ブブブと鳴り七時になった。真暗でないと寝られぬたちから豆球一つ、間接照明一咲きも灯さずに寝たのだから、ここにある明かりは、窓の取り入れた自然光のみだ。冷房の利かせた部屋で布団に温まれるのが、旅行の醍醐味かもしれない。平生であれば財布から要らぬ光熱費を掛けるのも馬鹿らしく、タオルケットもろくに被らず苦心して寝るが、目覚めの良さから、経済的にも布団で眠る方が良いのかもしれん。いつか六本木や麻布を歩くことがあれば、街行く人に訊ねてみようか。

 バイブレーションがまだ鳴っている。止めてないのだからまだ鳴るに決まっている。肩から指先までの筋をみなきしまで真直ぐにし、霞む双眸そうぼうで畳に転がる携帯を捉えるも、指の腹にその実は引っ掛からない。昨夜決して届かぬ様に設置したのだから、目論見の通りではある。振動は春溶けの山水程に畳へ浸み入り、耳当てた枕の底から湧く。デスクの上でガタツクと震える常なる朝の、レール踏みしだく電車の如き音よりか、随分聞いていられる。再び寝入れまいかと目蓋を降ろすと、蝸牛液に浸した神経へ容量が割り振られ、ブンブンと羽音迄に聴かれて、一向眠れない。こうなると静かだった冷房も、閉じた上から伝るも気に障る様に成った。肩口を敷布団から出す様にして身をよじり、ようやく止めたが、ここ迄活動する果てに、寝る気が失せた。

 広縁に続く襖を開け温泉街を見下ろす。昨暁さくぎょう*、明るい温泉街と無人の対比に興が起きたが、今は起こらない。一度あれば二度目もあるのだろうと期待していたが、同一の事象に二度起こらないものが興の様だと、これを見て思い付く。窓台の灰皿へは昨夜の吸い殻が、言の葉の消し炭としてうずたかく積もる。

 脱ぎ散らかした下着も、食べ終えた皿も、たたずまい整えぬ部屋も、かわやだって始末さえ済ましてあれば一向見られても構わないが、先まで寝ていた型残る寝具を見られるのだけは勘弁してくれと、敷いたばかりの様につくろう。これでは繕うたなと知れる為に、とうとう畳んで仕舞わなければならなくなった。寝跡は人物の意識の無い内に作られるのだから、どうも深層心裏が反映されている様に思えてならない。それを朝な朝なと観測し続ける仲居の婆さんに至っては、占いの術を獲得しているに違いなく、一瞥して五臓六腑に隠された僕さえ気付かぬ虫の居所を捉えてしまう。ただ、こうして畳む客もやはり統計されている訳で、婆さんの占いから外れていないではないか。今度は畳んだこいつを何処に安置するか沙汰を出さなければならない。布団を腕組みして見下す様はちょっと閻魔らしい所もあるかも分からないが、あちらは裁く立場でこちらは偽装せねばならない立場だ。

 結局布団は壁へ寄せただけで、ついでに座卓を中央に据えて上を綺麗にしておいた。これでも判定を貰うだろうが、細かな証拠も無いので、何かしらの同値類へ振られるに過ぎない。人でなしに属さないのであれば、それで十分だ。待つと予定時刻に、仲居は膳を揃えて部屋へ来た。

「おはようございます。よく寝れましたか?」

「ええ」

「そうですか。それでは今、朝食の方を準備させて頂きます」

 僕の畳んだ布団に触れる事無く、次々に料理を運び入れるものだから、あらありがとう位は言われると構えていただけに、拍子抜けした。黙って首を伸ばして居るのも気色悪く、「お土産を買いたいのですが、ここらは何が名物なんですか」と尋ねた。

「お土産でしたら、フロント横にお店がございます」

「ああ。そうでした。すみません」

「それからそうですね。さやかさんの金鍔きんつばなんかも名物ですね」

「それもこちらで買えますか?」

「いいえ、ございません。来る時に商店街がありましたでしょう。そこに本店がございますから、帰りに寄って見てはいかがですか?」

「そうですか。ありがとうございます」

 婆さんは止めていた手を働かせ、朝食を整えて去った。テレビを点け、ニュースを流す。旅館の朝食はこれでもかと多く、大食漢でない僕は、食えども終わらない。ようやく全ての皿を空に戻すと、チェックアウト迄一時間強と迫っている。十時チェックアウトなら十時迄は居なければならなぬという法はない。時間的コストパフォーマンスを最大化させたい者はと宿を出ねば気が済まないのだろうが、今旅で効率や合理を掲げると、昨日迄は何だったのかと厚顔無恥が完成する。しかして僕もまた経済主義の国に暮らす市民だから、部屋に十時迄居着く訳を考案せねばならない。

