「それじゃ」と彼女は出口に歩く。連絡先を聞いておこうと、心内で文言を作ろうとするが、彼女の名前さえ知らないことに気が付いた。

「あの。名前、聞いてもいいですか?」

「そうですね。連絡先交換します?」

「ああはい。します、します」

 ポッケから携 *を取り出し、赤外線をオンに変える。お互いに、赤外線の発せられる黒タイルの場所を示し合わせて寄せる。二度目の試行で、ようやく彼女の連絡先が電話帳に記載された。

「これはなんて読めばいいのでしょうか?」

「とら *、です。これは、こみなと、と読めばいいんですか?」

「はい。小 *です」

「わかりました。では、また」

 僕らがやり取りを済ます迄、自動ドアは、閉まりかけては東浪見とらみさんの存在を認めて開き、じき又閉じようと繰り返した。乾冷かんれいなコインランドリーの空調にさらした腕はもとより、腹まで冷えて参っていた所だったので、都合が良かった。湿風が自動ドアの開閉に合わせ、吐く息の様に流れ入る。二色のソフトクリームが混ざり合わなくとも溶け合うさながら、内と外の熱は均質に整うことなく、隣り合った。僕らが立つは、汽水域の様だ。

 東浪見さんはゼミ室に行かなければならないと、洗濯物を乾燥機に移し替えたまま出て行った。彼女も僕と同じ大学四年ではあったが、彼女は医大生であるから、卒業はまだだ。

 一人残されて『草枕』を読む。電子音のメロディーが、洗濯が回り終えたことを知らせた。確かにキーは高いが、そこに普段聞き馴染んだ甲高さはない。我が家の洗濯機は作業を終えると、早く取り出せと催促したいのか、随分主張のある電子音を、リビングに座ってテレビを見る僕に伝える。それが本来の洗濯機の役目だろう。

 ここのはちょっと違う。簡単に言えば遠慮がちだった。しかし、そうとだけ言うと、やや雰囲気が足りない。雪に沈む音だろうか。あれだと籠っているばかりで響が足らない。それに、僕の街に積もるほど降ることなど稀だから、実感のない表現になる。

 あちこち考えてみて辿り着いたのは、近頃の日課の散歩で訪れる川の音だ。橋のたもとに立ってそばだてる。悠然たる川の、橋桁に起こる泡音が絶えず聞こえてくる。心地良さにしばらく耳を任せていると、耳は勝手に飽きたか、他の音を探し出す。下流しばらくに、ちと流れの速まる小滝があるらしいことが分かった。橋桁が砕く川面に紛れて、ざざと強い流れが、かすかに聞こえる。顔を流れに沿って下手へ向ければ、小滝の白波にも立つ瀬があるだろうが、そうはしない。僕が相手取るのは橋桁と泡だ。それでも小滝音は、慎みつつ風に運ばれる。

 妙な洗濯機の合図に、一応の解釈を与えて満足し、洗濯物を乾燥機へ移した。

 ちっと外へ身を移して、胸にしまい込んでいたマルボロに火を点ける。東西とざいに伸びた通りに、東浪見さんはおろか、一つの人影も無い。一人で出た旅先で迄、一人でいなければならない道理もない様に思えたが。

 二尺に満たないひさしは、日を遮ることは無く、ただ視界の端に、小汚い陰姿いんしを見せてくる。二歩前に出せば、コインランドリーの前に立つ僕と青空の間には、何もないかと思った。すると今度は、向かいの民家の瓦屋根が顔を出す。二十世紀に取り残された幾千枚の文化財は、幾千の夏の太陽を受けて照る。

 いっそ真上を仰げば、あとは白雲が残るだけの、夏青空が見られる。ただ、それでは煙が呑めん。それに、錆びた様に鈍く照り返す瓦浪を見るのも、風流かもしれない。

 この路地に、南中に差し掛かろうとする陽光が注ぐ。すみを掃き出す程に日が盛り、かげおく *が出来そうだな、と悠長にふけりつつ、襟に汗が伝う。彼女は、僕をどのように捉える積もりだろうか。不快、不審、疑心、偽君子、陰湿な心象であれば、連絡先を教えることは無かった筈だ。詰まる所、連絡を寄こされても構わない、と思われる位には、許されている。問題は、どの折にれればいいのか、判断がつかない。東浪見さんのスケジュールを知らん。昼を誘っても迷惑かもしれん。夕餉は宿から出る。

