本をいだいて登 *

 

              小湊こみなと あきら

 



     一


 ふと目を開けると異様な光景があった。己は明るく照らされているのに、眼前は、暗い青が上から下へグラデーションを付けるように、次第に深まり黒くなっている。そこへ小さな光の粒が幾筋も過ぎ去っていった。意識が明瞭になるにつれ、タタンタタンと私を揺らす音が聴こえだした。眠っていたのか。急いで腕時計を確認する。目的の駅まではあと三十分ほどで着くようだ。

 しかし、記憶のある限りではこのような電車に乗った覚えはない。内装は東京駅で乗ったものとそっくり同じであるが、人の気配がまるでない。同じ車両には、すっかり寝入っている私の連れが一人と年増のご婦人が一人いるだけである。隣の車両の様子はうかがえないが、隣だけ満員ということもないだろう。

 外も明るかったうえに、これほどわびしくはなかった。車窓から、暗く広がる面に点々と民家が見える。夜凪よなぎに浮かぶ漁船のようだが、揺蕩たゆたう不安定さはない。竹取のごとく、ぽっかりと明るく生えているとした方が適した詩になろう。

 昼にもなればそこらの田畑に人影も出よう。楽し気に走る子供もいよう。むしろ列車内の人気のなさの方が、明るいだけに不穏である。不穏を恐ろしい速さで運ぶ様は、なお不穏に見えよう。中におるうちは知らずに済むだけ幸せである。そうした長閑のどかな闇を眺めていると、じき飽きた。

 人は一貫的であることを是とする。一貫性ある者は芯を持っているかのように見える。芯あるものから真心が生まれる。一貫した人物は信頼を得、親しまれよう。表向きはそうして一貫性が好まれる。事実は、断続的なものは先が読みやすい。ひいてはその者が何を言うか、何をするかとおびえる必要はなくなる。

 また、効率的である。貫徹すれば無駄がない、寄り道がない。通ったものすべてが結果に繋がっている。文明は効率的であることを是とするばかりか、非効率であることを愚と定め、排斥の念で圧迫した。物を右から左に運ぶに、田畑を潰し、山に穴を開け、生活を移させ、一直線にレールをくことを効率と呼んだ。都会と繋がるレールは、こんな山の中にも及んでいる。

 電車の減速に合わせ、連れの肩がのしかかる。それをぐいと押し返すと駅が見えてきた。山間やまあいの駅には当然誰もおらず、白い電灯がぽつぽつとかろうじてホームを照らすだけであった。婦人が下りていくのと入れ違いに、師走の熱が足元を冷やす。車両に残ったのは我らだけになった。


 次に停車した駅で降り、宿舎へ向かった。

 この三年間何度も訪れすっかりなじみとなった宿舎は、もとは中学校であったらしい。まっすぐ伸びる廊下の幅には既視感を覚えるも、一様に白く明るく塗られた様は、やはり学校とは異質である。部屋は三つのベッドと向かいの壁に打ち付けられた机があるだけの、質素な作りで、それが四階までずらりと並ぶ。私と連れはそれぞれ別室を与えられている。部屋に荷物を置き食堂へ向かおうと外に出たところで、連れとまた会った。連れは同じ天文研究部に所属する新入生である。

 今晩我らは、ふたご座流星群のピークに合わせ、星を観にこの山奥の宿舎までやってきている。諸君は都心で見ることができないにしても、そこまで僻地へおもむく必要はないと考えるやもしれぬが、それは違う。そう考える者は本当の満天を見たことのない者である。

 息を吐けば白く漂い、空気は冷たく乾燥している。地平線に街明かりは一つも見えず、あるのは黒と呼ぶには鮮やかで、青と呼ぶには暗すぎる、藍とも紺とも呼べないが、濃紺を何度も煮詰めしてようやくできるほどの、濃く深い青が全天に広がる。夜空が真黒く見えるのは、街明かりが星を隠すためである。月はとうに沈んでいる。見上げれば星だけがある。星明りだけでうっすらと影さえできる。それが満天だ。

 本来であれば三人で来ることになっていたのだが、一人から当日になって体調不良で行けないと連絡があった。中止も考えたが、連れが二人でも行きたいと言い、致し方なくこのような形となった。いまさら悔いることではないが、男女二人、それもこれまで親しくしてきたわけでもない後輩と来ることは、抵抗があるどころではなく、たまらなく嫌である。