 旅館への対価は早く出ようが一杯居ようが変わらないのだから、金銭的パフォーマンスを最大化させる為に十時迄長座ちょうざせねばならないと理屈付けた。本心はただ、腹を休ませたいのだ。

 チェックアウト迄居ることは承服したが、風の吹かぬどん突き軒下の風鈴宜しく、放漫と時を過ごす事は肯定出来ない。何かしていないと許されない。エコバックに支度を済ませ、果たせずにいた新館の風呂を見に行った。

 滑りにくい天然めいた岩肌の黒タイルが敷かれ、壁は乳白色に落ち着き、天井は見上げねば認められぬ程高い。モダンな風呂だ。檜風呂が上等だろうが、そこ迄は求めない。旧館の銭湯然とした俗っけある風呂の方が、こちらよりは風流で、旅館にも似合う。しかし風流よりも清潔を好む僕は、新た普請の新館の方が落ち着く。朝早くであれば人も居そうなものだが、朝遅くともなると一人になれた。一人きりの大浴場とは珍しい場面に出会えたと面白がったが、ちょろちょろと湯が入って溢れる音しか無いのに飽き、五分も浸かれば沢山と出た。

 広縁にて風を浴び湯冷まししている内に、いよいよ十時になった。駅迄送ろうかとの提案を下げて、温泉街を見て廻る。行きが上り坂であったから今は下りだ。饅頭の良い香りがする。求めないのは財布の紐が固いのではない。僕が買おうとしても腹が拒むのだから仕方ない。旅館も街の為に朝食はもう少し改めてやっても良いかもしれん。下り道は楽に足が回る。回る程に心も跳ずむ。ここ二三日の景色も跳ずむからに、また来ようと思う。温泉場が坂上にあるのはこの為のようだ。土産を物色し雑貨を手に取り、工房体験は十二時が初回であったから覗くに留まり、方々彷徨うろつき駅前商店街へ来た。

 仲居に聞いたさやかを見付けた。商店街の連なりに構えられたさやかの間口は他の店より一間分大きい様だ。店内は和紙の如き灰黒のモノトーンに統一され、明かり指すショーケースや台に種々の和菓子が陳列されている。プライドを隠さぬ装いに、これは是非買って帰ろうと商品も見ずに決めた。金鍔はショーケースの中で、一等格式高く扱われている。八つ入り十二つ入り十六つ入り三十二つ入りとあったから、十二つ入りを買った。リュックにしまい、また街に出る。

 そろそろ昼時ではあるが腹具合と相談するに、ちと早い。商店街を一本裏に入り散策し、またもう一本と、その調子で歩くと小さな古書店に行き着いた。年季の入った看板に『綜覈そうかく*書房』とある。扉は開け放されているから、中の様子を探ると人影が無い。ここからでは帳場も見えない為に、店主が在席しているかも分からない。漂然ひょうぜん*と踏み入れること能わず、ご免下さいと呼び掛けられる程陽気に作られてはいない。艱苦かんく*拵えて本を求める必要は無い。しかし今後を考えると本が有用となる場面が来る。何か凄いと唸った舌の根も乾かぬ内に『草枕』を再読するのは筋違いに見受けられる。他の本は持ち合わせていない。よしと靴音が立つ様に一歩入った。棚の隙間を進む。店が古けりゃ棚も古い、棚が古けりゃ詰められた本も古い。五六歩踏み入れても、いらっしゃいの声が聞こえて来ない。普段、いらっしゃいませなど言われなくとも、こちらは客であるから勝手に買って帰るわと考えて来たが、言われぬと他人ひとうちへ無断で上がっているような、実に不安になる。

 本が古けりゃ店主も古い。御仁は大悟だいごそうな目で、帳場に入って本を読む。居るなら居ると言えば良いのに、ここまで気を浮かされたことで、却って腹が立って来た。そうなったらこちらも傍若無人をまとって観覧させて頂き、誠に欲しいと思う本と出合わなければ決して買わないと誓う。蕭蕭しょうしょうたる書店にて殊の外丹念たんねん要する作業に当たる事となった。棚には知らぬ名もあるが、知った名も多かった。

 島崎藤村を抜いた。『破戒』は読んだことがある。身分制度が切れて直ぐの近代日本では、かつて穢多えたとされて来た者への差別は根強く、男は出自を隠して尋常小学校の教師を務めていたと記憶している。二度三度と目を通さなければ正当な評価など出来はしまいが、確かに良い本だった。藤村のものは他を読んだことはない。読んでみたいが、旅の伴にするには、テーマが重く大きい気がする。課題に当たる心持でなくては、読んだ内に入らないだろうから、戻した。棚の表面をZ字に目を走らせる。

