十畳の和室。ここに一人で泊まれるとは嬉しい誤算だ。一人旅行をするにあたって、用意される部屋が狭苦しいものではないかと警戒していた。眺めも悪くない様だ。広 *の椅子に腰かけ冷えたほうじ茶をすすりながら、雨に烟る温泉街を見下ろせた。

 浴衣の袖に部屋の鍵を入れたままであることに気が付き、向かいの椅子に投げる。背もたれに跳ねた鍵は座面を転がる。ワンバウンドの様子からこれは落ちるなと感付いていたが、すが儘に見送った。

 机に置かれた藍の灰皿にマッチが入ってある。二葉亭ふたばていと書かれたマッチ箱を手に取り、二三回して遊ぶ。

 伊坂温泉・二葉亭は、新旧二棟のビルディングから成る、ここらで一等の旅館だ。戦後初期から建つこちらの旧館でも、十分綺麗にされている。老舗であれば、銘の入ったマッチ位あるのか。

 リュックから取り出したマルボ *をくわえて、マッチを擦る。マッチの火はライターよりも近く、指先に伝わる熱が緊張感を作る。やや焦って煙草に火を移してマッチを振り消した。消してなおも、揺れる光郭こうかくが、吹かした煙の手前に残る。焼き壊す危険なものが火であった。怖いと思ったからこそ、マッチの火を、より大きく明るく錯覚してしまった。

 部屋に着いて直ぐに大浴場へ行った。大浴場は新旧どちらにもあるそうだから、明日は新館の方を使うことにしよう。

 風呂場には、僕の他に一人のおじさんが居ただけだった。一対一だと、妙に意識してしまう。おじさんは僕を見る何人かの一人として希釈されない。おじさんだけが僕を見る全てだった。そして、僕もおじさんから見られる者の全てだ。

 内風呂が二つ、露天風呂もある。体を洗う背なかに、おじさんの視線が集まっている気がしてならない。おじさんが始終見てくることはないとわかっていても、いつ見られているかわからない以上、常に見られていると思うしかない。

 僕はそそくさと露天風呂へ逃げた。高い竹柵で囲われている。二棟のクリーム肌をしたビルディングと深々茂った裏山が見上げられる。晴れていれば、もう少しまともな景観を楽しめただろうに。

 岩に腰かけ、半身浴に変えた。薫風くんぷう降り立ち、上体を冷やす。さて、この後どうするか。予定では温泉街を彷徨うろつく内に夕餉時になる。駅から上がって来た限りでは、それ程見ものになる店は無かった様に思うが、土産位は買ってもいいかもしれない。

 強いこずえが考えを中断させた。まいった、夕立風だったか。温泉街に顔を出すのは、また明日にしなければいけない様だ。雲の影が濃くなる程に、風当たりがクリアになる。直ぐにざざっと降り出した。

 夏の雨粒は大きい。ならば、一つ一つの質量に見合った波紋を、この風呂面に表すべきだ。だが雨粒が起こした波紋は、直ぐに他の波紋に上書きされる。僕の肩に当たって弾ける粒だけが、その質量を表現できた。

 あとは、音もか。晴れていれば蝉が燦燦と鳴き、一度ひとたび雨が降り出せばドラムロールの様に打ち付ける。人が陽気にならなくても、夏は賑やかな儘だ。

 散策の芽が無くなり、手持無沙汰となった。部屋の広縁で煙草を吸うのはその為だ。僕も旅行に来てまで、マルボロくわえて遊惰な時間を過ごしたいとは思っていなかった。網戸にしているのは、風と音を楽しむ為だ。これだけでも旅の情緒を受けることが出来た。

 飽きれば座椅子にもたれ、テレビを点けた。ゴールデンタイム迄はどの局もニュースをやっている。新規感染者数、七日間平均、数理モデルによる予想。海外でワクチンの治験が始まったことを有識者に説明を求めるも、大したことは分からない様子。昨日も観た内容だ。ニュースに地方性はないらしい。旅館でニュースを見ることなど無ければ気付かなかった。

 ノックに応えると、仲居が夕餉を持って現れた。平時であれば食事処にて取るらしい。お椀や刺身がこんこんと並んでいく。お越しいただいてと礼を言われ、湯加減はと聞かれたので、よかったですとだけ答える。