「今日どうします?」

「今日は、完全に曇りだから観れないね」

「ですよね」

「コンビニ行って酒でも買うか」

「あ、いいですね。この辺コンビニあるんですか?」

「あるよ」


 十分ほど舗装された道路を降りれば、川沿いの大きな通りに出る。そこを右に折れて上流にさらに二十分進めば、コンビニへ着く。空は灰色の雲が流れているだけで、いくら目をそばだてても星は見えなかった。

 つまみとビールや発泡酒、缶チューハイなどを買い込み宿舎に戻るころには、十一時を回っていた。夜道を歩き身体を冷やした我らは、酒盛りを始める前に風呂に入った。

 食堂は、六人掛けや四人掛けの長机が所狭しと並べられ、二百人分の座席をやっと確保できるような広さで、北側の校舎の端にある。そこには南側の校舎、体育館へと渡れる廊下があった。その空間が、中学校であったころどのように使われていたかは、想像もつかない。

 そもそも便宜上食堂と呼んではいるが、この宿舎では食事は出されない。ここは大学所有の研修センターのため、そういったおもてなしは一切ない。冷蔵庫や電気ポッド、電子レンジがあるので皆そこで食事をとるのが習慣であった。

 私が机の一角に陣取ると彼女は向かいへ座った。つまみ、スナック菓子を広げ、冷蔵庫から冷やしておいたビールを取り出し、二人きりの酒盛りを始める。

「ここ過ごしやすいですね。部屋もお風呂もきれいです」

「あれ、夏合宿行かなかったの?」

「そうなんですよ。他のサークルの合宿と重なっちゃって。夏合宿もここだったんですか?」

「そうそう。バーベキューとか花火とかしたよ」

「ええ、いいなあ。楽しそうですね。でも、もっと山の上の方の、星がめちゃくちゃきれいなところに行ってると思ってました」

「そういう合宿もあるけどね。そういう所に行くと結構お金かかるんだよ。だから、みんなで遊びに行くような合宿は基本ここかな」

「じゃあ本気で星を撮りに行く人なんかは、山の合宿に行くんですね」

「ここもそれなりにきれいだけどね」

 人の魂や性格、本性、本当の自分、などと評される内部構造は、ひどく複雑に形成されている。仮にその内部構造が三次元的であるとすれば、ある者からは円に見え、ある者からは三角形に見え、またある者からは円錐えんすいを斜めから見ているようになろう。それでさえ見えない影側がどんな形状か分からないため、完全に見えているとは言えまい。たかが三次元と仮定してもこれだけ複雑である。

 人の内側の多次元性は、社会が複雑、多次元化した現代を暮らす個人の理解に及ぶところであろう。にもかかわらず、我らは人を見て、見る度に違う面を発見することはない。それは当然、個人や場によって見せる表面が一定であることによる。

 今、目の前でころころと笑う彼女もある一面に過ぎない。よく回る口、見上げるように私のを見る仕草、遠慮なく酒をあおる様子、それら表層から得られる情報は、部の先輩と二人きりという場に合わせて作られた一面で、それに合わせる私もまた、適した面を選んで応じた。

敷島しきしま*さんって彼女いないんですよね。欲しいと思わないんですか?」

「そりゃあ思うよ。でもねえ、それができないんだよね」

 酒の席とは妙なもので、一時間も飲めば共に過ごした時間が短い仲でも旧知昵懇きゅうちじっこんのように振る舞ってもよいと決められている。酔いが回り、正常ではいられないからだけではない。酒を飲むというのはある種儀式めいたものであって、共に酔わなければならない。酔って互いの距離が詰まったと認め合うことを、了承しなければならない。このことを受け入れないのであれば酔ってはならん。しかしまた酒の良い所は、狭まった距離は醒めた後には無かったことにしてもよいことだ。

「ふふ先輩。種は蒔きましたか?」

「ん、たねって?」

「種蒔いて、水あげて、肥料もあげないと花は咲かないんですよ」

「はは、なるほど。痛い所つくなあ。でもね、そもそも種蒔く土壌がないことには仕方ないでしょ」

「そこはあ、まあ開墾して耕せばいいんですよ」

「どういう意味だよ? はは、ちょっと一服してくるわ」

「え、敷島さんって吸う人なんですか? 知らなかったです」

「まあ知らないだろうね、誰にも言ってないし。知ってるの部では中村だけだと思うよ」

「へえ、じゃあ私で二人目ですか。弱み握りました」

「別に秘密ってわけじゃないから」

 体育館に続く渡り廊下に灰皿とベンチが置かれている。深く一息吸うと、一拍おいて勢いよく吐く。白い煙が風にたなびきながら姿を消していく。肺に煙を入れるたび、酔いが一段一段と深まっていくのが分かる。屋根越しに見える空はあいも変わらず、雲が流れるだけであった。




