厨房から油の跳ねる音が立った。匂いははなから、卓に並ぶ唐揚げやらで埋まっている。めた照明は一部の陰も残さず、そこに趣のい立つ隙が無い。却って清々しい迄に無粋な店に入ったものだ。彼女がジョッキを握るのを見届け、丁度鹿威ししおどしの具合で僕もグラスを取った。間も無く彼女は二杯目も空ける。僕の三杯目は、まだ二口をれたばかりだ。

 太陽がすっかり落ち込み、晩霞ばんか*の紅色がみな退いたにもかかわらず、れったいみょうの残る夕目暗ゆうまぐれ*、僕らはここ迄歩いて来たのだ。それは二つの「次、どうします?」を重ねて首肯した結果だった。坂を登るは、向かい風が心地好く冷たく感じた。

 当然順路を知っているのは彼女だけだったが、僕も男であるから、幼弟の様に後ろを付いて行く訳は無く、常に隣を取ろうと機先を窺った。

 土産物屋は勿論、多くの飲食店等も軒先の電気を落とし、薄明はくめいの中でシルエットに納まる。観光街として、夕され *シャッターを下ろすは平時においてもそうだと知ってはいても、時世を生きる身としては、斜 *と結びつけてしまう。日の陰った街を斜陽と叙するはアイロニ *かしらと一人楽しんだ。傍目はためからは、僕ら二人並ぶも街にならってシルエットと成っていただろう。

 季節は地球と太陽という殊更ことさら大自然の周期変化を指す。人は季節を見付けたいとする時、先ず自然を探す。山である。草本である。生き物や空だ。振り返れば、宵闇にそばだつ雄大なる積乱雲の、その遥かなる上端へ、すうっと蝋光ろうこう程に華奢な日が映じているかもしれなかった。先の山影に、長庚ゆうずつ*一番星が灯る頃だったかもしれない。

 自然は何時いつでも人に構わず、遠くに在る。災いをもたらす時でさえ、人が勝手にこうむるばかりで、そこに自然の意志は無い。人が自然を侵し、人が自然を活用し、慈しみ、尊ぶ。時にゆうなる大自然を目の当たりにして、的皪てきれき*とした感興を起こしても、ああ自然は良いなあと又遠くに遣る。どれ程物理距離が近かろうと、目前に曝されようと、自然と此処ここには絶対の壁がある、そう思って来た。

 しかし、どうやら違ったらしい。自然は心の内に有った。草木が芽吹き、山が新緑に華やぐことを、日本人は山笑うと言った。書斎の窓から臨む白雨はくうは、どんなものだろう。みちにてふと香る金木犀に誰を思おう。一面に霜の降りた庭を眺めて飲む熱い茶は、昨日と同じか? 理想郷の幾千の春を過ごしたあの岩は、日が暮れようと、実に落ち着いていた。森羅万象、一切衆生、そいつらに情緒を付ける営みが自然だった。美術館でメモした向井潤吉の画には、この情緒が良く表れていた。いや、情緒こそが描かれてあった。

 田畑の上を振り切って走る電車も、アスファルトで固められたシルエットの坂道も、この明け透けな居酒屋でさえ、僕が視点をどうこう出来れば、自然に変わる。こいつがの視点かな。東浪見さんも自然の一部と成った。

あきらさんは、どうして先生になろうと思ったの?」

「別に。社会人は向いてないかなって。東浪見さんは? 何で医者に?」

「私も特には。ただ、みんなと同じ様にドラマとか見て医者に憧れて、勉強だけは得意だったから、そのまま来たって感じ」

 僕らは核心を見付けられない儘、話を続けた。それは互いの昔話を手番で回す、パーソナル情報の交換だった。何処どこかで核心に至りはしないかと、期待していたのかもしれない。無形の情意を、どうにか有象の言葉にして伝えたいと大脳を熱くさせる核心。核心を据える時、言葉を編むのも相手の話を分かるのも理性で以て行われるが、言葉を紡げという命令も、話を聞けという命令も、全く衝動が出している。僕らの間にそんな大層な物は、到頭無い様だ。中学の時に流行った物で場は盛り上がる。酒もあってか、彼女の語気も弾む。僕らは共通の基盤を持たない。暮らした世代が同じで、共に本が好きで、偶々この町で出会った男女、それだけだ。ここには恋愛が必要で、恋愛だけが核心に成り得る。核心を避けつつも、何時切り出してやろうという緊張が現れるよしは無く、和やかに時間ばかりが過ぎる。ただ、時間をかける事が大事な気になっている。

 女性の店員が快活な言い回しで「お下げしますね」と、それぞれ二つの空いたグラスを持って行った。東浪見さんがややと枝豆の鞘をテーブルへ落とした。僕はまんじりと彼女の目を見てみる。気恥ずかしそうに小首をかしげ、例の弓なりに閉じ切った目元に、二三の皺がにじむ。笑窪えくぼがあった。

 かわやへ立つと、思いのほか足が頼りない。僕も酔っていたか。こうなると、頭の働きにも自信が持てなくなる。より一層自主的意志を中央へ構えて置かなければ、危ういかもしれない。

