五
「それじゃ」と彼女は出口に歩く。連絡先を聞いておこうと、心内で文言を作ろうとするが、彼女の名前さえ知らないことに気が付いた。
「あの。名前、聞いてもいいですか?」
「そうですね。連絡先交換します?」
「ああはい。します、します」
ポッケから携
「これはなんて読めばいいのでしょうか?」
「とら
「はい。小
「わかりました。では、また」
僕らがやり取りを済ます迄、自動ドアは、閉まりかけては
東浪見さんはゼミ室に行かなければならないと、洗濯物を乾燥機に移し替えた
一人残されて『草枕』を読む。電子音のメロディーが、洗濯が回り終えたことを知らせた。確かにキーは高いが、そこに普段聞き馴染んだ甲高さはない。我が家の洗濯機は作業を終えると、早く取り出せと催促したいのか、随分主張のある電子音を、リビングに座ってテレビを見る僕に伝える。それが本来の洗濯機の役目だろう。
ここのはちょっと違う。簡単に言えば遠慮がちだった。しかし、そうとだけ言うと、やや雰囲気が足りない。雪に沈む音だろうか。あれだと籠っているばかりで響が足らない。それに、僕の街に積もるほど降ることなど稀だから、実感のない表現になる。
あちこち考えてみて辿り着いたのは、近頃の日課の散歩で訪れる川の音だ。橋の
妙な洗濯機の合図に、一応の解釈を与えて満足し、洗濯物を乾燥機へ移した。
ちっと外へ身を移して、胸にしまい込んでいたマルボロに火を点ける。
二尺に満たない
いっそ真上を仰げば、あとは白雲が残るだけの、夏青空が見られる。ただ、それでは煙が呑めん。それに、錆びた様に鈍く照り返す瓦浪を見るのも、風流かもしれない。
この路地に、南中に差し掛かろうとする陽光が注ぐ。
大気がふんだんに水分を
乾燥機は依然として回る。隣の彼女の乾燥機も回っている。同じ周期で回る為に、永久に二つのモーター音が重なることはなく、四半期ずれた儘、動かなくなるのを待っている。ベンチへ腰を落ち着けて、『草枕』に喫した。
彼女の乾燥機が鳴る。構わずに読んだ。僕のも鳴った。今少しで読み終わるために、構わなかった。
ははあ、何か凄い。
解説にも目を通す。何か、の一部を言語化して貰えた。
ふうんと自動ドアの開くに合わせて、頁から目を離す。花桃色のペディキュア覗かすサンダルから、白き
「まだ居たんですね」
「ええ。東浪見さんは、授業はもう終わったんですか?」
「はい。もう今日はおしまいです。小湊さんは、ずっと居たんですか?」
「ええ、まあ。終わるまで、本でも読んでいようと思って」
「もう」と店内を回す視線は芝居じみている。「終わってるみたいですけど」空調音だけが吹く中で、要らぬ芝居までして、ほらねと笑いかけたい様だ。
「はい。今終わったんです。ですから、これからお昼でも食べに行こうか、と考えていた所でして」
「そうなんですか。じゃあ、一緒にどうですか?」
彼女の先導で町を歩いた。矮小な通りはどれも、二台の車が擦れ違うだけで火花を与えてしまいそうだ。時折、通りの端から古びた家が顔を出すも、大まかには、どこの住宅街も景色は変わらないらしい。新しい見識が、常に平者を喜ばせるとは限らない。退屈な見識は無感動を自覚させることなく、忘れ去られていく。
歩くペースをあちらに合わせてやらねば、こちらが悪くなる。荷物を持とうかと声をかけるべきか迷ったが、洗濯物であるからやめておいた。この判断は上々だったと思っている。話題を振ることは怠らない。それに医学生の話は興味深い。
もっとも、今時分は座学が基本であるから、
一つ、常から思っていたことを聞いてみた。感染症が流行する中、医療従事者には特段の重苦が掛かっている。軽々に出かければ、自身が病原菌を預かり、院内へ持ち込むこともありえる。となれば、プライベートであっても、特段の枷が外れることはない。一方で、世間では複数人で酒宴を囲み、随分楽しそうではないか。これをどう見ているのだろう。