     二


 目蓋の先がぽうっと白んでいる。目が覚めてしまった。私は一度目覚めると、いくら眠たくても、なかなかもう一度寝ることができないたちである。覚醒していると言うには気抜けており、眠っているとするには生気のある中、惜しいと、もっと寝ていたいと、あっちへこっちへ寝がえりを打つ。これはもう寝られないと悟ると、枕元をまさぐり腕時計で時間を確認する。まもなく正午になろうとしていた。

 寝間着のまま部屋をあとにし、洗面所へ向かう。部屋の鍵は開けたままだ。今日この宿舎に泊っているのは我らだけであるので、そのような不用心をしても平気であろう。洗面所は、食堂とは反対へ廊下を進み、風呂場とトイレの間、廊下に面して置かれている。途中、廊下の窓から外を見ると、昨夜同様曇りであった。今晩も駄目かもしれない。

 髪を濡らし寝ぐせだけ直すと食堂へ行った。食堂に、テレビ番組を一生懸命睨みながら菓子を食う彼女がいた。

「おはよう」

「あ、おはようございます。今起きたんですか」

 冷蔵庫から、昨日買っておいたペットボトルのお茶とサンドイッチを取り出し、彼女と同じ卓の対角線に座った。

「今日は見れますかね?」

「どうかなあ。予報は?」

「曇りですけど、十二時回ってからなら見れるかもです」

「そっか」

 サンドイッチを飲み込んでお茶を飲む。そのまま渡り廊下へ出て煙草を吸い、また席へ戻った。

「タバコっておいしいんですか?」

「美味しいとかじゃないな」

「じゃあなんで吸うんですか?」

「吸いたくなるから、かな。お腹が減ったら食べるでしょ」

「不味いものは食べたくないですけど」

「そうだね。じゃあ煙草も上手いのかも」

 二十四時から観測を始めるとなれば、およそ十二時間ほど時間が空くことになる。車があれば観光できるような場所もあるが、今旅は電車旅であったので、それも望めない。

 彼女は彼女で暇をつぶしてもらうとして、では何をしようか、と一人で過ごすことを思案していると、「夜まで何します」と聞かれた。

「うん、どうしよっか。することはないから自由にしてもらっていいんだけど」

「あの、夜、バーベキューしませんか?」

 言葉に詰まる。二人しかいないということがわかっているのであろうか。バーベキューはそれなりの人数、少なくとも四人以上いなければ成立しえない。一人が焼き、もう一人が焼いている者の支援を務める。残った者は焼けた物を食べる係である。この食べる係が一人では、一人楽をすることになり罪悪感から食も進みまい。

「さっきおばちゃんに聞いたら、できますよって」

 おばちゃんというのは、旅館でいうところの女将である。女将がふさわしくなければ管理人と呼ぼう。大変気さくな方だ。

「でも肉がない。一番近くのスーパーだってここから歩いていけば一時間はかかるよ」

「そこも大丈夫です」と言って親指を立てる。

「おばちゃんが車出してくれるって言ってくれました」

 もっと早く起きれば、この策謀を阻止することは出来ただろうか。


 十六時に買い出しへ行くことに決まり、それまでは自由時間となった。私は、宿舎の目の前を流れる川まで散歩に出ることにした。川は大通り沿いを流れており、通りからは見下ろす形になっている。昼間はなかなか車通りが多い。ここらの集落の生活道路になっているようだ。通りを上流方向へと足を進めながら川を眺める。茶色く濁った水が勢いよく流れ、雲を抜けてきた光を鈍くかえしている。上流で降った雨が、一夜かけてここに流れ着いたということなのだろう。

 橋に出た。そこを渡ると土手まで降りれる石段があるように見える。宿舎には何度も泊ってきたが、ついぞこの川を見物したことはなかった。あそこで煙草を吸うのは気持ちよかろうと思い、行ってみることにした。