 店は九時には出たと思う。僕の足の振らつきは、この時には収まっていた。性急に立ち上がったものが、ちょっと足へ及んだに過ぎなかった様だ。東浪見さんはやや千鳥足に成っている。あれしきでこう迄酔うのなら、大して弱い。短夜みじかように始まっている。何処かでちよちよと虫が鳴く。はぎを撫でるは、今林を抜けた風だ。今夜も月が無い。挙げ句、雲迄出ている。風は地上を這うばかりで、一向雲を東へ追い遣らない。彼女は時折、こぼす様にくうへ笑った。あごを引いて溢した様に声を洩らしていた先迄の彼女とは異なる。大分が大きくなっている様だ。笑って貰う程にこちらの口調も急いて来る。孤立した街灯に当てられ、又笑窪がある。

 ここの所毎日通っている最早馴染みと成りつつある温泉街の坂道に出た。上から下迄、閉じた店が並列して正しく続く。彼女はこの景色にふけひまも無く渡ってしまった。

 僕はビールが飲めないから、この様な居酒屋だとサワー位しか飲む物がない。普段は日本酒を好むと話すと、うちにありますよとお呼ばれする運びとなった。ここを曲がると例のコインランドリーかなと見るとただの民家だった。日のある内に通った道も、夜に移れば判然付かなくなる。知らない道さえ、却って知った気にもなる。民家のカーテンに人影が過ぎる。テレビの音と合わせて、幼い笑い声も届いた。ようやく彼女の宅へ着いた。コインランドリーは通らなかった。

 外観からすると割合中は広く見える。綺麗に片付けられているからかもしれない。部屋の広さを目測する技能は持たないが、これが六畳一間かな。シャワーをと勧められたので入った。彼女の知る通り、リュックの中に洗った服が一式ある。方々歩いたので、十分の汗をかいた。何もシャワーを勧めたのは、汗を気にしての事だけでは無いだろう。此処に僕らの間にも一つの核心が生まれた。

 上がると卓につまみと浅いグラス、それから良く冷やされて結露に濡れた四合瓶が用意してあった。代わって次は彼女がシャワーを使う。先に始めていてと言われたが待つことにした。テレビが点けられている。それは毎週欠かさず見ているバラエティ番組で、正直中途から見るのは好ましくなかった。帰ればちゃんと録画してある。だからと変えはしなかった。座れる所は向かいのソファがあるだけの様だ。サイズとしては、二人が並んで座るにしても、やや窮屈になる物だ。手前に座った。奥にはベッドがある。

 随分長く感じたが、正確には間も無くして彼女は戻って来た。緩い大きめの白地のティシャツに膝丈の短パンと部屋着になっている。詰めてと言われ、奥へ身を移した。目が意図せず隣に座った白い腿へ落ちる。健康美に乏しい白さであっても見てしまう。

 酌をして貰い二次会を始めた。テレビは点けた儘にしてある。話は居酒屋に居た時と、そう変わらない。ただ、こちらには一往いちおうの核心は有った。それは僕の背後に備わり、彼女の視線の先で鎌首をもたげている。従って、核心を避けつつ、何時来るか、何時触れようかかという緊張が、端々に引っ掛かった。

 それは突然に言われた。実際は、僕から入り込ませようと、彼女は種々の婉曲えんきょくなる布石を尽くしたが、超然と迄に上げたの視点の為か、偶然のしたごうか、或いは深層心理の働きか、一向に僕が布石を踏まないにしても、輪を掛けて桂馬の如くそれらの間を跳ね上がるものだから、いよいよ彼女から切り出した、そんな所だろう。

「彰さんは、私のことどう思っています?」

「うん。好きだよ」

 聞かれた物が胸へと落ち着く間も無く答えた。違うな、言い当てた、とする方が適している。文脈に適した言葉を、生返事と同じ要領で以て、言い当てたのだ。彼女ははにかんで顔を伏し、「私も」と酒をれた。僕からは彼女の頬に並んだ黒子ほくろの四辺形が、反対になって見えていないことを思い出した。

 僕等は文脈コンテクストの中で暮らしている。文脈から離れることは、真に一人になること以上に難しい。読んで字の如く文脈は、脈だ。その存在は社会が活動していることの証であり、止まれば半刻と持た無いだろう。人間が居る内に文脈が絶えることなど想像出来ないから、後ろの推量は要らないかもしれない。文脈は時に明文化されるが、それらは前後左右、上下をことごとく引き千切られた酷く乱雑なもので、その上、恣意的に編集されることもある。それだけ文脈全てを言語と直すことが困難でもあった。差別、寛容、多様性、マイノリティ、ヘイト、平等、バランス、中傷、男、女、不適切、らしさ、少年、大人。どれも乱暴に切り取られた文脈だ。ならば僕らの文脈を明文化してみるとどうなったのだろう。やはり“男女”だろうか。“恋愛”とするには、枕に「無根」或いは「世間」を付けねばならない。僕はそんな文脈に合わせて「うん。好きだよ」と、口を衝いたのか。

