家庭内労働者

増田朋美

家庭内労働者

家庭内労働者

もう初夏になってしまったような、そんな暑さの続く日々だった。もうこのまま梅雨が開けて、夏になってしまうような、そんな日々が続いている。

その日御殿場駅近くの小久保法律事務所では。

「何とか、先生の力をお貸しください。よろしくお願いします。」

と、身なりのきちんとした男性と、諸星正美さんが、弁護士の小久保哲哉さんに、頭を下げていた。

「はあ、、、分かりました。なぜ、大企業の企業主である方が、こんな地方の法律事務所に来られたのか、理由がわかりませんが、とりあえず、事件の概要をお伝えして貰えないでしょうか?」

小久保さんは、驚いた顔をして、そう聞いてみた。だって、目の前にいる男性は、静岡県では有名なお茶の製造販売を手掛けている宮下製茶の社長の宮下光吉さんであったから。それに、なぜ、諸星正美さんが一緒にいるのだろう?

「ええ、なんでも加害者が、軽度の障害者であったために、大した報道もされませんでしたので、ご存じないかもしれませんね。妹の宮下直は、メイドとして雇われていた家庭の息子さん、まだ、赤ちゃんだったんですが、その子が洗濯物をかぶっていたのを放置したまま、殺害したという事件を起しました。そういうわけで、彼女、宮下直の弁護を御願いしたいんです。直の仕事仲間である、諸星正美さんから、先生の評判を聞きまして、それで御願いに参りました。」

宮下さんは、もう一度頭を下げた。

「はあ、そうですか。でも、もう腕のいい弁護士がついていてもおかしくないはずなんですがね。」

小久保さんがそういうと、

「ええ、そうなって当然というか、誰でもそうなると予想されると思います。事実、何人も弁護士候補を用意させましたが、妹はだれに対してもわからないわからないの連発、事件の事も全くしゃべりませんので、何も進まないんです。なので、皆さんすぐにさじを投げてしまって。それでは行けませんから、先生に御願いしたいというわけで。」

「あたしからも御願いします。直さんが、少しでも軽い処分で済むように、先生に御願いしたいんです。」

宮下さんと、諸星正美は、つづけてそういった。

「直は、確かに、不自由なところがありました。でも、其れだけが彼女を犯行にいたらせたとは思えないんです。多分法律上では、知的障害ということになるのかもしれませんが、其れだけが直のすべてではありませんから。」

小久保さんは、とりあえず事件の詳細を聞いてみることにした。それによると、加害者宮下直は、諸星正美と一緒に、富士市内の石井という裕福な一家のもとで、家事使用人として働いていたようである。宮下直は、確かに知的障害のようなものがあり、名前はいえるが、自分の住所もわからないという。石井家は、裕福な家庭ではあったのだが、夫婦は共働きで忙しく、家事使用人を頼むことにしたという。それで雇われたのが、諸星正美、そして宮下直だった。なんでも使用人を斡旋した会社では、イギリスのヴィクトリア朝時代に流行っていた、家事に応じてメイドを役割分担させて、雇わせるというちょっと変わった取り組みをさせていた。いわゆるハウスメイドという家事全般をこなさせるという形態ではなく、料理の手伝いをさせるキッチンメイドとか、洗濯ものを干したり畳んだりするランドリーメイドという風に役割を決めて雇わせるという取り組みである。現在メイドとか、家事使用人というと、炊事洗濯掃除をこなすハウスメイドと呼ばれるものが主であるが、そうすると、大変な激務で成り手が少なくなることから、正美たちが所属している会社では、役割を分担させてその中に単純な作業であれば、障害のある人でもやってよい事にしていたようだ。石井家でランドリーメイドとして働いていた直は、石井夫妻の子供であった、まだ生後一年にも満たない赤ちゃんの徹君を、洗濯物を被せて窒息死させてしまったというのだ。

一方そのころ、事務室では、杉ちゃんが事務員のおばさんと話していた。

「本当にやってくれるかな、小久保さん。あの、宮下光吉さんの話しでは、結構ほかの弁護士にも馬鹿にされたりしたことの多かったようだからな。まあ、僕も経験あるけどさ、歩けないとか、そういうだけでも、馬鹿にする人は結構いるからな。」

