第3章 幼なじみにほだされるべからず
第11話
朝の爽やかな空気を吸い込みながら、通勤の道を歩く。
きっちりした性格なので、時間にも正確だと思われがちだが、実のところ、葛葉は朝が得意ではない。
本当は時間ぎりぎりまでゆっくり寝ていたいところなのだが、社会人としてそういうわけにもいかない。
身なりを整え、仕事に全力を注ぐために朝食もしっかり摂る。そのために、目覚まし時計やスマホのアラーム機能を複数使ったり、前日寝る前にしっかり準備をしておくなどの対策をして、朝の時間を無駄なく過ごしているのだ。
(今日も一日、頑張らなくちゃ)
気だるさを吹き飛ばすように気持ちを奮い立たせ、会社へと向かう。
いつも通りの時間に出勤し、編集部の扉を開けた途端、「葛葉!」「虎月先輩~!」と、見慣れた顔ぶれが駆け寄ってきた。
「香織に小西君。朝早くからどうしたの?」
目を丸くしていると、香織が肩を怒らせて言った。
「ちょっと聞いてよ! 小西が担当してるライターさん、連絡したらまだ書けてないって。今日入稿予定なのに!」
そういえば、香織と新人の憲太はペアになって『大人の趣味時間』というテーマでの取材を進めていたはずだ。定期的に連載している人気のコーナーで、中でも人気ライターによるコラムの評判が高い。
一方、葛葉が今回担当しているのは、二人とは異なり『ちょっと寄りたい粋な店』の特集ページだ。とはいえ、入稿タイミングの関係上、お互いの仕事状況はある程度把握している。状況次第では、互いのサポートすることもある。
「進行状況確認はちゃんとしたの?」
ちらりと憲太に視線を向ける。すると、憲太は俯きがちに、わずかに視線をそらした。
「いや、もうちょっとでできるから待ってくれって言われて」
「それで、そのまま待ってたの?」
「いや、まあ……はい」
憲太の声が、どんどんと蚊の鳴くような声になっていく。
「なんでもっと早く気付かなかったのよ!」
香織が目を三角にして憲太を睨みつけると、憲太は身を縮こまらせて「すんません」としょげてしまった。
その姿を見て、葛葉は小さくため息をついた。
「香織。小西君を責めても原稿は出てこないわよ」
「でも、どうしたら……」
本来であれば、憲太自身にしっかり対応させた方が勉強になるだろう。
けれども、今はなにしろ時間がない。手分けして作業に当たるしかない。
「小西君は、今すぐライターさんに電話して、進行状況や大体の概要を確認して。香織は概要を把握して写真の選定に入って。私は少し入稿の時間ずらせるか、各所に連絡入れてみるから」
わずかに逡巡して指示を出す。
すかさず憲太はデスクに戻り、電話をかけ始めた。
葛葉もまた席について早々、電話を手に取る。
雑誌というものは一人で作っているものではない。ライターやカメラマン、エディトリアルデザイナー、印刷所など様々な人が出版までの過程にはかかわっている。雑誌や本は、当然ながら出版日が決まっている。それ故に一つずれが生じるだけで、他社からも印刷を請け負っている印刷所には大きな迷惑をかけることになる。
あちらこちらへ電話をかける中で、渋い声を聞くと、自分のミスではないとはいえ申し訳ない気持ちになる。
一通り調整を終えた頃には、昼を回っていた。
それでもこれからまだ編集作業が残っている。
(午後もひと踏ん張りしないとね)
憲太がライターとの電話を今もなお続けている。この先の作業は、原稿が到着してからでなければ進められない。午前中が憲太のフォローでつぶれてしまった分、午後からは本来自分がやるはずだった仕事に取り掛からなければならない。
まだまだ先は長い。でもだからこそ気分転換をするべく、葛葉は席を立った。
自動販売機の前に立っていると、ふと隣に気配がした。
「大丈夫?」と声をかけられて、そちらを見ると蔵王がコーヒーを飲みながら立っていた。
一瞬どういう顔をしていいのか悩み、内心で唸る。
けれども、不意に昨日の杏那との会話が思い出された。
(そうよ。相手はあくまで仕事仲間で、気にし過ぎる必要はないわ)
自身にそう言い聞かせながら、ちらりと目を合わせた。
「まあね。見てたの?」
すると、蔵王は少し肩をすくめた。
「うん。まあ、遠目にだけどね。ちょっと慌ただしい雰囲気だったから、気になって。何かトラブル?」
「今日入稿予定の原稿が届いてないのよ」
ごろりと音を立てて出てきたコーヒー缶のプルタブを開けながら、葛葉はため息をついた。
「それは大変だね。お昼は?」
