十
厨房から油の跳ねる音が立った。匂いは
太陽がすっかり落ち込み、
当然順路を知っているのは彼女だけだったが、僕も男であるから、幼弟の様に後ろを付いて行く訳は無く、常に隣を取ろうと機先を窺った。
土産物屋は勿論、多くの飲食店等も軒先の電気を落とし、
季節は地球と太陽という
自然は
田畑の上を振り切って走る電車も、アスファルトで固められたシルエットの坂道も、この明け透けな居酒屋でさえ、僕が視点をどうこう出来れば、自然に変わる。こいつが非人情の視点かな。東浪見さんも自然の一部と成った。
「
「別に。社会人は向いてないかなって。東浪見さんは? 何で医者に?」
「私も特には。ただ、みんなと同じ様にドラマとか見て医者に憧れて、勉強だけは得意だったから、そのまま来たって感じ」
僕らは核心を見付けられない儘、話を続けた。それは互いの昔話を手番で回す、パーソナル情報の交換だった。
女性の店員が快活な言い回しで「お下げしますね」と、それぞれ二つの空いたグラスを持って行った。東浪見さんがややと枝豆の鞘をテーブルへ落とした。僕はまんじりと彼女の目を見てみる。気恥ずかしそうに小首を
店は九時には出たと思う。僕の足の振らつきは、この時には収まっていた。性急に立ち上がったものが、ちょっと足へ及んだに過ぎなかった様だ。東浪見さんはやや千鳥足に成っている。あれしきでこう迄酔うのなら、大して弱い。
ここの所毎日通っている最早馴染みと成りつつある温泉街の坂道に出た。上から下迄、閉じた店が並列して正しく続く。彼女はこの景色に
僕はビールが飲めないから、この様な居酒屋だとサワー位しか飲む物がない。普段は日本酒を好むと話すと、
外観からすると割合中は広く見える。綺麗に片付けられているからかもしれない。部屋の広さを目測する技能は持たないが、これが六畳一間かな。シャワーをと勧められたので入った。彼女の知る通り、リュックの中に洗った服が一式ある。方々歩いたので、十分の汗をかいた。何もシャワーを勧めたのは、汗を気にしての事だけでは無いだろう。此処に僕らの間にも一つの核心が生まれた。
上がると卓につまみと浅いグラス、それから良く冷やされて結露に濡れた四合瓶が用意してあった。代わって次は彼女がシャワーを使う。先に始めていてと言われたが待つことにした。テレビが点けられている。それは毎週欠かさず見ているバラエティ番組で、正直中途から見るのは好ましくなかった。帰ればちゃんと録画してある。だからと変えはしなかった。座れる所は向かいのソファがあるだけの様だ。サイズとしては、二人が並んで座るにしても、やや窮屈になる物だ。手前に座った。奥にはベッドがある。
随分長く感じたが、正確には間も無くして彼女は戻って来た。緩い大きめの白地のティシャツに膝丈の短パンと部屋着になっている。詰めてと言われ、奥へ身を移した。目が意図せず隣に座った白い腿へ落ちる。健康美に乏しい白さであっても見てしまう。
酌をして貰い二次会を始めた。テレビは点けた儘にしてある。話は居酒屋に居た時と、そう変わらない。ただ、こちらには
それは突然に言われた。実際は、僕から入り込ませようと、彼女は種々の
「彰さんは、私のことどう思っています?」
「うん。好きだよ」
聞かれた物が胸へと落ち着く間も無く答えた。違うな、言い当てた、とする方が適している。文脈に適した言葉を、生返事と同じ要領で以て、言い当てたのだ。彼女ははにかんで顔を伏し、「私も」と酒を
僕等は
二の句を僕が引き受けなければ、それは鈍感の芝居か、臆病の露呈となってしまう。箸を皿へ預ける手が僅かに震えるのに気が付き、悟られまいと焦って手を離す。一本が二三転がるも落ちることなく
「来て」
上手く声が出て呉れたことに安堵する余裕も無く、彼女の一挙一動を注視した。彼女は静かにグラスを置いて立ち上がる。その手は震えていなかった様に見えた。ティシャツの裾を両手で下へ引いてから、ソファの裏を通って歩み来る。ここ迄で一つも目を合わさない。こちらは見ているのだから、向こうが逸らしている。隣に座った。ベッドが落ち込み、重力で引っ張られるのに抗い背筋を直ぐに保つ。漸く目が
口唇を合わせた。途端、皮下と骸骨の
「いいよ」
その一言で、それ迄僕を支配していた全ての活動が止まった。いいよに何故か引っ掛かる。何故と考えるのは理性の本分だ。何故が分かると衝動が
「ごめん、出来ない」
「え? どういうこと?」
「ごめん――。……僕、東浪見さんのこと、好きではないです」
東浪見さんは左下へ目を流し、一つ大きな溜息を
「不人情ですね」
「すみません。確かに、先迄の僕は不人情でした。でも今の僕は不人情でも、
何時からか、僕は僕の固く握った両手だけを見つめていた。不言の時空間に尚々固くなる。陳情を果たした脳は、その
「帰って下さい」
白雲の夜が
ふと住宅街に居て視界が開ける。川と気付いたのは音からだ。月明かりも町明かりも無い為、川面は確かではないが、聴こえる分には、随分澄んでいる。思い返すと、旅館の
歌を歌う。大きな声を出そうと努めた。朝の歌だ。夜が終わる歌だ。途中詞が分からなくても、構わず声にした。
幹線道路に出た。ヘッドライトは一つもちらつかない。ぼんやりと右に進む。ここへ来ても虫は鳴く。風は木々を振る。バス停のベンチに
煙草に火を点けた。およそ二六時中吸って来なかった。心底美味いと思った。これが僕だ。かかる人とかかる時ぞ、と三鷹さんが居た。これが僕だった。恋愛へ一途になれないのが僕で、それでも良いと認めて遣るのも又僕だ。恋の一合目には、無根の恋愛がある様に思えてならないが、一合目から愛のある物に出会えると語るのが僕らだった。
ああ、腹が減った。リュックからさやかで買った金鍔を取り出し、敢えて包を乱雑に破いた。小分けにされた四角い金鍔を一つ、フィルムを剥がして掲げる。空高し雲と良く似た白い肌だ。
一人は淋しい。彼女と食べても良かった。改めて、東浪見さんと話している内は、楽しかったのだなあ。
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