「大丈夫大丈夫。小久保先生は、弱い人の話しにはすぐに乗る人だから。もう若いころからずっとその性分なのよ。」

事務員のおばさんは、もう慣れ切ったというか、平気な顔をしている。

「まあ、難しい問題だろうけどね。事件の内容だけ取ると、単純な事件だけど、その人が知的障害のある人だって言われてしまえば、より複雑なところが見えてくるだろう。」

杉ちゃんがそういうと、

「まあねえ。障害のある人は、今までは家に閉じ込めて当たり前だったからね。メイドとして、働らかせて貰えることはいいのかもしれないけど、こういうトラブルも起きてしまうのかな。」

事務員のおばさんもそう返した。

同じころ、応接室では、事件の概要をノートにまとめた小久保さんが、

「分かりました。とりあえず、妹さんとあって、話をしてみます。妹さんがどこまで信頼してくれるかわかりませんが、やれる範囲で頑張ってみます。」

と言っていた。宮下さんと正美は、ありがとうございます!と言って頭を下げる。

「それでは、本人と会ってみましょうか。とりあえず、妹さんのいる、拘置所を訪ねてみましょうか。」

小久保さんがいうと、宮下さんは自分は仕事があるので、あとは諸星正美さんと、一緒に来た影山杉三さんに御願いしたいと言った。その言い方が、実の兄であるはずなのに、余所余所しい感じだったのは、やはり妹の直さんが、障害者であるせいではないかと思われた。そそくさと事務所を後にする宮下さんを見て、やっぱり何か事情がある人だなと杉ちゃんがつぶやいたほどである。

杉ちゃんと、諸星正美に付き添われて、小久保さんは、宮下直さんが収監されている拘置所にむかった。受付で宮下直さんにお会いしたいというと、受付も嫌そうな顔をしている。聴けば彼女を取り調べた刑事も、また検察官も、彼女に接見して、困らされたようなのだ。とりあえず、小久保さんたちは、彼女に会うために面談室に行った。

「初めまして、宮下直さんですね。弁護士の小久保と申します。お兄さんから、あなたの弁護を依頼されて、こちらに参りました。よろしくお願いします。」

小久保さんは、目の前にいる被告人を観察した。女は小柄な女で、やや太った感じの女性である。でも、その体躯のわりに、目は小さくて、確かに障害のある女性という感じだった。諸星正美が、小久保さんの隣に座ると、彼女は、諸星がきて嬉しいと思ったのか、にこやかに笑った。

「今回は、殺人事件の話しについて伺います。まずあなたは、石井徹君という乳児に、洗濯物を被せたまま放置して、殺害したのを認めますか?」

小久保さんが、とりあえず形式的にそういうと、彼女、宮下直はよくわからないという顔をした。

「小久保さん、そんな言い方をしちゃだめだ。もうちょっとかみ砕いて話をしような。まず初めに、お前さんは、石井さんという金持ちの家に、洗濯物を干したり畳んだりする係として毎日通っていた。これは合っているかな?」

と、杉ちゃんがいうと、

「はい、毎日いっていました。」

と彼女は答える。

「そうか。それじゃあ、事件があった日の事を思いだしてくれ。あの時は洗濯物をたたんでいたのかい?」

と、杉ちゃんが聞くと

「はい。そういいました。」

と彼女は答えた。

「そうですか。ではなぜ、洗濯物が、徹君の顔に当たったんだ?」

と、杉ちゃんがいうと、

「わかりません。」

と彼女は答える。小久保さんが、何回か質問をしてみたけれど、彼女はわかりませんとしか応えてくれなかった。諸星正美が、事件の事を正確に話してと言っても、彼女は、其れしか反応できないようで、何を聞いてもわかりませんというばかり。事件の事なんて何も聞くことができなかった。

「それでは、本人から事件の概要を知ることができないということになりますな。」

と、小久保さんがそういうと、

「まあ、それはしょうがないよな。彼女だって其れなりに一生懸命答えようとしているんだと思うよ。それに、嘘をつくとか、そういうことは難しいだろう。まあ仕方ない。周りの人間に話を聞いて、それで状況を知るようにすればいいさ。」

と、杉ちゃんが急いで言った。杉ちゃんすぐに切り替えることができてほんと凄いなと、正美は思った。これだけわからないという言葉が続くと、誰でもイライラしてしまうことだろうから。

とりあえず、三人は、その日は帰ることにした。面会室を後にすると、守衛が出てきて、

「どうですか、彼女。何かしゃべりましたか。またわからないとか、そういうことを言っているんじゃありませんかね。よく、刑事さんたちが話していたのを立ち聞きしていましたが、彼女はわからないとしか答えず、事件にどこまで関わったのか、全くわからないと言ってました。」