 川辺まで来て石段に腰を下ろす。川のうねりが心地よく響く。水が澄んでいるときはどんな調子であったか思い出そうとするが出てこない。穏やかな川でも吸ってみたいものだ。

 あれが何故なぜこの旅に来、バーベキューをやりたいと言い出したのかと、私が推理する必要はない。いや全くの無駄である。人の心持なぞ絶えずぶれている。理想と現実でぶれて、本音と建て前でぶれて、嘘をついてぶれて、見栄を張ってぶれている。さながら秋の嵐に巻き込まれた舟のように、沈みこそせずとも留まることが出来ずにいる。

 かと思えば自分の言葉に縛られ、場に縛られ、窮屈極まりない。波に任せて流されていくことさえ出来ぬのである。思いが定まらず絶えず変わるが、時間の制約にとらわれ、致し方なく解を表出ひょうしゅつしているに過ぎない。

 揺れ動く波の、たった一瞬が切り取られ明るみに出ているにすぎないことを、ぶしつけに心の内に上がり込み、人間関係を明らめて俗にする。全く無駄である。そんなことをせず、ただ超然と見ていればいいのである。人も景色も平面のであるかのように、芸術を鑑賞するかのように見ればよい。そうすれば、損得も面倒もない。

 無論人の世に生きる限り、そこまでには成り切れない。しかし、非人情のつもりで過ごせるうちは非人情のつもりでいよう。よし、そうと決まれば彼女のことは一幅の美人画とでも見ればよい。

 煙草を吸い終え、辺りを散策することにした。少し先で、川辺のベンチに座り本を読む彼女を見つけた。目の前を轟々と濁流が流れる中、一人の女性が静をまとって座っている。なるほど、非人情の観点から見ると、なかなか詩的に映る。私は、自分がどれほど非人情を保っていられるかと試してみたくなり、彼女へ近づいてみた。草を踏む音に気付いた彼女が、つと顔を上げる。口は動くが言葉は発しない。目は私を映した後、閉じられた本の表紙に移り、また私に向けられる。

 明らかに動揺している。恥ずかしがっているようだ。彼女の心理に触れたとき、私の非人情の仮面は外れた。

「えっと」と言い淀む彼女はまた画に戻ってゆく。

「どうしました? もう時間ですか?」

「いや。俺も散歩してたらたまたま会っただけだよ。座ってもいい?」

 彼女は黙って、私のためのスペースを開けた。

「あの、別に変なものを読んでいたわけではないんです。ただちょっと驚いただけで」

 彼女の膝には夏目漱石の『虞美人草』が置かれている。

「虞美人草か。どお?」

「どうでしょう。漢語とか哲学とかが絡んでて難しいです」

「じゃあ、なんで読んでるの?」

「読み始めたら途中でやめたくなくて。敷島さんは読んだことありますか?」

「あるよ。最後まで読めば面白いと思えるよ。多分ね。どこまで読んだの?」

「今、上野の万博、じゃないですけど、なんかそんなのに行ってるところです」

「うんうん、面白くなってきてるところだね。この話ってさ、俺らからするとちょっと異世界っていうか、日常とは全然雰囲気の違う社会が設定じゃない? 時代背景もそうだし。でも中の人にとってはそれが日常で、話は日常から始まってるんだよ。でもその日常が、たった一つ歯車がずれるだけで、なんだかずずっと不穏に傾いていくのが、虞美人草の魅力の一つだと思う。しかも、歯車がずれるのも天命とか運命のいたずら、みたいな被害者的な受け身のものじゃなくて、これまでの過去に行ってきたことのひずみってのがまた夏目漱石のすごいところだなって思うわけよ」

「ほうほう、なるほどです。そうやって読むんですね」

「あ、ごめん。でもネタバレはしてないから」

 互いに流れる川を見つめ黙り込む。ここで見る川も、さっき見た川も同じようにしか見えない。急な流れで濁っているため似通っているのだろうか。ゆるやかで澄んでいれば、もう少し違った表情も見られたのかもしれない。

「敷島さんは、虞美人草がなにか知ってますか?」

「いや、知らないな」

「ヒナゲシっていう花らしいですよ」と言って、携帯の写真フォルダーに入れたヒナゲシの花を見せてくる。赤い花びらが一回り小さい薄紅の花びらを包み、中心に黄色のしべのある大きな花だ。

