七
昨日同様、見事な夕御飯だった。
問題というのは東浪見さんのことだ。東浪見さんのことを判断するにあたって、第一に僕が彼女を
第一印象こそ重要とする
連絡先の交換も昼食の同伴も東浪見さんの発案だった。再三「次、どうします?」と聞いたのも彼女である。僕が見初められた訳では無い。恋愛が面倒で、しかしまた、恋愛をしなくてはならないと、何にとは言わないが、確かに決められた僕と同類だろう。僕らは全く基盤を
数日前、卒論を書く為の論文を、居間のソファに転がり漫然と読んでいた折、先輩の三鷹さんから、今晩ご飯でもどうかと電話が入った。尋常ならざる事と跳ね起き、嬉々として家を出た。土曜だったから三鷹さんも私服で居た。メールの遣り取りこそあったが、会うのは三月以来だった。飲みに行きたいと誘うのはいつも僕の役目だった。先輩からは誘い辛いと言い、加えて誘う手間を避ける節のある人だ。感染症対策として会食は自粛してくれろ、とお上が言えば自己の抑制を図り従うことを美とする僕らが会うなど、尋常ではない。
近況報告で間を繋ぎ酔いが回るのを待つ。
「あの、三鷹さんがたとえ童貞じゃなくても、その意中の女性と今までの女性は別なんで、自分から行くのが怖いのは、変わらないと思うんですけど。それを童貞のせいにするのは、逃げにも思えます」
「うーん。痛いとこ突くなあ」と
「でも、やっぱりそれとは別なんだよね。童貞ってどうしても、種の雄としては劣っているわけだし」
僕の手荒い反論は的外れの様だが、三鷹さんの言い分も珍しく要領を得ない。何がそこまで三鷹さんにショックを与えたのか推理しなければならなかった。パートナーを切らさない人を獣的だと見物し、あれは違うとして来た。かかる人とかかる時ぞ、果たそう。それが美であり善であり理であり人だとして来た。そう導いた三鷹さんが何故?
女友達に手を衝いてでもさせて貰えと言う。僕ら自身、童貞は愚であり劣であり、百害あって一利なしと認めていながら、それでも真当にだけは立っている積もりだった。半ば個性とさえ思ってきた。好きでもないのに付き合う輩を見て、そう成れないくせに、ああは成らないと誰にでも無く己の怠慢から誓い、思い違いには気付いてはいると言い聞かせながら、卑しむ心持を作った。これが己であると認めてやり、嘘無く生きる積もりでいた。だから今更なのだ。今更童貞と笑われても、揺らぐ筈も無いにも
訳は直ぐに勘付いた。相談した旧友の女性というのが、自分の事を理解してくれていると信の置いた人だった。しかし、童貞の一点に
その一件が無くとも、僕はこの童貞を是非にも捨ててしまいたいと思っていた。それにもう卒業も真近だ。だが、時節柄関係無く出会いなどありはしないのに、この状況であるから
この旅で人に会うとは思っていなかった。「次、どうします?」と再三聞かねば済まない女だ。好きでは無い。コインランドリーで隣を見下ろして居た彼女、パスタを頬張る彼女、並んで電車に揺られる彼女、理想郷で海風に目を細める彼女、駅で手を振り別れた彼女、どれを取っても悪印象は無く良が立つ。しかし、いつでも真先に浮かぶがマスクに覆われた彼女では、共に居ても自分が罪悪を犯している積もりに成りかねん。
僕と東浪見さんは協同して電車に乗った。恋愛のレールは敷かれてあるが終点は分からない。もし車掌が居るのなら、愛も恋も持ち合わせない僕らは隠れなければならないだろう。電車は勝手に進む。いや、進めないのであれば、降りる他は無い。折角乗れたのだから降りるのは惜しい。手を伸ばす気にさえなれば、きっと掴める半月だと、互いが互いを定め甘く見るも、ままよと差し出す覚悟も無い。
旅は明日が最後。明日を超えれば又会うことは無い。終点はもう地平線に見えてある。何事も無く、男女から赤の他人に戻る。乗るだけ時間コストも心理エネルギーも損をした。久方振りに電車へ乗ったが、やはり恋愛は面倒だ。愛も恋も、振りをしている内は面倒しか実らない。一足飛びで恋を発見出来ていた高校時分は何だったのだろう?
今夜は酒が進まない。一合飲んでも酔っている気配が無いから
ミュージックプレーヤーのマイリストをランダム再生させてゆく。歌手に続いて歌うも、寝ながらでは囁きになる為聞こえて来ない。ラブソングを歌っている間の方が、真性の恋心を宿している気がする。長渕剛の『交差点』に、対象無く切に「行かない
歌が変わる。サカナクションの『INORI』。詞は無くただラララと詠う。祈りとあるが、雅楽の如き幽玄も、教会に鳴るオルガンの如き尊大も持たない。テクノミュージックで支えられている。依然、僕もラララと歌う。歌って初めて祈りと成る。どこにも属さない。どちらの神にも捧げない。己の丈をただ一意専心に、当て無く放出する祈りだ。
また変わる。二度変わるのなら三度目もやはり変わる。幾ら変わっても元の歌へは行き着かない。巡ることなく変遷し続け、終いには大字になっていた。こちらの方が歌い易いのだ。聴き疲れてヘッドホンを外す。首が軽い。頭に何を歌っていたか忘れた。たった今何を歌っていたのかさえ、プレーヤーの表示を見なければならない。あ、また変わった。
夜更けが始まる。旅は明日が最後だ。せめての成果をと、座卓を隅から引っ張り出し、キャンパスノート、『草枕』、灰盆を置いた。
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