第10話

「そういえば、葛葉。昨日連絡をくれただろう。あれは何だったんだ?」

「え? 連絡?」


 問われて、思わず素っ頓狂な声が漏れてしまった。

 脳内が西京漬けへの称賛と海の恵みへの感謝に満たされかけていただけに、一瞬何のことだかわからなかった。

 だがしかし、急速にあることを思い出して手を打った。


「あああ! そう。そうなのよ! もう本当に昨日とんでもないことがあってね、愚痴っていうか、杏那に聞いてもらいたかったのよ」

「お前がそんな風になるなんて珍しいな。もしかして実家がらみか?」


 水を向けてくる杏那に、葛葉は深く頷いた。

 葛葉が実家のことを話すのは、杏那に対してだけだ。

 家出同然で上京し、身寄りもなければお金もない自分に、杏那は何かと世話を焼いてくれた。そんな相手だからこそ、葛葉は自然と心を開くことができた。


「さすが杏那。ご名答。十年間音沙汰なかったおばあさまが突然連絡してきたの」

「ほう。それはまた、お前が荒ぶるには十分すぎる理由だな。それで、祖母は何と言ってきたんだ」

「京都に帰ってこいって」


 それに、杏那は「何でまた」と、すっと目を細めた。


「虎月家の娘としての役目を果たせって言われたけど、正直、それが何かはよくわからないのよね」

「お前にしては詰めが甘いな」

「そうは言っても、頭ごなしに帰ってこいの一点張りなんだもの。理由を聞くどころじゃなかったし、おまけに幼馴染がちょうど家に押しかけてきてて」


 葛葉はため息をついた。それに反して、杏那は面白そうに笑って身を乗り出してくる。


「幼馴染? それはどういう奴なんだ?」

「実家にいた時に十歳まで私の面倒を見てくれてた三つ年上の兄みたいな人よ」

「なるほど。憧れのお兄ちゃんという奴か」


 にんまりと笑う杏那に、思わず葛葉は箸を止めて首を横に振った。


「ば、ばか! 別にそういうのとかじゃないし!」

「その割には随分と顔が赤い気がするが」

「こ、これはちょっと飲みすぎちゃっただけで……」


 うそぶく杏那に、葛葉はごにょごにょと口籠りながらそっぽを向く。


(そう。憧れていたのは昔の話)


 そこに嘘はない。

 けれども、どこか昼間の蔵王の笑顔が頭の中にちらついた。

 困惑顔の葛葉に、杏那は「なら、そういうことにしておいてやろう」と、くすりと笑った。


「だが、そんな人物がたまたま祖母から電話があったタイミングでここに来ていたとなると、それは随分と出来すぎているような気がするが」

「ご想像の通りよ。その幼馴染は、今はおばあさまの部下で、おばあさまの犬になって私を連れ戻しに来てたってわけ」

「それでなおのこと、頭に血が昇ったというわけか」

「大人げないってわかってるんだけどね」


 葛葉は目を伏せて、大きなため息をついた。

 杏那は肩をすくめて、手にした味噌汁をすすった。


「まあ、仕方ないだろう。それだけお前と実家の確執は深い。なにしろ、跡取りに育てておきながら、勝手な理由で突然花嫁修業をさせて、挙句の果てに婚約まで決めてしまったんだ。子供は大人の道具じゃない。お前が怒っていい理由はたくさんある」

「ありがとう。そう言ってもらえると、勇気づけられる」


 杏那の言葉に、何かが許されたような気がして、ざわつく気持ちが少し落ち着いた。


「だが、その幼馴染というのも解せんな。十歳までとはいえ近くにいたなら、お前がどんな思いで生きてきたかぐらいわかりそうなものだというのに」


 口元に手を当てて腕組みをする杏那に、葛葉は宙を見た。

 葛葉が跡継ぎから外されたあの日のことは、今でも鮮明に覚えている。

 あの時の蔵王は、確かに葛葉の味方だった。


(蔵王はもう忘れちゃったのかしら)


 あれから、もう二十年近くの歳月が流れている。時が経てば、記憶も気持ちも風化するのかもしれない。


(でも、そういえば……蔵王はおばあさまの差し金のつもりはない、とも言っていたわよね。私の意見を聞きに来ただけだって)


 よくよく考えれば、蔵王からはまだ、ちゃんと話を聞いていない。

 とはいえ、雅世がはったとわかっている罠に、自らはまりに行くのも気乗りしない。


「それについては事情がありそうなんだけどね。でも、どんな事情があろうとも、おばあさまの手先だっていう事実には変わりないし。それなのに、その人、ちゃっかりうちの会社と契約して同じプロジェクトチームで動くことになるわ、同じマンションに住んでるわで、もう何が何やら」

「お前を懐柔するなら、近くに居座るのが一番いいのは確かだろうしな。だが、マンションだけじゃなく、会社まで押しかけて来たか。随分と用意周到なんだな」

「まあ、それくらいのことをあっさりとやってのけるだけの力は持ってそうだからね。おばあさまも、あの人も」

「なるほどな。是非、我が社の人材として欲しいぐらいだ」

「やめてよ。そんなことされたらそれこそ私の気が休まらないわ」

「冗談だ」


 本気で嫌そうな顔を浮かべてしまった葛葉に、杏那はくつくつと笑った。


「はあ……本当に、私はただ私が作り上げてきた日常をかき乱さないで欲しいだけなのに」


 葛葉は食べ終わった食器の脇に突っ伏した。


「でも、せっかく会えた幼馴染なんだろう? 話を聞くに、もし実家のことは関係なく、その人物と純粋に再会できていたとしたら、お前は素直に喜んだんじゃないのか?」

「まあ、それはそうだけど」

「根底にあるのは祖母への怒りであって、その幼馴染にそこまで怒りを向ける必要はない気もするがな。しばらく同じ会社で仕事をすることになるのなら、下手に意識し過ぎるのも疲れるんじゃないか?」