 大気がふんだんに水分をいだき、身体から衣服に浸透した脂油に覆われていながら、喉は渇く。ここに、己の物と世間の物の、境界の真理があるように感ぜられ、面白い。だが、真理を明かす臥薪がしん*を横へ払って、コインランドリーへ帰り、自販機に小銭を入れた。

 乾燥機は依然として回る。隣の彼女の乾燥機も回っている。同じ周期で回る為に、永久に二つのモーター音が重なることはなく、四半期ずれた儘、動かなくなるのを待っている。ベンチへ腰を落ち着けて、『草枕』に喫した。

 彼女の乾燥機が鳴る。構わずに読んだ。僕のも鳴った。今少しで読み終わるために、構わなかった。

 ははあ、何か凄い。幾度いくたびそう口に出したか知れないが、読み終える毎に、そう思って来た――思う、とするほど能動的な感想を抱くのは、相応しくない。杉林を通る参道の静けさを、厳かと語る様に、津波が連れ去った *のそれぞれを、哀しといたむ様に、『草枕』に対応して、何か凄いと独り言ちる他は無いのだ。

 解説にも目を通す。何か、の一部を言語化して貰えた。

 ふうんと自動ドアの開くに合わせて、頁から目を離す。花桃色のペディキュア覗かすサンダルから、白きはぎがすくりと立つ。黒いスカートへとパン・アッ *していくと、目がち合った。

「まだ居たんですね」

「ええ。東浪見さんは、授業はもう終わったんですか?」

「はい。もう今日はおしまいです。小湊さんは、ずっと居たんですか?」

「ええ、まあ。終わるまで、本でも読んでいようと思って」

「もう」と店内を回す視線は芝居じみている。「終わってるみたいですけど」空調音だけが吹く中で、要らぬ芝居までして、ほらねと笑いかけたい様だ。

「はい。今終わったんです。ですから、これからお昼でも食べに行こうか、と考えていた所でして」

「そうなんですか。じゃあ、一緒にどうですか?」

 彼女の先導で町を歩いた。矮小な通りはどれも、二台の車が擦れ違うだけで火花を与えてしまいそうだ。時折、通りの端から古びた家が顔を出すも、大まかには、どこの住宅街も景色は変わらないらしい。新しい見識が、常に平者を喜ばせるとは限らない。退屈な見識は無感動を自覚させることなく、忘れ去られていく。

 歩くペースをあちらに合わせてやらねば、こちらが悪くなる。荷物を持とうかと声をかけるべきか迷ったが、洗濯物であるからやめておいた。この判断は上々だったと思っている。話題を振ることは怠らない。それに医学生の話は興味深い。

 もっとも、今時分は座学が基本であるから、然程さほど感染症の流行被害に直面していないらしい。下級生や上級生の中には、急遽実習の受け入れを断られる者も居て、ほとほと困った、と愚痴を聞かされることもあると言う彼女は、満足気に見えた。

 一つ、常から思っていたことを聞いてみた。感染症が流行する中、医療従事者には特段の重苦が掛かっている。軽々に出かければ、自身が病原菌を預かり、院内へ持ち込むこともありえる。となれば、プライベートであっても、特段の枷が外れることはない。一方で、世間では複数人で酒宴を囲み、随分楽しそうではないか。これをどう見ているのだろう。

「私は、とくに患者さんとお会いするようなことも無いですけど、先輩なんかは、本当に気を遣っていて。飲みにはもちろん行けないって言ってましたし、電車だって、込み合う時間帯を避けて工夫してますよ。そういうのもあって、やっぱり結構怒ってますね」

