第19話 花嫁修業

桐島家の生活は夢のようであった。行儀見習のつもりで意気込んできたものの、実際はお手伝いさんがそれぞれにいて、万智子が出る幕はない。それどころか逆に身の回りの世話までしてくれるのである。なにか手伝おうとすれば、合言葉が返ってくる。

「万智子様は座ってらしてくださいな」

 健も云った。

「まだお客様なんだからゆっくりしていればいいよ」

結局、万智子の役目は健の母上の話し相手がもっぱらで、今日は買い物に付き合った。

明日は何をすればいいのだろう。


ほんの三日前の文興堂での毎日がうそのようであった。

食事の用意も後片付けも布団干しも洗濯物も取り込むこともたたむこともなし。裁縫などする必要はそれこそなかった。

楽勝よ、と万智子は一日を振り返って思った。でも、なんだか何もしていない割にくたびれていた。多分、緊張しているせいだ。やっぱり見栄っ張りだったかしら。

ここで万智子は顔をしかめた。記念すべき最初の夜に、最後を締めくくったのが悠の言葉だなんて。


翌日、父から電話があった。

「どうだ、そっちは。しっかりやってるか」

「もちろん。とてもよくしていただいているの」

「そうか。ところでな。山科さんから予約を受けていた経典だけど、いつ届く予定だったか、おまえ知ってるか」

「ああ、それならお盆あけです。山科様にもお話してあるわ」

「さすが。坂木が確かおまえがそう云ってたっていうから。助かった。来週、悠君とそっちに行くからな」

 もう電話をしてきて、と思ったのに、案外あっさり電話は切れた。

「お電話、なんですって?」

「ええ、なんでもないんです」

万智子は消化不良な気持ちで健の母に答えていた。

たった二日はなれただけなのに懐かしさがどっとこみ上げた。話したかったことが次から次へと浮かんできた。

みんなは変わりない? 

お店はだいじょうぶ?

悠君はどうしてる? 

また、悠だ。

悠も例の夕食会に来ることになっているらしい。大嫌いだという桐原家一同が集まる宴に本当に出てくるつもりかしら。

また、遅れてきたりはしないだろうか。

その午後、健の母からフランス刺繍を教わったのだが、どうにも上の空で万智子は間違えてばかりいた。


玄関のベルの音と共に万智子は飛び出していく。

「おかえりなさいませ」

「ただいま」

 健の帽子とカバンを受け取り、いそいそと後をついていく。

毎日健を迎えることができるのは素直に嬉しい。この家に来てよかったと思う筆頭だと思う。そのために毎日健の母とおしゃべりをし、お茶を飲んだりして、首を長くして帰りを待っている。

寝る前に一日を振り返ったとき、思うのだ。今日はなにをしたっけ?

 そうだ、健兄さま、と呼ぶのはもうやめてほしいと云われた。そろそろ格上げしてもらえないだろうか、と。

「万智子ちゃんは何もしなくていいからね。ただ、僕の眼の届くところにいてくれて、いつも笑っていてくれればそれでいいんだ」

 それなら任せて、と云おうとしたのに伝えなかった。どうして云わなかったのだろうか。云えばよかったのに。

 九割九分、幸せな気分になった。それは間違いない。

 それなのに、実に些細なことに引っかかっている。

 何もしなくていい。

 言葉のアヤに過ぎないのだけれど、万智子はつい考え込んでしまう。

 何もしないでは、自分を発揮することにはならない。研究発表で誓ったあの言葉には到底認められない。

 私は完璧主義者なのだろうか。九割以上幸せなら問題ないはずだ。なのに、どうしてたったの一分のところに悩んでいるのだろう。

 では、考えないようにしよう。そう思うのに、如何せん、何もすることがないので、思考は留まるばかりなのだ。

 万智子は少々うろたえた。今まで、考えまい、忘れようとした時には、何か打ち込むものがあったのだ。日々の家事でもいい、勉強や手伝い、雑多な諸々の中で取り紛らせてきたりして、解決してきた。

 それとも、考えすぎかしら。どうも不安定でいけない。

結婚すれば、きっと迷うことなんてなくなるはず。もし今母がいればそんなことをいうのかもしれない。万智子はもう記憶もかすかな母を思った。

 夜、夢を見る。健の笑顔がぐるぐる回りながら、でも悠の声で云うのだ。

好きでもない裁縫すらしてないじゃないか。

万智子は必死で云い返す。

フランス刺繍というのをやってるのよ!

そして、夢の中、必死で複雑な花模様に悪戦苦闘している。

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