「おひとり様ですか。お客様は東京からいらしたのですか?」

「ええ。はい」

「そうですか。珍しいですね」

「珍しいですか?」

「はい。お若いのに。お一人でこんな遠くまでいらっしゃる方はいませんよ。よくなさるのですか?」

「いいえ。僕も一人旅は初めてです」

「はあ、そうでしたか。ここらは海水浴を目当てに若い方もいらっしゃいますがね、それも近隣の方が多いですし、当館に来ていただくのは、もうちょっと大人の方が多いですからね。ああ、今は海水浴も禁止されていますけど。でも、そうですか。おひとりで。今、流行っているのでしょ? 自分探しの旅っていうのが。お客様もそうなのですか?」

「まさか。違いますよ。僕は今大学四年でね、来年からは社会人です。そうなれば、旅行に行く暇なんかは無くなるから、学生のうちに行っておこう、と。でも今時、みんなで旅行なんてこともできないでしょう? だから、一人なんです。他にもそういう人、多いんじゃないですか?」仲居の婆さんはそうですか、と気の抜けた返事をした儘、配膳を終え帰っていった。

 なかなかに壮観な料理の彩りだ。お品書きを見ると、先付の小鉢三種から椀物、お刺身、煮物、揚げ物、焼き物、ご飯と並んでいる。フレンチコース料理のように順繰りに並べるものだったのだろう。一度に並べるは、冷める、ぬるくなる、と食事にとって許容しがたいデメリットはあっても、この見栄えなら承服できる。海の幸、肉や山菜、一人前でこれだけあるか。さすが、高級旅館なだけはある。

 仲居が清酒を持って又来た。どれも美味しいと礼を言う。小鉢と刺身二切れに手を付けただけだったが、嘘をついた積もりはない。どれも美味しそうで、きっと美味しいのだから、先に言っておいてもいいはずだ。食事の時ばかりは僕もマスクを取って応対する為、どれだけ満足しているか伝わったと思う。

 バラエティ番組をビージーエムに、日本酒を楽しみ、旨いものを食べることが出来た。旅はもう成功している。明日の晩にも食べられるのだから、大成功だ。うん、悪くない。今日は移動しただけで観光は何も出来ていないが、それは明日でも明後日でも出来るから、心配はない。

 とくに牛しゃぶが旨かった。仲居が卓上鍋の火力用蝋に火を点けて呉れた為に、消えない内に食べなければいけなかった。それだけが玉にきずだ。僕は楽しみを後に取って置きたい性分なのだ。同じ理由で刺身も先に食べなければいけなかった。魚を当てにして酒も進み、序盤にして酔っぱらったのは良いことだったかもしれない。

 食べ終えたのは九時前だ。フロントに電話を入れ、下げて貰う。眠るのにはまだ早い。金を使った旅行の一日を早々に閉ざしては、コストパフォーマンスの観点から合理を欠く。しかし、することがない。友人が居れば朝方まで酒を飲み語り笑い、トランプゲームに興じたりも出来た。

 広縁の椅子に座り『草枕』を読むことにした。ビージーエムが邪魔になりテレビを消した。灰皿に吸い殻が溜まっていく。途中、仲居が布団を敷きに来た時は読むのを止めた。

 一時間足らずしか集中がもたない。布団に足を延ばして又テレビを見た。十畳の部屋に布団を一人前だけ引くのだから、何も座卓を隅に寄せる必要は無さそうだ。それでも寄せられた座卓からは、仲居らの戸惑いが見てとれる。この部屋だって、一人で寝転がる若造なんて初めて見ただろう。

 しかし、これでは家に居る時とやっていることが変わっていないではないか。これなら、明日のために早く寝た方がずっと合理的だと思い付いてしまった。

 そうだ、洗濯をしていない。二葉亭にコインランドリーがあるからと、服を一日分しか鞄に詰めてこなかった。エコバックにティシャツを入れようと手に取ると、昼間の健闘を残す汗で濡れている。

 場所がわからないので、足の赴くままに歩いてみる。館内は廊下だけ灯り、フロントロビーは無人のカウンターにだけ照明が当たっている。館内地図を見つけてランドリー室を改めて確認した。新館にある様だ。

 山肌に建つ二葉亭は、旧館の二階と新館の一階が連結されている。階段踊り場の窓に、透き通った水面の様な黒が映っている。泳ぐのは僕の影法師だ。

 着いて見るとランドリー室は消灯され、ビニール紐をたすき掛けにしたバリケードがなされていた。紐に掛けられたプレートに、感染対策のため終日利用できないと書かれている。四台並ぶドラム式洗濯機が見える所にある。汚れた服の入ったエコバックを下げて、届かない洗濯機を前に廊下に立つ自分を想像すると、悪くないに思えた。

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