 答えは予想範疇を出ず、拍子抜けするものだった。気の抜けた返事を返し、次の話題は、と悩むために、沈黙が出来る。

「オメラ *って知ってますか?」と訊ねたのは彼女だ。

「いえ。なんです?」

 隣を歩く、陶人形程白色な透かし額を見下ろすと、彼女の方でもこちらを見上げた。目を弓なりに閉じて微笑み、鼻にかかったさえずり声で続ける。

「小説なんですけど。そうですね」歩みを続ける為には、前を向かなければならない。東浪見さんは視線を切り離して、角を曲がった。僕は彼女の隣を歩きながら、半歩遅れて曲がった為に、にわかに彼女の背を追った。「オメラスっていうのは国の名前なんです。そこは、ほんとに平和な国で、平等で、飢饉と貧困とか、そういうものが無い所なんです」

「いいですね。まさに理想郷ユートピアだ」東浪見さんがこちらを見上げる素振りも無いから、僕も前だけを見据えて応えた。

「でも、その国の地下には一人の少年が閉じ込められているんです。汚くて、言葉も知らない、痩せた少年。そういう子供が地下に閉じ込められていることは、その国に暮らす大人たちは、みんな知っているんです」

「なるほど」

「知っていながら、助けることはしません。もし、その少年を助けると、オメラスの平和は崩壊して、あらゆる厄災に見舞われる、らしいんです」

「どうして?」

「さあ。多分、そういうことは書かれて無かったと思います。どうしてもそうなんです。だから大人たちは、その少年のことを助けたりはしません」

「ふん。なるほど。哲学的な話ですね。トロッコ問題みたいだ」

「それで最近思うんです。医者とか看護師って、オメラスの少年みたいじゃないですか?」

「確かに。医療従事者の方々が、一所懸命に働いて下さるおかげで、この日本は回っていますからね」

「でもですよ、小説と違うのは、私たちはそのことを、ニュースで見て、現場で感じているんです。何も知らずに縛られている少年とは違います。そして私たちは、いつでも辞められるんです。檻から出ようと、その気になれば出れてしまうんですよ。オメラスから去るのは、私たちかもしれませ *

 最後の一文の意味だけは解し得なかった。日本を出るという意味ではない筈だが、文脈としては、そうとしか捉えられない。真意がわからず答えに窮して、又気の抜けた応答を返した。それに、彼女はまだ学生で、実習にも立っていないのなら、私たち、とするのはわずかに主語が大きいように思えた。

 彼女は自宅のアパートに洗濯物を入れてくると言って入ったきり、五分待っても出てこない。電柱に蝉が止まって、しゅわしゅわと鳴いている。エコバックに手を突っ込み、お茶を引き抜いた。飲んで、またしまう。ペットボトルの結露が手の平へ残った。首筋に塗ると、わずかに冷たい気がする。こうべを垂らして、日に焼かれるのも構わない。

 扉の開く大仰な音に反応して、つと顔を上げると彼女の部屋だった。錆びた階段にヒール打ち付け、拍子とって降りてくる。互いに目は合わさない。彼女がどこを見るかは知らん。僕は視線をカスケー *させ、全体を視る。小豆色のロング丈のワンピースに着替えられた東浪見さんは、後ろ裾が擦らぬ様にと、左手で軽く握り上げている。髪を幾らか後ろへ回した様で、首元がすっきりと、白さをアピールしてきた。手に下げられた鞄は、当然服を詰め込むビニールバックでなく、きっとブランド物の、小さなポーチだった。

「すみません。お待たせして。汗かいていたので、着替えてきちゃいました」

「いえいえ、大丈夫です。じゃあ、行きましょうか」先迄は、階段から見下ろされていた。今は、白額を透かして曝し、弓なりに目を細め微笑む彼女を、僕が見下ろしている。彼女は無い皺を伸ばそうと、腿の上を二三払い、ワンピースを整えようとした。

 再び、彼女の案内あないで町を歩く。てっきり、地元の方が通う店へ通されると思っていたが、温泉街迄戻って来た。

 なんでも、ここら観光で成り立っていた飲食店も、地元の客を呼び込もうと、手頃なメニューを用意しているらしい。僕らはイタリアンレストランへ入った。

 ウェイターが水を置く。僕は去るのを待ってから、早速手にして飲んだ。彼女も合わせて飲むだろう。

 東浪見さんがマスクに手をかける。僕はグラスに口をつけつつ、見守る。「はじめまして、東浪見さん」。

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