第45話 ユラノス

 竜騎兵の威力は絶大だった。

 基地より飛び立った6騎の竜騎兵は、イザム上空でちょうど物資の揚陸作業にあたっていたリハルト軍とかち合った。


 突然現れた謎の生き物にリハルト軍は困惑しながらも善く応戦した。しかし放たれる銃弾や高射砲はことごとく弾かれ、逆に敷いたばかりの防衛陣地はことごとく竜によって破壊されていく。文字通り、赤子の手をひねるようだ。


 特にウヌンは、まるで身の内に昂ぶる何かを吐き出すかのように、時折背に乗る兵士の指示を無視して炎を吐きまくった。ウヌンを操る兵士はその力に酔いしれ、角を通した自分の命令を聞かない事さえ忘れていた程だ。


 イザムの敵兵を掃討すると間もなく、リハルト軍が竜騎兵の基地に向かっているとの情報が入り、竜騎兵隊はすぐさま反転しシナークへと戻った。本来であればルーデンバース沖の敵艦隊を攻撃する筈だったが、それ以前に拠点を潰されては堪らない。


 6頭がシナークに戻りリハルト軍と交戦を開始してすぐ、ウヌンに異変が起きた。

 それは少量を露出して置いていた、カルァン石の近くに降りた時だった。

 ウヌンに乗っていた兵はすっかり気を良くし、もっとカルァン石を喰わせてリハルト軍を蹂躙しようとそこに降りたのだが、それがかえってウヌンの最後の理性の箍を外してしまったのだ。


 その場でウヌンは背に乗っていた兵士を振り落とすと、置いてあったカルァン石を大口で喰らった。そして何が起きたのか理解できないと言った表情の兵士を置いて、そのまま飛び去ってしまった。


 ウヌンは他の5頭の竜とリハルト軍との戦いの場に躍り出ると、狂ったように炎を放ち、敵味方関係無くその場を火の海へと変えた。流石に様子がおかしいと気付いた他の竜騎兵達ももう遅かった。自らの竜をもって鎮圧せんと角を通して命令を送ったが、竜達はその命令を聞かなかったのだ。


 ウヌンは何かに取り憑かれたかのように煉獄を作り出していった。シナークの竜騎兵基地の兵士もリハルト軍の兵士も、その光景を呆然と眺めることしか出来なかった。


 *


 ウィル達を乗せた馬車が丘の上の竜騎兵の基地へと急いでいると、その途中で遠くから純粋な熱波を伴った風が通り過ぎていった。


「今のは!?」

「マズいね、あれだけの熱量は普通の魔法では打ち出せないはず。そうなれば……」


 ラグナはその先を語らなかったが、何が言いたいかは誰もが想像できる。

 最悪の事態が起こったのだ。


 その刹那、ウィルが近くの空を高速で飛翔する竜を捉えた。


「あそこ! 竜がいる!」


 その言葉に皆が一斉にウィルの指差す方を見ると、そこには誇るべき体毛の煌めきも無くただ一心に火を噴く竜がいた。


「あっちは関所街の方だ……マズい!」


 そう言ってペイルは一層馬を急がせた。


 しかしながら竜が本気を出した時の飛翔速度は、とても馬車程度では追いつけるものではない。突如正体不明の生き物に襲われたシナークの関所街は、大火事と共に大混乱に陥っていた。警備兵と公務官が儚い応戦を試みるも、銃弾も何もかも弾き返す得体のしれない化け物の前ではもはや逃げる他無い。


「落ち着いて! 郊外に逃げてください! 荷物は最小限に!!」

「そんなの無茶だ公務官さん! そんな事よりアイツはなんだ、どうにか出来ないのか!」

「無茶言わないでくださいよ! 軍の要請はしてますから、とにかく逃げてください!」


 そう話していた男と公務官の直上から炎が降り注いだ。男の持っていた僅かな家財道具は一瞬にして蒸発し、2人はあたかも最初からそこに居なかったかのように消え去った。そこにはただ業火がもうもうと燃えるのみだ。


 関所街はただ1頭の竜によって燃やし尽くされようとしていた。


 ラグナから伝書鳩で事の重大さを理解したユラフタスの村では、ノーファンの号令の下で直ちにリンゼンを除いたコルナーが総動員で縁を結んだ竜と共に飛び立ちシナークを目指した。