と小久保さんたちに話した。

「全く、今回の被告人は困ったものですね。弁護士の先生にも、そういうことばっかりいって、それでは、全く捜査も弁護も進まないですよね。」

「あのなあ。そうやって面白がることこそ、究極の人種差別だと思うぞ。そうやって面白がることで、彼女はかなり傷ついていると思うからな。そういうやつは、差別には敏感だぞ。ちゃんとした態度で接してやらなければだめだ。」

杉ちゃんにそういわれて、守衛は

「そんな事、言っているつもりではありませんがね。」

といったのだが、

「ダメダメ。口ではそういっても、お前さんの顔は、面白がっていることが見え見え。彼女はそういう事をちゃんと知っている!」

と杉ちゃんに言われて黙ってしまった。

「まあ、確かに、これまでこういう障害のある人を見たことがない人がほとんどでしょうから、そう思ってしまうこともあるかもしれませんね。」

小久保さんもそういった。

「諸星さん、一緒に働いて、彼女はどうでしたか?」

「ええ、確かに洗濯物を干すのとたたむのしかできないですけど、一生懸命やっていたと思います。だから、私は、彼女が徹君を殺したとは思えないんですよ。彼女が、徹君に洗濯物を押し付けたと警察の方や、検察官が言ってましたけど、果たして彼女に、意図的に洗濯ものを押し付けるということは、できたんでしょうかね?」

正美は小久保さんの質問に答える。

「そうだなあ。僕もそこが引っかかるな。その徹君という子は、どんな子だったのか、聞いてみたいもんだね。」

杉ちゃんもそういうことを言った。そこで三人は、そちらの方に視点を変えて調べてみることにした。とりあえず、徹君がどんな赤ちゃんだったのか。彼女がメイドとして雇われていた、石井さんの屋敷に行ってみることにする。

石井家は確かに裕福な一家であることは確かで、家賃が何十万もかかりそうな、大規模なマンションに住んでいた。こんな高級マンションに住めるほど裕福な経済力があるなら、メイドを何人か雇っても不思議ではなかった。

小久保さんたちが、とりあえず、インターフォンを押してみると、主人の石井さんは出かけていて、応答したのは奥さんだけであった。

「子供さんをなくされた方に、犯人の弁護をする人間が質問をして申しわけありませんが、徹君がどんな赤ちゃんだったか教えてください。どんな些細なことでもいいですから。よくなく赤ちゃんだったとか、人見知りをする赤ちゃんだったのかとか。」

と、小久保さんが奥さんに聞くと、

「ええ。確かに、徹はよく泣きました。熱や湿疹もよくありました。でも、今回の事は、どういうことなのか私もよくわかりません。しかしなぜ、徹が死ななければならなかったのか、私もわからないんです。」

と奥さんは答えた。

「えーと、通報したのは、どなたでしたでしょうか?」

小久保さんがそういうと、

「ええ。今は出かけていますけど、主人がしました。」

と、彼女は答えた。その時の状況を教えてくれと小久保さんが聞くと、徹君は全身を洗濯ものでおおわれたまま死んでいたという。そして、ほかの洗濯物を、彼女、宮下直さんはたたんでいたという。

「それでは、宮下直さんは、洗濯物が落ちれば、徹君が死ぬ可能性があるってことをわからなかったということかな?」

と、杉ちゃんがいうと、

「その可能性は十分ありますね。彼女のような障碍者なら、そういう事が起きるということは予測できないと思いますよ。」

と小久保さんは言った。

「でも、彼女だって、そうなることくらいわかっていたと思うんです。赤ちゃんが、自分で頭に被られた物を外せないということは、知らなかったのでしょうか?」

ちょっと逆上して奥さんがそういうと、

「知らないと思うよ!」

と杉ちゃんが言った。

「すくなくとも、そういうことは予測できないと思う。そういう奴に洗濯物をたたませて、徹君の事をまかせっきりにして外出してしまうということも問題じゃないの?」

「だって、あたしたちは出かけていたんですから、仕方ないじゃありませんか。一応、使用人だって二人雇っていましたし。どちらかが、ちゃんと見てくれるだろうと私は思っていたんです。それがなんで問題があったなんて言われなきゃならないのでしょうか!」