「私は、とくに患者さんとお会いするようなことも無いですけど、先輩なんかは、本当に気を遣っていて。飲みにはもちろん行けないって言ってましたし、電車だって、込み合う時間帯を避けて工夫してますよ。そういうのもあって、やっぱり結構怒ってますね」
答えは予想範疇を出ず、拍子抜けするものだった。気の抜けた返事を返し、次の話題は、と悩むために、沈黙が出来る。
「オメラ
「いえ。なんです?」
隣を歩く、陶人形程白色な透かし額を見下ろすと、彼女の方でもこちらを見上げた。目を弓なりに閉じて微笑み、鼻にかかったさえずり声で続ける。
「小説なんですけど。そうですね」歩みを続ける為には、前を向かなければならない。東浪見さんは視線を切り離して、角を曲がった。僕は彼女の隣を歩きながら、半歩遅れて曲がった為に、
「いいですね。まさに
「でも、その国の地下には一人の少年が閉じ込められているんです。汚くて、言葉も知らない、痩せた少年。そういう子供が地下に閉じ込められていることは、その国に暮らす大人たちは、みんな知っているんです」
「なるほど」
「知っていながら、助けることはしません。もし、その少年を助けると、オメラスの平和は崩壊して、あらゆる厄災に見舞われる、らしいんです」
「どうして?」
「さあ。多分、そういうことは書かれて無かったと思います。どうしてもそうなんです。だから大人たちは、その少年のことを助けたりはしません」
「ふん。なるほど。哲学的な話ですね。トロッコ問題みたいだ」
「それで最近思うんです。医者とか看護師って、オメラスの少年みたいじゃないですか?」
「確かに。医療従事者の方々が、一所懸命に働いて下さるおかげで、この日本は回っていますからね」
「でもですよ、小説と違うのは、私たちはそのことを、ニュースで見て、現場で感じているんです。何も知らずに縛られている少年とは違います。そして私たちは、いつでも辞められるんです。檻から出ようと、その気になれば出れてしまうんですよ。オメラスから去るのは、私たちかもしれませ
最後の一文の意味だけは解し得なかった。日本を出るという意味ではない筈だが、文脈としては、そうとしか捉えられない。真意がわからず答えに窮して、又気の抜けた応答を返した。それに、彼女はまだ学生で、実習にも立っていないのなら、私たち、とするのは
彼女は自宅のアパートに洗濯物を入れてくると言って入ったきり、五分待っても出てこない。電柱に蝉が止まって、しゅわしゅわと鳴いている。エコバックに手を突っ込み、お茶を引き抜いた。飲んで、またしまう。ペットボトルの結露が手の平へ残った。首筋に塗ると、わずかに冷たい気がする。
扉の開く大仰な音に反応して、つと顔を上げると彼女の部屋だった。錆びた階段にヒール打ち付け、拍子とって降りてくる。互いに目は合わさない。彼女がどこを見るかは知らん。僕は視線をカスケー
「すみません。お待たせして。汗かいていたので、着替えてきちゃいました」
「いえいえ、大丈夫です。じゃあ、行きましょうか」先迄は、階段から見下ろされていた。今は、白額を透かして曝し、弓なりに目を細め微笑む彼女を、僕が見下ろしている。彼女は無い皺を伸ばそうと、腿の上を二三払い、ワンピースを整えようとした。
再び、彼女の
なんでも、ここら観光で成り立っていた飲食店も、地元の客を呼び込もうと、手頃なメニューを用意しているらしい。僕らはイタリアンレストランへ入った。
ウェイターが水を置く。僕は去るのを待ってから、早速手にして飲んだ。彼女も合わせて飲むだろう。
東浪見さんがマスクに手をかける。僕はグラスに口をつけつつ、見守る。「はじめまして、東浪見さん」。
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