 14頭の竜と共にノーファンもシナークに向かっていた。ノーファンを運ぶのは、白銀の躰を煌かせた"竜の神"ことユラだ。


 ノーファン達は途中で暴走する竜の姿を認め、数頭がそちらに向かって暴走する竜を止めにかかった。そしてノーファンを含めた残りが、同じく上空から確認したウィル達の乗る馬車へと直行する。


「ノーファン様! 皆さんも!」


 上空から高速で接近してくる数頭の竜にコルセアとカイルは驚いた表情をしていたが、ウィル達にとっては強い味方の登場だ。


「ラグナよ、もはやこうなってしまってはウィルに託すしか無かろう。我々は街の人の避難にあたり、あの盟友はウィルに止めてもらう他あるまいて」


 そう淡々と話された内容を聞いて、ウィルは「遂にこの瞬間が来てしまったか」と覚悟を決めた。ここから先は誰も知らぬ道、生きて帰れる保証の無い道だ。

 でも、でも燃え盛る街並みを見て、既にウィルの腹は決まっていた。


「わかりました。どうすれば良いんですか?」


 ちらと横を見るとメルが今にも泣きそうな目で見ていたが、今はそれを無視した。もし何か話しかけてメルの声を聞いてしまったら、多分俺は行けない。だからこそあえて心を閉ざし、死地へと赴くのだ。


 ノーファンからの説明は単純だった。あのウィルが最後に貨物列車に乗務した日に貰ったペンダント、その中にある竜魂石を通じて狂った竜に問いかける。最悪は直接あの竜の背に乗り、角を掴んで操るというものだった。そうしたところで狂った竜が鎮まるかは誰にもわからない。だがそれが、考えうる最善の方法なのだ。


 *


 竜騎兵のうちの1頭の竜が不可解は行動をとり始めたという事は、すぐにサルタンの宮殿にも伝わった。第一報では情報が曖昧だったが、やがてその竜がシナークの街を襲っているという続報が入ると、宮殿は俄かに騒がしくなってきた。


「竜騎兵はモロスの肝煎りの部隊だと言ったな?」

「はい、あれは兄が発案し創設した部隊だと聞いております」


 ローランドのその言葉を聞くと、父であり皇帝のライナスは厳かに、しかし怒ったような声で脇に控えていた近衛に命じた。


「モロスを呼べ、今すぐにだ」


 近衛は踵を付けて敬礼で答えると、すぐさまその場から立ち去った。

 しかしモロスは一の館には居なかった。館の中には姿は無く、使用人に聞いても突然どこかに行ってしまい困惑したような要領の得ないような答えしか返ってこなかったという。


 そのモロスは、ラミスと共に第一聯隊のアルメスの執務室にいた。


「モロス様、かくなる上は竜騎兵は放棄し、制圧部隊のみで宮殿を抑えるのしかありませぬ。——しかしそれは非現実的、ここは一旦身を隠し、竜騎兵の再起を目指すべきかと」


 身を隠すべきというラミスの意見は尤もなものではあったのだが、モロスの皇子としての誇りがそれを邪魔した。


「身を隠せだと!? 私は皇子だ、この国の皇帝となるべき皇子ぞ! 制圧部隊を出せ、宮殿を占拠せよ。アルメス、貴様も速やかにリハルト軍を排除せよ。これは命令だ、いいな」


 そう言われてしまえばラミスもアルメスも頷く事しか出来ない。モロスはアルメス率いる第一聯隊にリハルト軍を追い払わせ、それを自らの手柄とすることで、竜騎兵の挙げるはずだった戦果の代わりとしようとしたのだった。順序で言えばサルタンの占拠が先になるが、後から功績が付いてきても歴史は勝者が決めるのだ。どうにでもなる。


 かくしてシナークの騒ぎをよそに、サルタン郊外に駐留させていた部隊が動き始めた。モロスの手引きで最新の武器で武装した500名のその部隊は、徐々にサルタンへと近づきつつあった。


 数刻後、宮殿の周辺ででの戦いが始まった。本来は宮殿に有事の際があった際にはまず200名あまりの近衛兵が対応し、その間に有線電話で近隣の軍の駐屯地に連絡が行って対応にあたるのが本来の形だった。しかし有線電話の線は既に切られ、近衛兵が軍に助けを求めることはできなかった。


