果たして彼女は可愛らしいが、初見の趣とは様変わりしている。スプーンとフォークとでパスタを丁寧に運ぶ口元には丘陵なる豊麗ほうれい線が働き、えくぼを中央に据える黒子ほくろの四辺 *は似付かわしくない。幼さはマスクに張り付いていたのか、そこに座る東浪見さんは、成熟した溌剌はつらつとした女性だ。あどけなさを陽滅ようめつした、夏の女だ。雑談に花を咲かせば、歯茎を明らめて笑う。声色さえ違って見えるのだから、耳が目に対して忖度しやがる。マスク美人の存在は聞きしに及んでいたが、なるほどこれか。

 蕭蕭しょうしょう*しぼむものがある。もはや義務としてここへ座っている他は無い。食事を終えても、コーヒーを卓に置いて、雑談はつづく。僕らの性質には、近しいものがあるのも確かだった。読書を好み、しかし、メディア化に依って社会現象となった小説には手を付けない、天邪鬼を所持していた。

 ただ、失望の思いは拭いきれない。おくびにも出してはいけない程、彼女を傷つける念であることはよく分かる。分かるからこそ、隠そうと努め、おそらくそれは成功している。傷つけられた者は、治癒の為か復讐の為か、こちらへ向けて矛を振るう。刻まれる傷は深いだろう。僕には、それを避ける術も、受ける度胸も無い。背も低く外見的優点を持たない、はなから期待もされていない僕は、失望の意を表出するにも値しない。過ぎたる毒を吐けば、確かな因果応報が作用して、すりきれ致死量の毒をむことになる。

 カップは空となり、微小時間で寂れていく。白き陶磁肌に根差したかびの如き茶渋が底へ、金細工の縁にまたがる品の無い口跡を指の腹で擦れども、乾いたコーヒーは依然として在る。無論、この作業は東浪見さんに気取られぬ様、相槌を打ちつつ行われた。彼女は、半分残された水々しいグラスに手をかけもせずに、口を働かせる。僕は三つの思考を並列演算させ、カップを眺め、彼女を観察し、最大領域でもって次なる文言の研究をしていた。

「そろそろ出ませんか。僕たちコーヒーだけで、三十分以上こうしていますよ」

 時刻を聞かれて腕時計を向けてやる。彼女は単簡な驚歎を見せた。

「じゃあ、さいごにケーキだけ食べませんか?」

 あまりお腹は透いていないと言うから、ティーケーキセットを一つだけ注文することにした。ウェイターがホールを行き交っていない所が、普段は観光客のみを相手にする高級店の証かしらん。仕方なく席を立って注文を入れるついでに、会計も済ませた。紅茶は僕が貰う。一枚の皿に乗せられたメロンタルトと、添えられた一本のフォーク。店からしてみれば当然の処置も、二人で分ける腹積もりであった故に、満ち足らないサービスだった。解は自明に、もう一度ひとたびウェイターに声掛け持って来させるか、どちらかが先に食べる法がある。このレストランの仕様は随分声を挙げにくい。

「小湊さん、先食べていいですよ」

 こうして向い合って話している位だから、今更感染なんてものは気にしない。審査せねばならないのは、間接キスだ。僕の食べ残しを渡すことにも、使用したフォークを回すことにも、後ろ目痛い念が湧くであろうことが予期される。いったい何の顔をして、フォークを差し出せば良いのか。裏にして、僕を後へ回して呉れれば楽なのだ。僕は澄ました顔で、おいしそうとでも口に出して受け取れば良い。残念なことに、僕の男という性属が、それを許さない。抽象化された男において、女の前に座ることと、鼻の下を伸ばすことは同値である。出会ってほんの数刻の男女であるから、僕は抽象男子の側に立っていると認めねばならない。自分を後にしてくれと頼むことは、貴女の唾液に与りたいと受け取られても、こちらに非がある。