 片頭痛とは随分の付き合いになるも、こいつが生活様式に注文付ける様に成ったのは高校二年の時だった。片道一時間半を音楽を聴いて潰すことは適わなくなった。親の書棚に本があったから持って行った。それらは母の趣味で近代日本文学しか無く、取り分け太宰が多かった。太宰の事を綴った師、井伏鱒二のもの迄あったから、相当なファンだったのだろう。選んだのは――ちょうど今手に取っているこれと同じ――『走れメロス』だ。唯一読んだことのある本だったからだ。詰まらなかった。表題作のメロスしか読まなかった。しかし、小説というコンテンツの、時に対する耐久性には気が付いた。漫画を頼りに三時間過ごす事を計画立てると、少なく見積もって五六冊は鞄に入れて行かなければならない。小説なら一冊で良い。

 家の書棚を離れ街の本屋に赴き、名のある作家のミステリーやサスペンスを読むようになった。小説は面白かった。確かな者の書いた作と確かな想像さえ働かせれば、ドラマや映画に劣らない、確かなエンターテインメントだった。小説を脚本として、さながら監督の心持でフレームとアングルを定め、人物の表情に気を配り、シーンを完成させてゆく。尺に捕らわれる事も無いから、話の飛躍や突飛な演出も要らない。あれば傷になる。張り巡らされた謎とミスリードに夢中となった。

 純文学へ戻ったのは、偶々手に取った幾年か前の芥川賞受賞作がきっかけだった。本を読む己を鼻に掛けていたが、思いの外、本を読む人は散見出来た。僕は特別性を再獲得しようと、純文学のジャンルを狙っていた折だったから、試しに買った。読み切るのに二日と掛からなかった。慣れない文体、おびただしい心理・情景描写、そして僕がそれまでに出会うことの無かった一般に流布しない異質な等身大の思想に、ページを捲る手を何度も止めねばならなかった。往復の車内だけで無く、休み時間や寝る前にも読んだ。二日目の行きで読み終え、帰りでは同じ作者の違う話を買った。

 純文学は正に純色たる文学だった。映像に互換されることは適わない。純文学に対峙する時、無我夢中にはならない。自我と作中思想の対峙となる。読後、面白かったでは済まない。仮令たとえ僅かでも、何かしらの種を残すのが純文学だ。

 だから僕は本を読む。飯が体の栄養に変わる様に、本はこころを育てる。

 棚をわ迄来た。幾つか候補は在るが、これだと言う物が無い。求めるのは、旅の序でに気軽に読める凄い本だ。気軽も凄いも、読んで見なくては分からない。それに、気軽と凄いは一見相反す。本の背だけからそいつを見付けたいとこいねがうは、無望かもしれん。それでもこの旅には気軽な凄い本が必要なのだから仕方ない。立ち返って未踏のあ行の棚へ渡る。

 芥川か。良いかもしれない。彼の本は飄々ひょうひょうと読むことは出来る。飄々と接している内は、そいつの凄さに辿り着かないが、ここらが妥協点か。そっと背に手を触れ、終いまで粘る事にはした。

 最下段で目が止まる。『武蔵野』、気楽な題だ。さららと操り中を見る。前の主人――主人等だろうか――の手垢で紙は茶ばんでいるも、折れや破れはない。小口が吸い付く様に手に馴染む。『星』という篇で手を止めた。


 都に程近き田舎にわかき詩人住みけり。家は小高き丘の麓に在りて、その庭は家にふさはしからず広く清きながれ丘の木立より走り出でてこれを貫き過ぐ。木々は野生のはえのままに育ち、春は梅桜乱れ咲き、夏は緑蔭りょくいん深く繁りて小川の水も暗く、秋は紅葉もみじの綿みごとなり。秋やや老いてこがらし鳴りそむれば物淋しさ限りなく、冬に入りては木の葉落ち尽くして庭のおものみ見すかさるる、中にも松杉の類のみは緑に誇る。詩人は朝夕にこの庭をたのしみて暮らしき。


『武蔵野』を買って出た。表で人が待つ程繁盛している蕎麦屋があったので、僕も待つことにした。『武蔵野』を今度は頭から読む。汗で頁が引っ付く。然迄さまで待たずに通された。せいろを頼む。直ぐに食えた。

 リュックを背負い本を掴んで来た坂を返す。逸れて町に入る。昨日と同じコインランドリーで同じ洗濯機を回した。客は僕一人だ。本はこの時の為に買った。音が脱水に変わる。鳴れば慣れた振りして乾燥機に移して、ベンチへ戻る。コインランドリーの中は、空調が効き過ぎる程に涼しい。

 ふうんと自動ドアが開いて、待人まちびとが来た。

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