「ごめんなさい。私の責任でもあるのでしょうか?」

と、正美は思わず言ってしまった。

「私も、キッチンメイドとして、料理を作ったりしていて、それに夢中になって、そんなことが在ったなんて全く気が付きませんでしたから、、、。」

「正美さんが謝ってもしょうがない。」

と、杉ちゃんはいった。

「もしかしたら、誰か普通の人がいてくれたら、私たちは事件に合わなかったかもしれないんです。なんで、こういう障害のある人を雇用しなければならないんでしょうか!私たちは、安全に暮らせるのが幸せです。ですが、あなた方のような人は、何かあったらこうして対応できないじゃありませんか。そうだから、私たちは、障害というんじゃありません?」

「まあねえ、石井さん、そういうことはわかるんだけど、でも、この世の中には、色んな奴がいるもんだよ。」

と、杉ちゃんが言った。

「そういうやつがいるっていうのが、社会というか、そういうもんだと思うんだけどね。」

「でも、私たちは、大事な子供をなくしたんです。故意に洗濯物を被せたわけでは無いといっても、でも結果として、子供をなくしました。それがなんで、私たちが悪いということになるのでしょうか!」

と、石井さんの奥さんは涙目になっていった。

「まあ確かに虚弱な赤ちゃんだったとか、色んな要素があると思うけど、それが重なったとしか言いようがないこともあるよな。」

杉ちゃんがそういうと、石井さんの奥さんはもう帰ってくれといった。もう、犯人の弁護をする人になんて会いたくもないという。まあそれはしょうがないというか、そう思われても仕方ないということだった。杉ちゃん一行は、もうしわけありませんと言って、石井さんの部屋を後にした。

とりあえず、杉ちゃんたちは、ちょっと休憩のつもりで、富士駅近くのカフェに入って、コーヒーを飲むことにした。

「まあねえ。仕方ないというか、この事件は誰が悪いというわけでも、わからないんだ。あの彼女だって、一生懸命仕事していたんだろうし、諸星正美さんだって同じことだった。石井さんたちだって、手伝っている人を信頼して出かけたんだろうし。その中で、洗濯物が、徹君の顔にかかってしまって、徹君は死んでしまったということだけで。」

「あたし、やっぱりこの仕事には向いてないのかなあ。」

諸星正美はひとつため息をついた。

「いやあ、お前さんが自分を責める必要はないんだよ。お前さんだって、メイドの仕事をちゃんとやってたんだろ?」

杉ちゃんがいうと、

「いえ、なんかこういう事件があると、のうのうと仕事をやっているのが、恨めしいというか、自分が憎らしく感じるのよ。」

と正美は答えた。

「まあ、でもね、人生はいろんな事があるもんだぜ。その中でも私は関係ないって、割り切ってやらなきゃならない事もあると思うよ。お前さんだって、やっとつらかった無職から卒業できたんだから、それで辞めちゃうのは、もったいないんじゃないの?」

杉ちゃんがそういって彼女を励ますが、

「いいえ。私は無理よ。徹君どころか、彼女、宮下直さんにも申しわけないわ。それで無職に戻るんだったら、それが私への罰だわ。」

と正美は小さな声で言った。

「そうか。なんか、そんな感じで辞めちゃうのももったいない気がするが、でも、お前さんが決めたことだからね。」

「きっと、そういう優しい気持ちがあれば、それを生かして仕事ができるといいですね。」

小久保さんも、杉ちゃんに続いて正美を励ました。

「小久保先生、宮下直さんはどうなるのでしょうか?」

「そうですね。彼女は、とりあえず知的障碍者ということになりますから、まず初めに責任能力があったかということと、彼女に徹君を殺害する動機があったかというところが重点になると思います。そのあたりも、本人から事情を聞き出すことができないので、はっきりとした証拠を見つけられるかが、山ですね。」

正美が小久保さんに質問すると、小久保さんは弁護士らしく答えた。

「いずれにしても、故意に洗濯物を、徹君の顔に当てるということは、彼女は絶対無いと思います。だって私が知る限りの、宮下直さんは、とてもまじめで働きものです。確かに、ほかの人がするような仕事はできなくても、ちゃんと洗濯を毎日こなしていました。だから、彼女にばかり、罪を押し付けるというのは、できればしてほしくないですね。」

「ええ、わかりますよ。正美さん。でもあなたも泣いているわけには行きません。あなたが証言台にたって貰わなければならない日も出てくると思います。」

そういう正美を、小久保さんは、静かに励ましてあげた。

誰のせいでもないけれど、そういうことが、起きてしまうんだということだ。誰が悪いわけでもないけど。人間にはできないこともある。



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家庭内労働者 増田朋美 @masubuchi4996

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