 戦闘が始まって1時間もすれば、宮殿の周りと二の館はモロスの部隊によって制圧されていた。近衛兵は善く奮戦したものの、数の差と武器の差だけはどうしても埋める事が出来なかった。

 もはやモロスにはシナークの竜騎兵などどうでも良かった。全ては自らが皇帝の座に就くため、その為には誰がどうなっても良いのだ。


 *


 モロス皇子謀反の知らせは、シナークの騒ぎ以上にイグナス軍各部隊に衝撃を与えた。それはここ、カグル駐屯地でもそうだ。


「モロス皇子が叛逆? それはまことか」

「は、はい。そのような報せが届きました」


 駐屯地司令のナック大佐は、コルセアとカイルから聞いた話を思い出さずにはいられなかった。モロス皇子は皇位簒奪を狙っているのかもしれないと最初に聞いた時には「そんな馬鹿な」と笑い飛ばしたが、実際にそれは起きている。


「我々は……引き続いてシナークでの騒ぎの収拾に当たれ。リハルト軍からも目を離さずシナークであの騒ぎだ、サルタンの事は向こうの兵でどうにかしてもらうしか無い」


 ナックのその言葉に伝令の兵士は一瞬虚をつかれたような顔をしたが、その言葉を噛み締めると敬礼して部屋を出た。


 占領されたのは宮殿であってサルタンにある最大の駐屯地では無かったが、そこの兵士も下手に手を出さない状況だった。宮殿で占領されたと言う事は軍の最高指揮官でもある皇帝陛下の身が拘束されたと言う事、下手に動けば殺されかねない。まさに人質を取られた形なのだ。


 そうしてサルタンでの騒ぎが膠着状態に陥っているのをよそに、シナークでは狂乱が続いていた。


 *


 その時ウィルの姿はノーファンと共にユラの上にあり、手には狂った竜の竜魂石が握られている。

 ユラはその竜の炎の吐息が届かない安全な場所を狙って飛び続けていたので、その竜は時折鬱陶しそうに火を吹いてくるがそれが当たる事は無い。


 ――鎮まれ、鎮まれ、鎮まれ!


 ウィルも竜魂石を手に、必死に祈っていた。メルやラグナはその石に魔法を通すと竜と話せると言っていたが、魔法は全くわからないウィルにはただひたすら祈る事しか出来ない。


 一向に好転しない事態に、とうとうユラ自身も竜の攻撃を躱しつつ接近して軽く攻撃を加え始めた。ユラはヴェントの竜、風を操ることができ、その力で狂った竜の飛行経路に乱気流を起こし、地上に叩きつけてでも止めようとした。


