第22話
「な、何?」
「葛葉。最近、余裕出てきた?」
「確かに、最近ちょっとこういう風に外で食べることも増えてきたかも」
そんな機会が増えたことが嬉しくて、葛葉は微笑んだ。
けれども、それ反して香織は重いため息をついた。
「そっか。よかった。でも、今まであまりそういうことができなかったのって、きっと私たちが葛葉に甘えてたせいだよね」
しょげたように伏目がちになる香織と同様に、憲太もまた肩を落とした。
「そうっすね。以前、岡田さんが休むってときだって、もうちょっとやろうと思ったらできたと思うんすけど、つい甘えちゃったっていうか」
「色んな決め事も大枠を決めてくれるから、それにうちらは乗っかっちゃうみたいな感じになって。そのせいでこの間の増刊号のことだって、あんなに溜め込ませてたんだって。本気で反省してたんだ」
「どうしたの? 急に」
目を丸くすると、香織は苦笑した。
「いやあ、少しでも葛葉の肩の荷が下りたなら、私たちもちょっとは成長できたのかなぁって。今みたいに頼ってもらえるのって、実はちょっと嬉しいんだ。一緒に色々決めて作っていくって、いかにも戦友って感じじゃない?」
「ああ、それ俺も思ってたっす。最近、任せてもらえることが増えて嬉しいっす!」
ぐっと拳を握る憲太に、葛葉は微笑んだ。
「香織は前から信頼はしてたのよ? ただ、私が甘え下手で、うまく頼れていなかったのよね。小西君については、着実に成長していってるのは間違いないと思うわよ」
「うおおお! 虎月先輩に認められた!」
憲太はガッツポーズを作って飛び上がった。
そして、はっと何かに気づいたかのように、ぴたりと動きを止めると、突然葛葉に詰め寄ってきた。
「な、なら……今日の夜とか、俺と一緒に夕飯どうですか?」
「え? 今日?」
憲太の目はいつになく真剣で、葛葉は面食らって目を白黒させた。
一緒に仕事をする間柄だ。時折、飲みに行って仕事の愚痴を聞くなど、ガス抜きをすることだってある。
(でも小西君、いつもと何かちょっと違う気がする)
目の色というか、鼻息というか。なんとなくだが、葛葉に向かって押し寄せてくる熱気がすごい。
やる気を出してくれている憲太に答えてあげたい気持ちはある。しかし、
(今日の夜は三嶋亭が……)
ちらりと目の端で蔵王を見た。
『葛葉ちゃん。明日、三嶋亭のすき焼きセットが届くんだけど、一緒にどうかな』
昨晩、蔵王にそんな提案をされた。
「三嶋亭」といえば、京都三条寺町にある百四十年の歴史を誇る、すき焼きの老舗だ。
実家にいた時は何かお祝い事があると、三嶋亭のすき焼きを食べに行ったものだった。
甘じょっぱい割り下に、焼かれた最高級牛肉の質の良い甘い脂がじゅわりと溶け込む。これだけ脂と肉汁が出るのなら、こってりするのではないかと思われるだろう。ところが、この品のよい脂と肉汁は胃もたれという言葉とは無縁だ。さらにそれを卵にくぐらせることで生み出される旨みのマリアージュは、想像するだけで涎が出そうになる。
これをお取り寄せで食べることができるようになったとは、時代の進化に感謝するしかない。
ただ、高価であることもあって、頻繁にお取り寄せグルメを楽しんでいる葛葉とて、なかなか手を出せるものではない。普段は、お土産として入手しやすい、比較的手ごろな三嶋亭の牛肉のしぐれ煮などを噛み締めながら、幸せに浸っていた。
でも、今日はその憧れのすき焼きを食せる日なのだ。おかげで、本日の葛葉の頭の中は肉一色になっていた。
(あああ、ダメダメ。頭の中が肉祭りの妄想に飛びかけたわ)
今は同僚の前だ。肉をお神輿に乗せて、わっしょいさせている場合ではない。自重しなくてはと、一呼吸つく。
とはいえ、表情には出していないつもりだったけれども、内心では後輩のお誘いと肉祭りの選択で苦悶様になりつつあった。
そんな葛葉を不審に思ったのだろうか。
「あの、虎月先輩?」
伺うように覗き込んできた憲太の様子に、はっと我に返った。
「あ。ごめんなさい。えっと、今日の夜だったかしら」
「そうっす。最近できたいい店知ってるんすよ。よかったら一緒にどうです?」
「ええっと……」
(どうしよう。どう断ったらいいだろう)
助けを求めるつもりはなかったのだが、気が付けば蔵王を再度見やってしまっていた。
そんな葛葉をどこまで見通していたのだろうか。蔵王がわずかに目を伏せ、ふっと口元を緩めた。
そして、憲太に向き直ると、やんわりと微笑んだ。
「小西さん。申し訳ないんですが、虎月さんは今夜、僕が先約なんですよね」
憲太はそれに「えっ」と目を見開いて、口をパクパクとさせた。
そんな憲太を尻目に、蔵王はテーブルの端に置かれていた伝票をさっと手にして立ち上がった。
「申し訳ないんですが、別件の打ち合わせの時間が近付いてきてしまったので、先に戻らせてもらいますね。ウェブデザインのことについては、また近いうちに」
にこりと笑顔だけを残して、颯爽と会計を済ませて去っていく蔵王を、三人でぽかんと眺めていた。
しばらくして、香織が葛葉を小突いてきた。
「ちょ、ちょっと、葛葉。今のどういうこと?」
葛葉ははっと我に返った。
(しまった。香織もいたんだった)
このままでは、明日の社内女子新聞の一面を飾るスクープになってしまう。
葛葉は慌てて、両手と頭を同時に横に振った。
「い、今のは、ほら。私と郁島さんって同郷だから。ちょっと故郷のことを話したいねーなんて言ってただけで」
「いつの間にそんなことを話す機会があったのよ」
「この間倒れた時に、たまたま知ったっていうか」
我ながら苦しい言い訳だ。案の定、香織はじっとりとした目で葛葉を見てくる。
「なーんか、怪しいわね……」
「だから、本当に何でもないのよ! って、私も仕事があるからそろそろ帰るわね」
「ちょっと、葛葉!」
憲太はどんよりした様子で、注文したカレーライスのスプーンが一向に進んでいない。
問い詰めてくる香織から逃げるように、葛葉もまた席を立つと、蔵王を追いかけた。
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