九
ブブブと鳴り七時になった。真暗でないと寝られぬ
バイブレーションがまだ鳴っている。止めてないのだからまだ鳴るに決まっている。肩から指先までの筋をみな
広縁に続く襖を開け温泉街を見下ろす。
脱ぎ散らかした下着も、食べ終えた皿も、
結局布団は壁へ寄せただけで、
「おはようございます。よく寝れましたか?」
「ええ」
「そうですか。それでは今、朝食の方を準備させて頂きます」
僕の畳んだ布団に触れる事無く、次々に料理を運び入れるものだから、あらありがとう位は言われると構えていただけに、拍子抜けした。黙って首を伸ばして居るのも気色悪く、「お土産を買いたいのですが、ここらは何が名物なんですか」と尋ねた。
「お土産でしたら、フロント横にお店がございます」
「ああ。そうでした。すみません」
「それからそうですね。さやかさんの
「それもこちらで買えますか?」
「いいえ、ございません。来る時に商店街がありましたでしょう。そこに本店がございますから、帰りに寄って見てはいかがですか?」
「そうですか。ありがとうございます」
婆さんは止めていた手を働かせ、朝食を整えて去った。テレビを点け、ニュースを流す。旅館の朝食はこれでもかと多く、大食漢でない僕は、食えども終わらない。
旅館への対価は早く出ようが一杯居ようが変わらないのだから、金銭的パフォーマンスを最大化させる為に十時迄
チェックアウト迄居ることは承服したが、風の吹かぬどん突き軒下の風鈴宜しく、放漫と時を過ごす事は肯定出来ない。何かしていないと許されない。エコバックに支度を済ませ、果たせずにいた新館の風呂を見に行った。
滑りにくい天然めいた岩肌の黒タイルが敷かれ、壁は乳白色に落ち着き、天井は見上げねば認められぬ程高い。モダンな風呂だ。檜風呂が上等だろうが、そこ迄は求めない。旧館の銭湯然とした俗っけある風呂の方が、こちらよりは風流で、旅館にも似合う。しかし風流よりも清潔を好む僕は、新た普請の新館の方が落ち着く。朝早くであれば人も居そうなものだが、朝遅くともなると一人になれた。一人きりの大浴場とは珍しい場面に出会えたと面白がったが、ちょろちょろと湯が入って溢れる音しか無いのに飽き、五分も浸かれば沢山と出た。
広縁にて風を浴び湯冷まししている内に、
仲居に聞いたさやかを見付けた。商店街の連なりに構えられたさやかの間口は他の店より一間分大きい様だ。店内は和紙の如き灰黒のモノトーンに統一され、明かり指すショーケースや台に種々の和菓子が陳列されている。プライドを隠さぬ装いに、これは是非買って帰ろうと商品も見ずに決めた。金鍔はショーケースの中で、一等格式高く扱われている。八つ入り十二つ入り十六つ入り三十二つ入りとあったから、十二つ入りを買った。リュックにしまい、また街に出る。
そろそろ昼時ではあるが腹具合と相談するに、ちと早い。商店街を一本裏に入り散策し、またもう一本と、その調子で歩くと小さな古書店に行き着いた。年季の入った看板に『
本が古けりゃ店主も古い。御仁は
島崎藤村を抜いた。『破戒』は読んだことがある。身分制度が切れて直ぐの近代日本では、かつて
片頭痛とは随分の付き合いになるも、こいつが生活様式に注文付ける様に成ったのは高校二年の時だった。片道一時間半を音楽を聴いて潰すことは適わなくなった。親の書棚に本があったから持って行った。それらは母の趣味で近代日本文学しか無く、取り分け太宰が多かった。太宰の事を綴った師、井伏鱒二のもの迄あったから、相当なファンだったのだろう。選んだのは――ちょうど今手に取っているこれと同じ――『走れメロス』だ。唯一読んだことのある本だったからだ。詰まらなかった。表題作のメロスしか読まなかった。しかし、小説というコンテンツの、時に対する耐久性には気が付いた。漫画を頼りに三時間過ごす事を計画立てると、少なく見積もって五六冊は鞄に入れて行かなければならない。小説なら一冊で良い。
家の書棚を離れ街の本屋に赴き、名のある作家のミステリーやサスペンスを読むようになった。小説は面白かった。確かな者の書いた作と確かな想像さえ働かせれば、ドラマや映画に劣らない、確かなエンターテインメントだった。小説を脚本として、
純文学へ戻ったのは、偶々手に取った幾年か前の芥川賞受賞作がきっかけだった。本を読む己を鼻に掛けていたが、思いの外、本を読む人は散見出来た。僕は特別性を再獲得しようと、純文学のジャンルを狙っていた折だったから、試しに買った。読み切るのに二日と掛からなかった。慣れない文体、
純文学は正に純色たる文学だった。映像に互換されることは適わない。純文学に対峙する時、無我夢中にはならない。自我と作中思想の対峙となる。読後、面白かったでは済まない。
だから僕は本を読む。飯が体の栄養に変わる様に、本はこころを育てる。
棚をわ迄来た。幾つか候補は在るが、これだと言う物が無い。求めるのは、旅の序でに気軽に読める凄い本だ。気軽も凄いも、読んで見なくては分からない。それに、気軽と凄いは一見相反す。本の背だけからそいつを見付けたいと
芥川か。良いかもしれない。彼の本は
最下段で目が止まる。『武蔵野』、気楽な題だ。さららと操り中を見る。前の主人――主人等だろうか――の手垢で紙は茶ばんでいるも、折れや破れはない。小口が吸い付く様に手に馴染む。『星』という篇で手を止めた。
都に程近き田舎にわかき詩人住みけり。家は小高き丘の麓に在りて、その庭は家にふさはしからず広く清き
『武蔵野』を買って出た。表で人が待つ程繁盛している蕎麦屋があったので、僕も待つことにした。『武蔵野』を今度は頭から読む。汗で頁が引っ付く。
リュックを背負い本を掴んで来た坂を返す。逸れて町に入る。昨日と同じコインランドリーで同じ洗濯機を回した。客は僕一人だ。本はこの時の為に買った。音が脱水に変わる。鳴れば慣れた振りして乾燥機に移して、ベンチへ戻る。コインランドリーの中は、空調が効き過ぎる程に涼しい。
ふうんと自動ドアが開いて、
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