「綺麗だね」

「そうですか。私は赤すぎて毒々しい印象です」

 時間を確認すると十六時まではまだある。また少しこの辺りを歩いてみることにした。

「じゃあまたね。十六時にエントランスで」

「はい、わかりました」



 校舎と校舎の間、中庭の流し台で、金網をたわしで擦る。焦げた肉がこびり付き、力を籠めないと取れなかった。北側校舎の一階廊下だけに電気が点いて明るい。黒い校舎が両脇からそびえ立ち、空は薄いガスのような雲に覆われている。

 あれほど穏やかなバーベキューは初めてだった。焼いては食べ、食べてから焼く。わざわざ大勢でやるから忙しくなる。仕事のない者は食べるしかない。そのため焼く者は食べる者のために急いで焼かねばならない。仕事のある者がない者のために忙しく働きほどこすとは、巧妙にできた作りだと感心した。

 今宵のバーベキューには、奉仕する者もされる者もいなかった。我らは高下の区別なく焼き、食った。外から見ることができたなら、それは美しい理想郷となったはずだ。理想郷には、善も悪も存在せず、上層も下層もない。苦痛やしがらみ、利害も駆け引きも垣根も、恋愛、孝行、義理、ありとあらゆる関係が存在しない世を理想郷と呼ぶ。非人情の観点からのみうかがうことのできる世界である。

 片付けもあらかた終わり、あとは燃える炭の始末だけが残った。炭は役目を終えた今も燃え尽きてはいない。用もないのに燃えるものは厄介である。水をかけ粉々に砕かれたそれは、もう二度と使うことはできない。燃えることを許さんと、炭を潰すことが私には忍びなかった。

 正直に言おう。私は彼女に惚れてしまった。彼女の前では非人情ではいられなかった。私の心は、引かれ乱され、人情の火花が散っていた。そうなれば私は彼女の心の様を知りたくなり、言葉を引き出そうと試みた。この旅に来たことや、バーベキューでの様子などから、もしやと思ったのである。しかし、わかったのは彼女に男がいることだった。男とは私も面識がある。私の思いもまた、許されないものとして、消さなければならない。




     三


 ダウンジャケットにウィンドブレーカーのズボン、冬山を登るような頑丈な靴という防寒対策を徹底した格好に着替え、校庭に出る。山の中腹に建てられた宿舎の校庭の先はなだらかな崖になっており、付近の集落が見下ろせる。雲は薄くかかってはいるが、所々切れて星が見えた。

「うう寒い。敷島さんすごいあったかそうですね」

「着こんでるからね。むしろちょっと暑いくらい」

「ええ、一枚くださいよ」

「ははは」

 校庭の中心にブルーシートを一枚敷く。ここに一晩中寝転がって流星群を観望するのだ。彼女はその隣に望遠鏡を建て始めた。望遠鏡は、鏡筒きょうとうという星を映す筒状のパーツと、鏡筒を固定し見たい星へと照準を合わせる赤道儀せきどうぎ、三脚の三つに分かれている。今回は電車移動であったため、部にある一番小さなものを持ってきた。そのようなものを覗いても別段珍しいものを見ることは出来ないことを知っていたので用意する予定はなかったが、彼女が使いたいと言い持ってきた。

「あの、建てたんですけどこれで合ってますか?」

「うん、大丈夫そうだよ」

 望遠鏡を確認してからブルーシートの上に転がる。草の柔らかさが伝わるが、身構えていた地面の冷たさはなかった。これだけ着こめばそれも分からないようだ。彼女は寒さで地団駄を踏んでいる。コートなら部屋にあるが、それを貸そうと声をかけていいものかと悩む。あれには煙草の臭いが付いているだろうし、男の着ていたものなど借りたくないかもしれない。

「敷島さん、何入れたらいいですか?」

「惑星は今見えないし。すばるは……」

「すばる、どこですか?」

 オリオン座の三星からすばるを探すが、すばるのいる空には雲がかかっていた。

「雲で見えないね」

「えええ」

「まあ適当に明るい星入れてみな」

「はい」

 天頂には、ちょうどふたご座が昇っている。全体は雲にさえぎられ見れはしないが、明るく並ぶ兄弟星のポルックスとカストルは見えた。神話で、二人は双子の兄弟であり、兄カストルは人間だったが、弟ポルックスは神の子として力を持った。二人は共に戦士として戦ったが兄だけが死に、弟はどんな傷を受けても死ぬことはなかった。一人生き残ったポルックスは兄との運命の違いに嘆き、父である大神ゼウスに自身の命と引き換えに兄を蘇らせて欲しいと懇願した。ゼウスはポルックスの優しさに応え、二人を星座として天へ上げた、とされている。