 二の句を僕が引き受けなければ、それは鈍感の芝居か、臆病の露呈となってしまう。箸を皿へ預ける手が僅かに震えるのに気が付き、悟られまいと焦って手を離す。一本が二三転がるも落ちることなくとどまった。それを見届けてから席を立ち、マイムで断りを入れてからベッドに腰掛けた。右手で布団の上を二拍叩く。

「来て」

 上手く声が出て呉れたことに安堵する余裕も無く、彼女の一挙一動を注視した。彼女は静かにグラスを置いて立ち上がる。その手は震えていなかった様に見えた。ティシャツの裾を両手で下へ引いてから、ソファの裏を通って歩み来る。ここ迄で一つも目を合わさない。こちらは見ているのだから、向こうが逸らしている。隣に座った。ベッドが落ち込み、重力で引っ張られるのに抗い背筋を直ぐに保つ。漸く目がち合ったと思うと、彼女は目を閉じた。背に手を回して肩を抱いてみる。こいつで合っているかも分からない。寄せる加減も分からず、力を籠めてしまわない様にと、要らぬ圧が何処かに掛かって、又腕が震える。

 口唇を合わせた。途端、皮下と骸骨の間隙かんげきへ熱い粘液が激流として回るのを感じる。一人でこれをらうと、哄笑こうしょう*に倒れる勢いだ。そいつを抑えたのは理性ではなく、更なる衝動だった。肩に当てた手を引くと、彼女は抵抗無く仰向いて寝た。僕は立ち上がり、彼女の肩口に両の掌を衝いた。彼女は全く澄んだ面持ちで、逡巡しゅんじゅんも無く目を開けていた。

「いいよ」

 その一言で、それ迄僕を支配していた全ての活動が止まった。いいよに何故か引っ掛かる。何故と考えるのは理性の本分だ。何故が分かると衝動が跋扈ばっこ*出来るでは無くなる。理性でこいつを続けられる程、僕は *ても、したたかでも、あざと *も無い。彼女と向かい合った儘、背を戻した。

「ごめん、出来ない」

「え? どういうこと?」

「ごめん――。……僕、東浪見さんのこと、好きではないです」

 東浪見さんは左下へ目を流し、一つ大きな溜息をくと、精一杯責めたつらを上げた。

「不人情ですね」

「すみません。確かに、先迄の僕は不人情でした。でも今の僕は不人情でも、して非人情でこんなことを言っているのではないのです。これが僕の一等大事な人情なのです。僕が躊躇ってめた何て思わないで下さい。怖い儘でしたら、あの儘続けていました。そこに後悔は無かったでしょう。それでも続けた先の僕は、確実に今の僕では無くなってしまうと気付いたのです。僕は僕の儘……、童貞を捨てたい。それは今じゃないんです」

 何時からか、僕は僕の固く握った両手だけを見つめていた。不言の時空間に尚々固くなる。陳情を果たした脳は、その如何いかなる叱咤しったも予期せず、白装束を纏った。凪いだ脳と裏腹に、代謝は歯止めが利かない。頭頂へ声が掛かる。

「帰って下さい」

 白雲の夜が一入ひとしお染め上がる中、便り無く歩いた。虫の声は何処迄歩こうと絶えず聞こえる。色なき風が背後の枝葉を強く鳴らすに、思わず微怯びくついた。いけないと足早になる。

 ふと住宅街に居て視界が開ける。川と気付いたのは音からだ。月明かりも町明かりも無い為、川面は確かではないが、聴こえる分には、随分澄んでいる。思い返すと、旅館のそばにも川があった。橋を越えて歩き続けた。

 歌を歌う。大きな声を出そうと努めた。朝の歌だ。夜が終わる歌だ。途中詞が分からなくても、構わず声にした。しまい迄歌ってそれきりにした。

 幹線道路に出た。ヘッドライトは一つもちらつかない。ぼんやりと右に進む。ここへ来ても虫は鳴く。風は木々を振る。バス停のベンチにあかりが当てられていた。座って仰向くと一面の白雲が、その濃淡から模様になっている。

 煙草に火を点けた。およそ二六時中吸って来なかった。心底美味いと思った。これが僕だ。かかる人とかかる時ぞ、と三鷹さんが居た。これが僕だった。恋愛へ一途になれないのが僕で、それでも良いと認めて遣るのも又僕だ。恋の一合目には、無根の恋愛がある様に思えてならないが、一合目から愛のある物に出会えると語るのが僕らだった。

 ああ、腹が減った。リュックからさやかで買った金鍔を取り出し、敢えて包を乱雑に破いた。小分けにされた四角い金鍔を一つ、フィルムを剥がして掲げる。空高し雲と良く似た白い肌だ。んで広がる甘味を他所に、その断面を観察した。こちらこそ夜暗やあんにふさわしい。

 一人は淋しい。彼女と食べても良かった。改めて、東浪見さんと話している内は、楽しかったのだなあ。

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