 しかしその竜も今は何もかもが敵と見えているのか、竜自身に備わっている主翼と尾翼を巧く使ってその乱気流をものともしない。

 ユラが本気で攻撃すれば叩き落とすのも容易いのだが、それだと地上に被害が出てしまう為、攻撃しようにも決定打に欠ける状態だったのだ。


 その膠着状態は、ウィルが狂った竜の向かった先にあるものを見た時に変わった。


 ――あれは湯孔? 湯孔と言えば……


 その時ウィルの脳裏に、サルタン皇立図書館の近くの講堂で聞いた学術発表が思い浮かぶ。


『そしてあの有毒ガスは可燃性、僅かな明かりを灯す事すら出来ません。しかしこの数字を見るに、地下で国の至る所に点在する湯孔が繋がっていると言う事は明らかでしょう』


 ――あの湯孔からは可燃性の気体が出ているんだ! そしてそれは国の至る所と繋がっている……もしそれが本当なら……


 そこまで考えてハッとユラフタスの歴史書の一節が頭を駆け巡った。


「"やがて、奇妙な事に我が楽土の至る所にて、炎が吹き上がりたる。"だ! あの竜を湯孔に近づけちゃダメだ!」


 ノーファンは解読された歴史書については知ってるものの、勿論湯孔の事は知らない。どういう意味か聞き返そうと思ったものの、ウィルを信用してユラを操った。


 しかし竜はユラの妨害をも躱し、一直線に湯孔へと向かっていく。


「ノーファンさん! もっと、もっとあの竜へ近づいてください!」

「それはいいがイルカラよ、お主何をするつもりじゃ!」

「あの竜に飛び移ります! それと、もしあの孔に火が付いたら、すぐに消してください!」

「無茶じゃ! そんな事があって、もしお主の身に何かあったら……」


 そこまで言ってノーファンは喋るのをやめた。ウィルが笑っていたからだ。


「もし何かあったらその時は……その時はメルをお願いします」


 最後にそう言ったウィルは、ユラとその竜が最接近した頃合いで宙空へと身を躍らせた。ノーファンは思わず息をするのも忘れてそれを見ていたが、一瞬後に狂った竜の角を上手く掴んで姿勢を安定させたのを見て大きく息を吐いた。


 *


 メルは自分の事を振り返りもせず飛び立ってしまったウィルを、しばし呆然と眺めていた。

 止めるべきだったのかもしれない。でもあぁなってしまった竜は自分にも止められないと、それは自分が一番わかっていた。"ユラノス"と呼ばれるウィルにしか止められないという事も。


 知らずのうちにメルは泣いていた。両親が亡くなって、これからは1人で生きていかなくてはならないとはっきり自覚した時と同じぐらい、大粒の涙が零れ落ちてくるのを止められなかった。


 ――これがウィルを見る最後かもしれない。


 そんな嫌な想像を振り切るように、メルのいた馬車の横に2頭の竜が降りてきた。見ればフレイヤとリッシュだ。ラグナはすぐにフレイヤに飛び乗ると、自分の役割がわかっているかのように関所街の方へと飛んで行った。


 リッシュはラグナの方を向き、ただただその青い瞳で見ていた。リッシュは黙して語らなかったが、メルには「貴女も出来ることをしなさい」と言われているような気がした。

 その瞬間、メルはリッシュと縁を結んだ時の事を思い出した。


 ――そう言えば……あの竜が、リッシュの子供なのよね。リッシュだって行きたいはずなのに……


「そうだよね、リッシュ。ウィルがあんなに頑張ってるんだもん、私も泣いてる暇なんて無いよね」


 メルの決然とした言葉にリッシュは短く啼いて、乗りやすいように屈んだ。メルはその背に乗り角を握ると、短く「行って」と言った。その瞬間、リッシュは短く地を蹴って強く空へと駆け出す。目指すは関所街、水を操るウォルトの竜ならば、炎上した街の消火に当たるべきと考えたからだ。


 そうして魔法で片っ端から火事を消火していると、視線の端にあの狂った竜とその背に乗る人影が見えた。


「ウィル……!」


 人影だけで誰かは確認できなかったが、それでもメルは確信した。あれはウィルだ。あの竜を止めるために、身を挺しているのだと。

 その刹那、竜が急に地上をめがけて落下していった。何か叫ぶ間も無くその光景を見ていると、竜は地上すれすれのところで再び上昇した。一瞬やはり加勢しようかと考えたが、その考えを読み取ったリッシュに《貴女は貴女のするべきことをしなさい》と窘められた。


「そうね……そうだよね、私は私のできることをしなくっちゃ」


 独り言ちてウィルの方を一瞥すると、再び眼下に広がる光景を見た。そこには、一面の焼け野原が広がっている。地獄のような光景だ。


 *


 首尾よく狂った竜に飛び移ったウィルは素早くその背中の角を掴むと、両手で思い切り引っ張り何とか湯孔にだけは炎を吐かせまいと抗った。放たれた炎は狙い通り、湯孔から少し離れた建物へと吹き付けられ、奇跡的にその姿を保っていた建物は呆気なく崩れ落ちる。


 あれも誰かの家なのだろうと思うと心が痛んだが、ウィルの予想が正しければ、もしあの湯孔から噴出するガスに引火でもすれば、それは地下で繋がっている道を通ってイグナス連邦全体の湯孔へと伝わっていくはずだ。"奇妙な事に我が楽土の至る所にて、炎が吹き上がりたる"とはこの事だと確信したウィルは、危険を冒してまでも竜に飛び移り軌道を逸らさせたのだ。


