僕が特に親しくして貰っている先輩に、三鷹さんという男がいる。流星観測にのめり込んだのは、この三鷹さんの影響が大きい。天文において博識で、陸上をしていたことから、がたいも良かった。そして、自分から前に出て行くことはしない、謙虚なユーモアを持ち合わせていた。自信ある出で立ちに、高校を卒業して間も無くの幼い僕は、大人だなと父性を見出し信頼を寄せた。

 三鷹さんは流星観測班の班長を担っていた。夏の合宿で班長は立候補制だと言われ、さっそく三鷹さんの元へ行った。来年の流星班班長をやりたい、と言ったのは、三鷹さんへの関心だけではなかった。班長を務める先輩方が楽しそうで、混ざりたくなった。それに、ペルセウス座流星群観測合宿が楽しかったからだった。他に立候補者が居なければ僕に決まる。そして立候補者は出なかった。年末に三鷹さんと二人で、日本酒にこだわった酒場に連れて行って貰った。引継ぎ前にご飯を奢るのが習わしらしい。日本酒を飲んだことは無かったが、三鷹さんが日本酒を好きなことは聞き及んでいたから、飲めるかと聞かれた時に、飲めると答えた。今に思えば、店に着いてから日本酒を飲めないと気づく事が何よりの迷惑を掛ける、と想像も出来ていない自分が恥ずかしい。

 まさに、あの酒の席がターニングポイントだった。まだあれから三年しか経っていないが、人生のターニングポイントだったと言ってもいい、そう断言できる。三鷹さんとは、兎角気が合った。お互いに小説が好きで、偏屈で物事を言語化することに重きを置いていた。嫌いなものも一緒だった。向かい合い、わかるわかると頷く三鷹さんが眩しく見えたのは、劣化した記憶の補正効果だろうか。当然、三鷹さんに憧れた。又、変わる必要はないと気が付いた。

 高校と大学では、周りに立つ人種が大きく異なった。大学デビューの失敗らしき者を見て、やらなくて良かったと安心した。髪色を変える者。広告の積もりなのだろう。男女の大きなグループを形成し教室内の端まで届く声を出す者。あれは、敢えて他人に聞かせようとしているに違いない。他者を顧みない傍若無人な態度を取ることが出来る、それがステータスだと勘違いする気色の悪さがある。僕はそういう輪に加わらない選択をしている積もりでも、彼らの振る舞いは、僕を加わることのできない下民と錯覚させる。部の中でもやや馴染めずにいた。物理学科の大きなグループがここでも形成されたのだ。他所で小さなコミュニティを築いていても、合宿に行けば彼らとの交流は増える。

 布団を敷き詰めた上に輪になりトランプをしている中、セックスの話になった。一人が高校で卒業していると言えば、他の者が自分は中学だと張り合う。浪人していた人たちは、浪人中に済ませたと告げた。濁す者もいた。僕にお鉢が回ってきた時、童貞だと素直に伝えると、そんな堂々と言うなよと言われた。それは、隠せ或いは恥ずかしそうに言えという意味だとは分かったが、そんなことを言ってくる同級の男を、おかしな奴だと思った。

 彼らに迎合できない僕も又、キャンパスライフに浮かれた。彼女を作らなければいけないという強迫観念に後押しされ、何人かの女性と食事やデートをした。彼女らも彼氏を作らなければいけない、と追い立てられていたのだろう。決まって辿り着くのは、何か違う、という漠然とした、些細な否定だった。このまま交際を続ければ、好きになれるかもしれない、そう思えることもあった。にもかかわらず、二回三回と誘いはしなかった。

 周りと同じ方向を見て歩幅を合わせることにも、恋愛を意識することも面倒になっていった。しかし、それらの面倒事は、必ず克服しなければいけないものとして、僕の眼鏡を曇らせていた。

 三鷹先輩も童貞だった。僕のいだわだかまりをわかると聞いてくれた。教室で群れる巨大なグループをおサルさんと呼んでいた。それでも三鷹さんは孤立していない。部では先輩方の中でも信頼され、楽しく班長の一人として活動している。

 思ったことを口に出し納得できない行動を真似せずとも、僕のことをわかると言ってくれる人が、一人でも近くにいる。認識が僕を大きく変えた。振り返って分かる。それまで周りに居た人たちと新たに出会った人たちとのギャップに驚き、自分を出すことを怖がっていただけだった。

 それからは、怖くなくなった。仮令たとえ、目の前の人から嫌われたり共感できないと拒否されたりしても、少なくても一人は僕を認めてくれている。嘘で自分を覆わなくなった僕に、本当の意味で友達と呼べる人が増えていった。僕も周りの人を真直ぐ見ることが出来る様になった。