 確かに杏那の言うことにも一理ある。

 葛葉が帰らないという意思をはっきりさせていさえすれば、普段の付き合いには問題はないはずだ。


「そうね。仕事は仕事として、それなりの付き合いをしていればいいだけよね」

「ああ。お前さえ変わらなければ、そのうち相手も諦めるだろうさ」

「うん。ありがとう。聞いてもらえてすっきりした」


 ほっとしてふわりと笑うと、杏那も口元を緩めて笑った。


「気にするな。泊まるわけじゃないが、一宿一飯の恩だ。話を聞くだけで礼になっているかはわからないけどな。まあ、また何かあればいつでも連絡してくれ」

「頼りにしてるわ」


 しばらく談笑し、十時を回ると、明日も仕事があるということで、杏那は帰っていった。

 葛葉は後片付けをしながら、ふと、片付けかけた一の傳の紙袋をじっと見た。


「一宿一飯の恩……か。そういえば、蔵王もこれ好きだったわよね」


 そんなことが頭をよぎり、ぴたりと手が止まった。

 そして、数分後、葛葉は包み紙を抱えて部屋を出た。




 1005室。

 現在の蔵王の居室だ。

 月明かりが差し込む廊下に立ち、葛葉はインターホンを押すか押さざるかで悩んでいた。


(いきなりこんな風に押しかけたらなんて思われるだろう)


 葛葉としては、昼間の借りを返しに来たつもりだ。

 でも、あれだけ「行かない」と啖呵を切っておいて、今更のこのこと訪れるのはどうなんだろう。

 かといって、借りを作ったままというのも、何とも居心地が悪くて仕方ない。ビジネスライクな付き合いをする以上、対等でありたい。

 だけどもし、変な期待をされてしまったら――

 ……とまあ、このような自問自答を続けて、結構な時間が経とうとしている。

 幸いにして、近隣の住民がここを通ることはなく、まだ不審者扱いにはされていない。


(でも、それも時間の問題よね。ううう。どうしよう)


 頭を抱えてうずくまりたくなった、その時だった。


「葛葉ちゃん?」

「ひゃい!?」


 びくりと背筋を伸ばして振り返ると、そこには蔵王が立っていた。


「ざざざ、蔵王! どうしてこんな時間に外にいるのよ!」

「帰ろうとしたら稲川編集長に呼び止められて、少し契約のことで話をしてたんだよ」

「そ、そうなんだ」


 なぜか、ほっと胸を撫で下ろした自分がいた。


「葛葉ちゃんはどうしてここに?」

「それは……その、これを渡そうと思って」

「これって、一の傳?」

「蔵王も好きだったでしょ。だから、その、昼間のお返しにって思って」

「わあ、嬉しいな。覚えててくれたんだね」


 破顔する蔵王に、葛葉はわずかに視線をそらした。


「そりゃあまあ、昔、魚と言えばいつもこれが出てきてたもの」

「そうそう。葛葉ちゃん、小さい頃魚が苦手だったけど、これだけは食べてくれたからね。君が美味しいと喜んでくれるたびに、僕たちはいつも嬉しかったんだ。だから、母と一緒に明日はどんなご飯にしようって考えるのがあの頃はすごく楽しみだったんだよ」


 懐かしそうに遠くを見る蔵王に、葛葉の胸の奥がきゅっと詰まった。

 お稽古で疲れて帰ってくる葛葉を、蔵王たちはいつも温かく迎えてくれた。

 遅くなる日だって、いつも葛葉を待っていてくれた。

 あの時間は葛葉にとって、とても大切な宝物のような時間だった。


「また、あんな風に、一緒にご飯を食べることができたら、僕は嬉しいけどな」


 ぽつんと呟かれた言葉に引き寄せられるように、葛葉は蔵王の顔を見上げた。

 蔵王の目はわずかに愁いを帯びていた。

 かつて、蔵王や蔵王の母と囲む食卓は楽しかった。

 時折祖母に連れていかれる会食の際に食べる、高級料亭の豪華な食事よりもずっと、美味しいと感じていた。

 それは何故なのか。

 杏那とも出会い、年を重ねた今なら少し、それがわかるような気がする。


(本当は、蔵王自身が嫌いだというわけじゃない)


 杏那の言う通り、祖母との因縁はさておき、もっと素直になれればいいのかもしれない。

 でも――


「僕、晩御飯はまだなんだけど、うち寄ってく?」


 蔵王が茶目っ気たっぷりに顔を覗き込んできた。

 悩んでいることを見透かされたような気がして、顔にかっと朱がさした。


「寄らないわよ! おやすみなさい!」

「おやすみ。暖かくして寝るんだよ」


 くすくすと笑いながら見送る蔵王の気配を背後に感じつつ、葛葉はエレベーター、そして自室へと駆け込んだ。

 素直になるには、まだ時間がかかりそうだ。

 布団に飛び込んでも、わずかに落ち着かない鼓動をおさめるように、葛葉は無理やり目を閉じた。 

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