第51話 シンヨウ
「あんなん客じゃない。様付けする必要も、『お』をつける必要もない。腹減って泣き喚く赤子と変わらん。いや、それ以下の猿だ」
彼はそう言った。
「他人の苦労もわからない可哀想な人間だ。気にするな」
黙々と片付ける私に向けてそう言った。
「他人の弱さを認められない奴が、神様なわけねぇだろ。偉いわけねぇ」
同感だった。本当は言いたかった。「ふざけるな」と豪語する猿に、それはこちらの台詞だと、言ってしまいたかった。
お前らが酒を飲んで飯を食ってる間、彼は一滴の水すら飲めずに、汗水流して働いているというのに、どのツラ下げて「ふざけるな」などと口走っているのだろうか。
この世は腐ってる。
一合瓶に残った酒と残飯を見て、歯を食いしばりながら、そう思った。
バイト終わり。スマホ画面に映る通知は、下らないニュースか使わないクーポンか、ごく稀にシフト変更のメールしか流れてこない通知欄に、見慣れない文字が並んでいた。
『針ヶ谷瑞さんからのメッセージです』
「……………………」
物珍しさから条件反射でロックを解除し、トークルームを開くと、そこには少し不可解な文字列が並んでいた。
理解に苦しむと言うより、解釈の余地が有り余り過ぎて、理解しきれない。
『美彩さんが先日の事で、酷く落ち込んでいたよ。あんな彼女を見るのは珍しかった』
『もし良ければ今日来ないかい?美彩さんも優紀もいない』
1時間程前に入った通知。時計を見ると、短針は11の文字を少し過ぎたところ。ここから駅まで歩き、針ヶ谷のマンションまで行ける電車は幸い何本かある。しかしながらマンションを往復する時間はなく、お茶一杯貰うだけで帰りの便を失う。
『悪い、今バイト終わって、これから寄ると終電がなくなる』
申し訳なさを込めてLINEの返事を行う。当事者の1人としてその話は聞きたかったが、向かう意思も時間も残ってなかった。
泣く泣くトークルームを抜けようとすると、送ったメッセージに既読がつき、
『なら泊まっていけばいい』
と返信が返ってくる。
「…………………………」
返答に困る。
行きたく無い訳では無い。だがまだ、泊まる癖がついてないというか、抵抗があるのだ。
居心地が良すぎるあの部屋は変わり者の巣窟で、居場所がない人が集められ吸い寄せられている。そこに入り浸れば、僕もそのうちの1人になってしまう。それが嫌な訳ではないし、僕がそれではないとは、僕自身胸を張って言えない。
まるで挨拶だけしかしない友人にお泊まり会を誘われたような、断りづらさと返答のしにくさを感じる。そんなことはこの人生で一度も無かったが。
返事に困り沈黙が続き、返答が遅れていると、
『もちろん疲れているだろうし休足も必要だ。特に急ぎでも無いしな』
急かしてすまない。と、頭を下げているスタンプまで送られて来た。
中学生に気を使わせてしまった。情けないことこの上ない。
僕は急いで文字を打ち、決して断りたいのではない事を伝えるべく言葉を紡ぐ。
『いや』
『悪い』
『行きたく無い訳じゃないんだ』
『寄ってもいいか』
焦って送って、沈黙を産まないようにメッセージを量増しして。
帰って来たのは、
『もちろん』
『夕食はもう済ませたかい?』
『まだだったら用意しておくよ』
重ね重ね申し訳ない返信だった。
彼女の親切すぎる点やお節介焼きというか、少々恩着せがましさに多少の違和感を抱え、夕食にしようと思ってた廃棄を捨てながら。
「ご馳走様でした」
「お粗末さまでした」
僕の食事をつまみにするように、湯呑みに注いだお茶をまるでお酒のようにチビチビ飲み、いい食べっぷりだと言う針ヶ谷。
何故ここまで親切にしてくれるのか、とか。一食分作るのも大変だろうに、とか。色々考えを巡らせながらも僕は本題に入る。
「えっと、LINEで言ってた美彩の件だけど………彼女はなんて言ってた?」
「その前に、僕が話したいのは君の事だよ。喧嘩は両方の意見を聞くのが仲裁役の務めだ」
「喧嘩……じゃない気がするけど」
「喧嘩じゃないなら、他にどんな言葉があっているんだい?」
あの時の出来事を形容する言葉が見つからない。これでも文系大学を卒業できそうなのだから、基準など有って無いようなものだ。
「話すって、何を……」
「全てだよ。特に何が起きて、何を思ったのか」
「何が起きたかは美彩から聞いたんじゃ無いのか?」
「それは間違いだ。何か起きても、それを覚えているのはまた別の問題さ。印象に残った事を覚える人の記憶は、僕らが思うより正確さに欠けているのだよ」
そんなもんか。確かに、今日来た客が何を買ったかはおろか、人数すら僕は覚えていないのだから。
「……………………美彩からは、両親の話を少しと昔の話。あと、あの時間にあの場所にいる理由と、…………病気の話、信用の話かな……」
「ほら。僕の知らない話がある」
「針ヶ谷は何を聞いたんだ?」
「僕が聞いたのは『男性嫌悪』の話だけだよ」
少し満足そうに話す針ヶ谷は、
「君は、両親との関係は良好かい?」
「…………親父とは時々連絡を取ってる。お袋は、幼い頃に病気で死んだ」
「そっか。それは失礼な事を聞いたね」
もうずっと昔の話だ。気にして無い、と伝える。
「美彩さんから聞いたと思うけど、彼女の両親は再婚していてね。その上、母性の低い母親から生まれたんだよ」
あの時の不確かな記憶を埋めていくように、あるいは付け足していくように、針ヶ谷は話す。
「境遇は僕と多少似ていてね。親が信じられないというか、彼女の場合、関心を持たれなかったトラウマが根強く残っていてね」
針ヶ谷が知っている美彩を語る。
「それでも信じて、信じるしかなくて。でも身勝手な両親は、結果的に彼女の信頼を失う判断をしたらしい」
針ヶ谷にも重なる面があるから、その目は少し虚に、
「彼女の警戒心の強さとか、威嚇的で毛嫌いする性格はそれが故なのだよ」
きっと僕も、同じような境遇になれば、同じような結果になるだろう。誰も信じられず、誰彼構わず噛み付くような性格に。
多分心許している針ヶ谷や神宮寺に見せる表情が、元の彼女の顔なのだろう。
「許してやってくれとは言はないし、その必要もないと思うよ」
「…………そう、なのか?」
「彼女の口振りからして、君は信頼に足りる男であると理解したそうだからね」
「……………………?」
「おめでとう」
「…………あ、ありがとう?」
祝福された。
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