 あいつらとまた旅行に行きたい。このまま卒業してしまえば、もう全員で集まることは難しくなる。夏休みに台湾へ行こうと話していたが、感染症の為に自然消滅し、もう随分会えていない。

 一人歩く街道は、思う様に歩ける為に味気ない。気持ちと景色の距離が遠くに感じる。みんなで行った近郊の温泉街の方が活気があった。

 かんかんに照らす太陽は、僕が歩く振幅を小さくさせても、気遣って曇っては呉れない。暑さから逃げようと速めた為に、余計汗をかく。

 人にとっては、平地は斜面より上等だと思う。家を建てるにも、作物を育てるにも斜面では不都合が多い。斜面を有効活用する例はあっても、重用する例は見ない。住宅街へ逸れ道が平坦になったのは、飽く迄観光は生活の副産物である本音を体現する様で、小気味よい。

 ようやくコインランドリーに着いた。いっそ、今着ているシャツも洗ってしまいたい程だ。先客に女性が一人、店内のベンチに座って本を読んでいる。

 三方に並ぶ洗濯機は、我が家と同じ機種の縦型洗濯機だ。二葉亭のドラム式を使ってみたかったと、旧型洗濯機の並びを迎えて思う。回っている洗濯機は一つだけだったので、余ったそれらから適当に選びエコバックの服を掴み入れた。そこ迄は良かったが、後どうすればいいのか分からない。お金を入れるべき場所が見当たらないのだ。僕は家で洗濯機を回す位には家事を手伝うが、コインランドリーを利用したことはない。後払いかと蓋を閉め電源を押すが、反応がない。

 僕の背中からあふれる困惑に見かねた彼女が、投入口は入口左にあると教えてくれた。投入口は全洗濯機に対して一つであり、洗濯機に割り振られた番号を入力して使う仕様だった。これが一般的なタイプなのか、それすらも僕には分からない。お金を投入し洗濯機が回ったことを確認してから振り向くと、彼女は僕が上手くやり遂げるか見ていてくれた様で、目が合った。礼を言うと緩く微笑み、膝に開いて置いた小説を又読み始めた。

「それ、草枕ですよね? 僕も今読んでます」と、エコバックから『草枕』を取り出した。僕の『草枕』は母のお下がりであるから、彼女の物より、小口は茶け、表紙カバーは色がまだら落ちしている。

「まあ、ほんとですね! こんな偶然あるんですね」

「見た時驚きしましたよ。思わず声に出てしまいました。偶然過ぎて怖いな」

「ほんと、ちょっと怖いです。どこまで読みました?」

「僕はもう何回か読み直していますから、全部読んでますよ」

 彼女はいたずらを思いついた様に、ふふふと笑う。「そうなんですね。じゃあ、私を* 見て、どう思いました?」

「綺麗でしたよ。詩か画にしたい位です」

「ふふすみません。ありがとうございます」それから、又彼女はすみませんと続けて、左に寄り僕に席を空けてくれた。僕も間を空けて右端に座る。これが二十一世紀流のエチケットだ。

「お好きですね? 私がこう巫山戯ふざけても、乗ってきてくれる人ってそうそう居ないです」

「まあ。突然だったので、上手い句を繋げることが出来ませんでしたけど」

「いいんですよ、通じれば。ノリを合わせてくれるだけで嬉しいです」

「そうですか。なら、よかった」

「ここ使うの、初めてなんですね」

「はい。というより、コインランドリーを使うこと自体初めてでした」

 黒髪を肩先まで垂らし、さらされた白い額には幼さを感じる。つぶらで大きな眼は、笑うと今度は完全に閉じ切る。閉じ切った眼は決して横一文字などではなく、緩やかな弓を描き目尻に三四本の皺が寄っている。少し鼻に掛かった声で、朝に鳴く鳥のように儚く細い。容姿だけなら高校生や中学生にも見えないことはない。僕に対する話し方と化粧具合から、同じく大学生かと検討付けた。

「僕、旅行でこっちに来ているんです。宿に洗濯機があると聞いて一日分の着替えだけを持ってきたら、感染対策で閉まっていて。ここは仲居さんに教えてもらいました。そしたら、同じ草枕を読む人に出会って、驚きましたよ」

「旅行にですか。お一人で?」

「ええ。変ですか?」

「どうでしょう。海が開いていれば観光客も多いですけど、今年はあまりいないですね。年配の夫婦は見かけることが多いですかね。今年卒業するとか?」

「ええ。どうしてそれを?」

「私の友達も、今年大学四年で。学生のうちに、旅行に行こうか迷っていたんです。結局その子はめましたけど」

 ベンチで横並びに座り、自動ドア向こう、照らされた民家を見ている。ガラス扉で隔てられつつも、コインランドリーに透色の夏が染み入る。土地も建物も、光だって揺れることはない。揺れていたいのは僕の方だ。

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