
ところが最近では若干その考えにも変化を兆し始めている。
時間がたてばたつほど、現在の量が過去を遥かに凌駕する。
そして未来が、目の前に無数の行く先を広げてゆく。
その中には智昭との思い出に身をゆだねながら生きてゆくだけじゃない、別の生き方がありありと姿を晒すこともある。
そして智昭との時間を宝石のように愛でている自分の姿が、例えようもなく不憫に思えてくることもある。
新しい生き方…。
新しい人生…。
法事の時の、義父の言葉が脳裏をかすめる。
「その方が、智昭が安心する…」
そして今、私という存在を心の底から必要としている人が現れている…。
◇
ふと、明子の耳によく聞き覚えのあるメロディーが響いてきた。
明子の頬が緩やかにほころんだ。
智昭との生活の中で、明子にも通り一遍のジャズの知識は身についている。
1960年代にNYのクラブで収録された、ジャズ史に残る名盤「
これは智昭が最も好き好んで聞いていたものだった。CDだけでなくLPレコードまで所有しており(それもプレーヤーがないのに)、額に入れて居間に飾っていたのである。当然、日常的にその演奏が明子の耳に入ることも多かった。
今、この場所で、このタイミングで、この演奏。
それはただの偶然のようにはとても思えなかった。
明子は隣の席に智昭を思い浮かべながら、心の中でそっと語りかけた。
私はどうすればいい?
すると、明子の脳裏に不思議な程鮮やかに、確信めいた答えが思い浮かんできた。
それはまるで智昭が直接語り掛けてくるかのように、明子の心の中にすんなりと染み渡り、揺るぎないものとしてすとんと腑に落ちた。
明子は思わず隣の席をはっと振り向いた。
席は空席のままだった。当然そこに智昭の姿はなかった。
店内には
◇
喫茶店を出ると、カラリとした風が明子の額をさっと吹き抜けた。
木々の隙間から差し込む初夏の日差しに、明子はそっと目を細めた。
これから忙しくなる。
各方面への報告、連絡、諸手続きはどれほど必要になるのか。
なんと言っても海外に住むことになってくるのだ。分からないことは山ほどある。
だけど明子にとってすべてが新鮮な経験だ。
もちろん智昭のことを忘れてしまう訳ではない。
智昭は、もはや明子を構成する一部として永遠に心の中に生き続けている。
ゆっくりと、丁寧に説明しよう。
きっと彼は、それも含めて明子自身である、ということを受け入れてくれるに違いない。
日差しが眩しい。
明子は真っ白に輝く歩道を、彼との待ち合わせ場所に向かって颯爽と歩いていった。
(終わり)
初夏色ブルーノート けんこや @kencoya
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