「まだよ。そんな暇どこにもなかったもの。とりあえず、コーヒーでも飲んで、また作業に戻る予定」
ふぅんと頷いた蔵王は、何故か笑みを浮かべた。
そして、少し大きめの紙袋を葛葉の目の前に差し出してきた。
「それじゃあこれ、僕からの差し入れ。多めに買ってきてあるから、みんなで分けて」
紙袋には近くに新しくできた喫茶店のロゴマークがついている。
「え? でも、それって蔵王の昼ご飯じゃないの」
「大丈夫。僕の分も買ってきてるから。もらってもらえないと、全部は流石に僕一人じゃ食べきれないんだよね」
ひょいと反対の手から持ち上げられたのは同じ店の紙袋だ。けれども、葛葉の目の前の物よりは小ぶりだ。
本当に差し入れとして、自分用とは別に買ってきてくれたらしい。
(なんだか、悪いような気もするけど……)
でも、ここまでしてもらって、断るのも逆に申し訳ない。
それに、これは別に葛葉個人への贈り物というわけではない。香織や憲太のためにも蔵王が用意してくれたものなのだ。葛葉が私情を挟むべきところでもない気がした。
「ありがとう。みんなも喜ぶと思う」
素直に受け取り、葛葉は蔵王にぺこりと頭を下げた。
すると、蔵王はふわりと嬉しそうな笑みを浮かべた。
「忙しい時はお互い様ってね。葛葉ちゃんも無理しちゃだめだよ」
蔵王はそう言って、軽く葛葉の頭をポンポンと撫でてきた。それに一瞬心臓が跳ね、葛葉は固まった。そんな葛葉にくすりと蔵王は笑みを向けると、ウェブ部門のあるデスクへと去っていった。
しばらくその姿を目で追ってしまい、葛葉は慌てて頭をぶんぶんと横に振った。
(いや、別に何も意識なんてしてないから! ただちょっと……こういう気遣いが出来るのって、スマートでいいなって、思っちゃっただけなんだから)
葛葉は蔵王が去っていった方を一瞥しながら、空になった缶コーヒーを空き缶入れに入れて、服を片手に編集部へと戻った。
相変わらずデスクで奮闘している香織と憲太に、蔵王からもらった差し入れを渡すと、拍手が沸き上がった。
机にかじりついていた二人は、どうやら腹ペコだったようだ。
「やだ、葛葉ったら気が利くじゃない。ありがとう!」
「うわああ! 俺の好きなカツサンドが入ってる。俺、これもらっていいっすか?」
「いいわよ。私はこっちのハムレタスサンドもらうから。このお店のハム、自家製で美味しいのよね。私、ここのお店のサンドイッチ好きなのよ」
憲太と香織は嬉々としてサンドイッチを取り出していく。
「さすが虎月先輩っすね。俺たちの好みまでばっちり抑えてくれてるなんて!」
早速大きなカツサンドにかじりついた憲太に、葛葉は苦笑した。
「生憎、これは私じゃないのよ。お礼なら郁島さんに言って」
「郁島さん? ウェブデザイナーの?」
憲太が首を傾げるのに対して、香織が目を輝かせた。
「もしかして、郁島さんったら、私に脈あり?」
そんな香織に葛葉はくすりと微笑んだ。
「さあ、それはわからないけど、誰かさんのせいでこのデスク周囲が大変そうだからって言ってたわよ」
すると、カツサンドを頬張っていた憲太がうぐっとパンをのどに詰まらせた。
そんな憲太にコーヒーを手渡してやりながら、葛葉は残りのサンドイッチを取り出した。
葛葉が昔から好きな、黄金色に輝く厚焼き玉子サンドだ。
パクリとかじると、二センチほどの厚みでふんわりと焼かれた卵の甘みと自家製マヨネーズの優しい酸味と丸みのある塩気がパンに包まれて、口の中でとろけた。
その味を噛みしめながら、ふと、蔵王とのやり取りが思い出された。
(蔵王の手、大きくなってた)
ぽんぽんと頭に軽く触れた蔵王の大きな掌が、胸の奥をくすぐった。
『葛葉ちゃん。お疲れ様。無理しちゃだめだよ』
いつも葛葉を包んでくれる、優しくてあたたかい手。あの手が、幼い頃から大好きだった。
立場は随分と変わってしまった。
蔵王の優しさも、実は裏に何か思惑があるのではないかと思って、素直に受け取れなくなっていた。
でも、その気遣いのおかげで、今こうして元気づけられていることも確かだ。
(時が経っても、変わらないものもあるのかもしれない)
葛葉の中で凝り固まっていたものが、少しずつだけども溶けていくような気がした。
「うん。がんばろう」
玉子サンドの最後のひと欠片を放り込み、葛葉は改めてパソコンに向かった。
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