 ウィルは角を持って、何とか竜を説得しようと試みた。しかし何故か竜はウィルの呼びかけにすら応じず、ひたすらに炎を吹きまくっている。

 そうして地上に向かって火を吹こうとする竜を、角を掴んで強引に軌道を変えさせての繰り返しを数回やるうちに、いつの間にかメルの家があり竜騎兵の司令部のあるあの小高い丘の方まで来ていた。


 すると竜は再び鎌首をもたげ、急降下の姿勢に入った。その先にはメルの家がある。

 ウィルはしっかりと角を持つと、右側に強引に軌道を変えた。衝撃でメルの家の外壁が落ちたような気がしたがもはや構っていられない。


 すると唐突に、ウィルの頭の中に声が聞こえた。


 《——てくれ……殺してくれ……!》


 一瞬驚いたが、すぐにそれは竜からの声だとわかった。


 《我の背に……乗る者よ、この声が聞こえているならば――我を殺せ!》


「出来るわけないだろ! 何が何でも鎮めて森に返す!」


 思わずウィルは叫んだ。勿論こうなってしまった竜を元に戻す方法など分からない、歴史書にも書いてなかったし見当もつかない。しかしそれでは、また歴史書に"帰ってくる事は無かった"とか書かれて終わりだ。


 それでは意味が無いし、何よりウィルは帰らなければならない。かつてのユラノスと呼ばれた人が切望し、ついぞ叶えられなかったであろうその願いを、叶えなければならない。


 誰の為に?


 他でもない、メルの為だ。


 《私はもう保たない……あの呪われし石に……侵されれば……》


 竜はそう言いながらも、無茶苦茶に炎を吐き無茶苦茶に飛んでいる。だが知らず知らずのうちに、ウィルはその動きに慣れ始めていた。背中に乗りつつその足元から伝わる僅かな筋肉の動きと角から伝わる魔力の動きから、反射的に上下左右に竜を操っていた。


 もはや竜はウィルに操られていると言ってもおかしくない状態ではあったが、ウィルは必死に狂った竜を鎮める方法を考えていた。

 そして極めて単純な解決案を考え付いた。火は水をかけると消える、冷静じゃない人には水でもかければ大体我に帰る。竜相手に通用するかなど知った事ではない、何もやらないよりマシだ。


 そうと決まれば実行あるのみだ。ウィルは今一度竜の背中の角を握り直すと、アロウ平原の方を目指した。


 《どこへ……行くつもりだ……そっちは……》


 わかっていた、アロウ平原にはカルァン石がありそれこそが元凶だという事も。

 しかし手近な水場と言えば海を除けばあそこしか思い浮かばない。アロウ平原にある、ユラ池と呼ばれる湖だ。何故かあの竜の神イルヤンカと同じ名、何かあるかもしれないと考えたのも一つの理由だ。それに海は危険だ、そのまま流されでもしたら、歴史書通りの行方知れずになってしまうだろう。


 そうして何とかアロウ平原まで来ると、これまで以上に竜の暴れ方が酷くなったような気がした。角を通じて語り掛けてみるも一切の反応は無く、時折呻き声のような思念が流れてくるのみだった。

 やがて眼下にユラ池が見えた。ここからは単純、一直線にあの湖に向かって落ちていくのみだ。


 刹那、ウィルの脳裏には、走馬灯のようにこれまでの情景が思い浮かんだ気がした。シナークの街中にあった学舎。高熱を出した時のメルの心配そうな顔。丁稚としてハーグ鉄道公団で働き始めた頃の、あの鏡に映った制服姿、喜んでくれたメルとその家族。メルの家が軍に接収されたあの夜、月夜に浮かんだラグナの顔。アレイファンに向かう途中にあった駅逓で交わしたあの会話。


 全てが心の中に浮かんでは消え、浮かんでは消え……


 眼前には緑の草原と森、その中に湖はあった。普段は青々と水を湛えたその湖が、何故かその時ウィルには光って見えたような気がした。竜は何も言わなかったが、そこに入れば全てを終わらせられるとまるで知っているかのように、ウィルは一心不乱にユラ池を目指した。


 ――嗚呼、今頃になって、やり残した事が色々と思い浮かんできた。


 ――だけど……だけどメルーナ、これだけは言いたかった。俺はお前のことが……


 その瞬間、竜もろともウィルの身体はユラ池へ突入していった。全身がバラバラになるような感覚がウィルの精神を貫き、その意識を水の中に霧散させていった。

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