吉日
杜松の実
朱夏、吉日。 ~~the Unmellowable Man, wherever~~
一
青田は、その遠さから
電
学生の内に遊んでおきなよ。
旅行好きの姉はテレビを見つつ「ここ行った」と話して聞かせようとする。僕も友人たちと何度か旅行に行ったが、四十二都道府県を巡った姉からしてみれば、貴重な学生時を無駄にしている様に映るらしい。
余計なお世話だと撥ね付けるも、到頭一人で旅行に出てしまった。
新型ウイルスの流
どこでも眠れる人が羨ましい。陽炎立つ日差し、その明るさだけが入る車内で、言葉を交わす者はいない。腹の中の駅弁は既に
あまりに
困るのは宿を二泊とっていた。なによりここで引き返せば、やはり一人旅など出来なかったと姉に笑われる。一人が淋しい人種だと定められるのだけは我慢ならない。
平地を渡る鉄道は眼下に緑を置く。自然、僕も緑を見た。ながし
青や緑は寒色だ。夏の彩りに涼しさを感じる様に出来た人間は、なかなかに都合が良い。寒くなり始めると木々は赤に黄と、暖色に変わる。一枚残らず落ちた裸の枝は、青白い寒空に映える黒き線となる。自然が涼しさを健気にも演出する夏と違って、冬は全体で寒さを
半袖素肌を真っ赤な太陽に
僕は生来、冬が好きで夏が嫌いだ。運動嫌いな僕にとって夏休みはいつも長すぎて退屈だった。汗をかくのも嫌いだった。冬休みは見るべきテレビが沢山あって、直ぐに終わりが来たから好きだ。夏の内から軽々に冬を心配できるのは、僕のこんな好みからだと思う。
閉じた本を隣のリュックの上へ預け、首にかかったヘッドホンを取り上げる。片頭痛持ちであるから、長い時間音楽を聴き続けることが出来ない。だから学生にしては高級なヘッドホンを買った。走行音は隠れ、目を閉じれば揺れだけが目的地に向かっている事を教えてくる。
何度も何度も聴いた曲。カラオケに行っても歌わない。歌うのは、一人聴きながら、歌手の後に付いてゆく。いい歌はいい小説に勝る。小説は、たった一つの祈りのために、百
ちらとリュックに載せた小説の表紙を見る。赤茶けた装飾のそれは、『草
外気が耳に触れる。ほんの三分程閉ざしていただけなのに、耳が新鮮で軽やかな空気に喜んでいる。音楽を聴くのは止めにした。
間も無く停車し、男の子を連れた若いお母さんが乗って来た。二人は僕の三列前に座って何かを食べ始める。今頃昼かと腕時計を見ると、まだ十三時を過ぎたばかりだ。僕が退屈のあまりに早く駅弁を食べていたことが知れたので、親子への興味はやや失せた。それでも他にすることも無い為に、聞き耳を立てる。
「ねえ。こっちが昆布だったよ。ママのが梅でしょ」
「あれ? そうなの? ごめんね、もう昆布で我慢しなさい。ほら、お茶も飲んで」
「ジュースがいい」
「ないよ」
「じゃあ買ってよ」
お母さんは答えないで、梅のおにぎりを食べることにしたらしい。僕からは母親の後頭部しか見えない。男の子はお母さんに手を引かれて乗り込んで来たきり、声しか聞けていない。それでも不思議と、母が答えてくれない訳を悟ってしぶしぶと昆布にかぶりつく男の子の姿を、見えているかの様に想像できた。全く見えないからこそ描けたのだろう。
下手に手端でも見えれば、そこから想像の筆を執り、整合整飾努めなければならず推理が絡む。推理が間立つときは、みな面倒事にしかならない。この旅においてだけは無粋な真似をしたくないと誓うは、リュックに片付けた漱石
「さとる。おばあちゃんちに着いたら、手を洗って、マスク取らないでね」
「なんで?」
「おばあちゃんにうつしちゃったら大変でしょ」
「うつさないよ」
「わかんないじゃない。さとるやママがカンセンしてるかもしれないでしょ?」
「してないって」
「わからないから言ってるの」
「うちではマスクしてないじゃん」