 返答に臆することあって、非自明な第三の解を探す。卓に常設されたマドラーの束を見付けた。

「東浪見さん、フォーク使って下さい。僕はこっちのマドラーを使いますから」

 憂いが無くなれば後は早い。半分に分ける為にフォークを借りて、タルト生地を割っていく。メロンへフォークを刺し入れた段階になって、ウェイターが皿とフォークを一式持って来た。どこから見てたか知らんが、これが高級店たる所以ゆえんだろう。

 戸を開けると、僕らが出て来るのを待ち構えて居たのかと思うほど、一部の隙も無い蝉の声に囲まれる。

「ごちそうさまでした」

「いえいえ。一人旅で困っていたところを助けて貰ったので」

「そうですか。ありがとうございます」マスクで下半を覆い、目尻に二三の皺を寄せて声無く笑う。

「次、どうします?」

 次と聞かれても困るが、こうして店先で並んで立った儘で居る訳にいかないのは確かだ。事前に用意した旅のしおりを顧みる。

「今日、本当は美術館に行く積もりだったんです。ほら、山の上に在るでしょ。でも、コインランドリー探さないといけなくなって」

「あー。ありますね。じゃあ、今からそこ行きましょうか」

 駅まで下って列車に乗った。左の車窓景色を気に掛ける素振りで、右の彼女を伺う。第一の少女然とした東浪見さんに戻っているが、第二の東浪見さんを知っているだけに、ただ可憐いじらしいと見ることは、もう出来まい。はなから第二の東浪見さんと出会っていれば、隣の彼女を惜しむ必要は無かった。これもパンデミックの二次被害の一種で、僕の貰った唯一の正式な被害でもあった。

 人の開いた所に敷かれたレールであるから、上った所で山が深まることは無く、平凡に退屈な森が、前から後ろへと流されていく。この木々さえ開いた後に人が植えたのかと思える程個性が無い。

 二つの駅を離れたのち、トンネルへ入った。豪音から車内中の会話が中止した様で、みなが淋しげに黒が流れる窓を見つめて待った。トンネルを抜けた先は、深い山の中だった。葉が揉んだ光に包まれ、そこかしこから漏れる安堵に、話が再開される。じきに着いた。

 森の中に建つ石で覆われた美術 *は、異質であるのに、ひっそりという形容がまる不思議な物体だった。クレーターの如く森が開かれ、芝生が瑞々しい。大地が隆起し風化を経て残された岩石の如き多面体デザインの美術館は、青空こそ映える。夏こそ映える、今の美が在る。陽光を破砕し、己の光としてそれらの岩盤はきらめく。風に木々が鳴ろうが、芝が波打とうが、一向に構わない。自然に左右されないという、自然のみが獲得できる強さが、そこに体現されている。

 館内は薄暗く、掛かるに誘蛾灯の如き明かりが当てられているばかりだ。掛け軸に屏風、たまに巻物と日本画が並ぶ様は、全体で一つに仕上がっている。正に* 唱えたい位だ。僕はアートに疎い者だから、画師の委細を読んでみた所で、シナプスの火花が起こることも無いが、それでも没頭しようと試み読んだ。

 二階は打って変わり明るい。窓のない建物に昼光を彷彿させられるのは、何も照明だけでは無い。色彩軽やかな油絵が展示してあるのだ。これらを印象派と呼ぶことは知っている。ここでも没頭の積もりは続けている。一枚の画で停まった。緑と民家が描かれているだけの画だ。どこも明瞭な輪郭は与えられていないが、不安定さは無い。写実的でないにもかかわらず、実物以上に見た者に実体を伝える。温かく厳かで、無作為な創作物であった。こればかりは名を憶えておきたいと携帯に、向井潤 *とメモを入れた。

 三階は白けて見えた。ポップアートとでも呼ぶべきか、随分分かりやすい。うんうん唸らなくとも、作り手の意図が読める。現代に求められるアートがこういうものだとしたら、嘆かわしい限りではないか。全てのエンターテインメントが便利に変わり、芸術でさえ消費される物に成り下がったのだろうか。芸術は高尚で、届かない所に価値があるのではないか。楽しむ為に、向き合う真剣さが必要だからこその、美術ではないのか。娯楽のためのストレスを抱えることが出来ないのが現代の社会なのか。卒業が猶更なおさら恐ろしい。