 ポルックスは金色に輝く一等星、カストルは白く輝く二等星である。星の輝く光度の差から生まれたのが、神の子、人の子という差なのであろう。しかしこの光の強さは地球上から見る、みかけの明るさである。事実は、黄色く燃える星よりも白く燃える星の方が熱く明るいことが現在では知られている。

 カストルが弱く見えるのは、より遠くにある存在だったからである。

「敷島さん、入りました。見てください」

 鏡筒を覗くと、BB弾よりも小さな白い丸が見えるだけだった。

「これはプロキオンだね。子犬座の一等星だよ」

「へえ、子犬座ですか」

「子犬座はこの星と、その斜め上の星二つだけで出来ているんだよ」

 指さす先を目で追おうとして自然と彼女の体が近づき、乾いた空気ごしに彼女の存在が匂いと熱を伴って伝わる。自分から触れてしまうことがないようにと、要らぬところまで力が入っているのが分かる。

「星二つだけって、ただの棒ってことですよね。それで子犬って無理ありますね」

「まあ、星座ってそういうとこあるよね」

 そこから冬の代表的な星座と、六つの一等星から成る冬のダイヤモンドについて説明した。

「詳しいですね。さすが先輩」

 並んでブルーシートに横たわり無言のまま流星を待った。雲は時間と共に流れ去って行き、晴れ間の方が広くなっていた。右に彼女を感じながら左の空を見る。地平線からはしし座が上がっていた。

「あ、流れた!」と彼女が大声を上げた。

「ほんと、どこ!」

「あそこから、こうやって」と東の空のわりと低いところを水平に指で追った。

「長さは?」

「長さですか。長さは、短かった、ような気がします」

「じゃあ散在だね」

「散在ってなんですか?」

 流星には二種類ある。流星群を構成する流星か、そうではない散在流星だ。その流星が群であるかどうかの判定するにはいくつかの条件がある。まずは流れる方向である。それから速さ。そして最後に流れた場所と長さの関係である。私はそれらのことと具体的な判定法を教えた。

「へえ、面白いですね」

 秋から冬にかけては、街さえ暗ければ、わりと散在流星を見ることは出来る。流星や流れ星は秋の季語でもある。流星は珍しいものではあるが、見ることのできない特別なものではなかった。流星を特別な存在へと追いやったのは科学の光であり、今はまたその流星を自在に降らせようとする科学さえある。しかし、自らの手で消失させた自然を探し、慈しむのは不自然なことではない。人は手の届かないものになって、初めてその大切さに気付く。苦労しないと得られない、と不便だからこそ追い求めたくなるのだ。人間の欲求の形とは、どれも恋愛と似ている。

「敷島さんって好きな人いないんですか?」

「いないよ。昨日も話しただろ」

「まあ、そうなんですけどねえ」

 寝転がり互いに声だけを聴いて話す。顔を見れない分、余計にその存在に集中してしまう。

「でももったいないですよ。先輩いい人ですし。こうやってちゃんと絡んだの初めてですけど、敷島さんって話面白いし、頭良さそうだし、やさしいし、絶対彼女できると思うんですけどね」

「いやいや。やめろって」

「いや、ほんとですよ。もっと自分からガツガツ行けば絶対できますよ」

「はいはい、わかった。わかりました。ありがとうございます」

「いやほんとですよ。冗談じゃないですからね」

「……あ、流れた」

「え! ほんとですか!? 見てなかったあ」

「散在だな」

「また散在ですか。ああ、寒い。背中冷たい」

 闇に眼が慣れたおかげで、立ち上がった彼女の顔が夜に浮かび、はっきりと見えた。普段は見下ろす彼女の全身が、今は私を上から威圧しているかのように感じ、目が離せなかった。

「部屋に着てきたコートならあるよ」

「え、ほんとですか。もっと早く言ってくださいよ」

「ごめんごめん、忘れてた。貸そうか?」

「貸してください。取り行きましょ。ほんとにもう寒いです」

 我らは足早に暖かな宿舎へと戻っていった。



     

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