「おうちではいいんだよ」
男の子は分からないと言う代わりに、目を逸らして水筒のお茶を飲む。お母さんは男の子が理解していないことに気付いていながら、窓の外を眺めておにぎりを食べた。男の子は自分の上をふわふわと通り抜けてく母の視線を見つける。
親子はたった二駅で降りて行った。若いお母さんの背景は細部が白飛びした素人映像の様に作為的で、美しかった。ノースリーブからぬっと露わにされた二の腕が、閉まる扉の影に入る。
母親、に美しさと色気を感じる僕は変態なのだろうか。子供を愛でつつ、自身の成長の起点に立たされた女性が、殻を破り美しくなっていくのは摂理に思えて仕方ない。これをフェチズムで解決されることを恐れ、たった一人の先輩以外に話したことはない。
宿の最寄り駅に着いたのは十四時を回っていた。ここから歩いて二十分程らしい。迎えにマイクロバスを寄こすと言われたが、あの頃の僕は旅がしたくて断った。
駅前には石畳の商店街が通っている。雨除けのアーケードはあれど、日差し迄は遮ってくれない。幸いにもシャッターを下ろす店はないが、活気もなかった。店主は声も出さずに店中に納まっている。
土産を買うのは帰りにしようと決めているから、どの店にも足を入れることはない。看板を見る。次に店内の様子を通り過ぎ
蝉が鳴いている。湿っぽい夏らしい暑さがある。東京に居ても感ぜられるものだ。工芸品店の店先に飾られたポスターに、どこそこのガラス工房で体験ができると書かれている。観光地に体験は付き物であるな。何が為に金を使ってここを選んで来たのか、分からなくなりつつあった。
伊坂は海水浴と温泉を楽しめる地として、名のある観光地だ。来るのは初めてではあったが、人の量が例年を下回っていることは立ち並ぶ飲食店の数からも分かった。閑古鳥のさえずりが、前の通りを歩く僕にも聴こえた。
暑さだけでなく、ゆるく永遠に続く上り坂も僕の体力を奪っていった。ティシャツは胸にシミが出来ている。道々いくつかの喫茶店があった。一軒目は駅の
汽水域、なんて言葉がある。河川と海の繋ぎ目、海水と淡水が入り混じった水域のことを指す。何十年の歳月に、観光街と住宅街は雑然と入り組むようになった。しかし、その変化はカオス的に起こったのではない。住宅街の中に店を出したのは、偶々そこが空いていたからなのか、自宅を改築してオープンさせたのか。どちらにせよ、一繋ぎの変化の途中で今そこに店がある。僕には人為的な街の変遷も、大きな自然の一部に思える。
三軒目の喫茶店が坂の途中にあるのは、そこで一休みしたい、という要求に応える為だろう。ほら、これだって自然のルールの中で建っている。
右手に握った地図に
そして到頭今、四軒目の喫茶店の前に立っている。川が通っている。地図に目を落とせば、宿は直ぐ近くらしい。一度道を間違えたこともあって、へとへとだ。兎にも角にも、休みたい。休むのか? 休むのなら、先の店に入るべきだった。涼しい店内でアイスティでも頂きながら地図を見返すことが、最も合理的な選択であった筈だ。そうすれば、迷うことも無く体力配分の観点でも、適所であったのが三軒目だ。
窓から店内を探る。ニスを塗られて光沢付けられたカウンターは年季が入り、濃い茶のいい塩梅に仕上がっている。それだけでも、この店の出すコーヒーやお茶が上手いことが想像される。ガラスへ耳を当てればジャズの音が聞こえるに違いない。コルトレーンやエヴァンスらの、黄金期のものであれば、なお良い。
しかし、宿ではウェルカムドリンクを出されるかもしれない。無くても、部屋にお茶は用意されている。もう目前となって喫茶店で休む選択は、情けないを通り越して滑稽だろうから止めた。
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