 降りる時は反対に、昼をとおり抜け陰翳礼讃に落ち、夏に出る。駅までの道々、新緑のきから届く音を他所よそにして、銘々感想を語り合う。互いに美術に暗く、凄いや良かったなどと感嘆符を口にするだけで満足だった。

「次、どうします?」

 又次と聞かれて、いよいよ困った。旅のしおりでは、ここらで昼をとる積もりでいた。

「是非見ておかなくちゃならないものはありますかね?」

 こう問われて彼女の方でも困っているらしい。眉を面白い位八字にして、まだ見ぬ駅を遠く置く様子で思案に入っている。

「絶景を観るなんてどうでしょう」

 如何にも旅然とした提案を引き受けて、電車で温泉街を過ぎ海まで下り、下った所から今度はかちで小山を登る。両面草繁り、二人並ぶがやっとな細道は足元が悪い。石段は不揃いで高くなったり浅くなったりする。昨日の雨で出来たぬかが足を取る。ここらで人と擦れ違うこともないだろうと、マスクを外した。東浪見さんもならって外す。喫煙の身重には、溽暑じゅくしょ*打ち付ける坂道だけでも苦労だった。三叉路に当たれば、上りを選択した。岨道そばみちから景色を臨む気力も無い。ひたすら早く着けと心内で念じていた。

 前兆無く晴れる。一寸先は森の出口で芝が広がる。青の中に岩肌が殿と座る。海から歩いて、また先の美術館まで戻って来たのかと思われたが、それは数瞬のことだった。森の中にぽっかりと芝が広がっているのでは無い。ここが森の先端だった。芝の先にはただ青空が有る。天然の岩は角が取れ、見る者に強さを主張しない。触れる者だけが、その矍鑠かくしゃく*たる不壊ふえ*を知る。岩に立つとそこは崖だった。下には磯があり、良い波砕音はさいおんが昇って来る。

 絶景とは遠いが、良い景色ではあった。煙草を呑んだら気分が良さそうだ。岩に腰掛け海を見下ろしつつ夢想した。無論、波音は絶えず上がる。海風に呑み込まれると、額の汗が冷えて気持ちが良い。耳を澄ますと、風の行方ゆくえも分かる。風は芝を舐め木々にち合い葉を鳴らす。鳴らすだけで、落とすほど剽悍ひょうかん*ではない。風は森へ落ちる者と空へ逃げおおせる者とに分かれる。空まで逃げたのち、どうなるかは知らん。千散してその存在を逸するのだろう。

「ここ、本当は日の出が綺麗なんです」

 そう言っている内に、太陽が山に入り、全体が影になった。空も海も青い儘フルカラーの世界で、僕らの立つここだけがモノクロに下がる。何故か淋しくなる。

「少し来るのが遅かったですかね」

 後ろから聞こう声に詫びの気色けしきが含まれ、これはフォローせねばと振り返る。東浪見さんの背に、黒く沈んだ山の頂きがすっくと在った。

「これはこれで涼しいですから」

「ここ、理想 *って言うんですよ」

 彼女が手を添える碑柱には確かにそう銘されてある。

「理想郷ですか。さぞかし朝日が綺麗なんでしょう」

「どうでしょう」

「見たこと無いんですか?」

「一度、友達と初日の出を見ようとしたんですが、寝坊しちゃって。ここまで登った時には、すっかり明るかったです」

 彼女も隣に腰かけ、海を眺めて雑談を続けた。空もようよう明るさにかげりが出始めるが、まだ青い。海風も止んだ。僕が立ち上がり、そろそろ行きましょうと言うと彼女も応じて立つ。

「それで、次、どうします? 磯に降りてみますか?」

「いえ。宿でご飯が出るので、もう帰ります」

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