第18話 横浜

「万智子ちゃん、ゆっくり眠れた?」

 桐島家はおおきな洋館で、もう万智子のために一部屋が用意されていた。初めてベッドというものを使い、いまひとつ寝付かれなかった。

「ええ、おかげさまで」

 健は朝からやさしい。だれかと違って、皮肉っぽく眉をつりあげたりしない。万智子ははたと気付いた。こんなところまできていやなやつのことなんか考えるな。

「学校が忙しくて来てくれないかと思ったよ」

「わがままを云ってごめんなさい。でも、ちゃんと済みました。そうだわ、ものすごくがんばったから今度見ていただきたいわ」

 しかし、健はおっとり笑って違う話をした。

「おいおい、学生時代は遠い昔だよ。ついていけるかな。ところで、万智子ちゃん、早速なんだけど、来週内々で夕食会を開こうと思ってるんだ。まだ正式にお仲人も立てていないんだが、君を婚約者として紹介したい。でも、まあ本当のことをいうと、親戚連中が君に会うのが待ちきれないっていうんだよ。出てくれるかな」

 万智子はさっと緊張した。

 さあ、きたぞ。親戚連中というのは大方この桐島家の奥様方に決まっている。婚約の前に後継ぎの嫁の顔を見ておこうという了見に違いない。

桐島家は豊かでそれゆえに大きな家だ。後継ぎの嫁に口出しする親戚は大勢いるだろう。覚悟はしてきた。万智子にとって、おじさま達を攻略するのは自信があった。文興堂であらゆる趣味人たちを相手にしてきたのである。だが、問題は女性陣だ。これは慎重にやらないと。第一印象は大事だ。目立ちすぎず、かつ、印象つけるにはどうしたものか。

「わかりました。でも、緊張してしまうわ」

「万智子ちゃんならだいじょうぶ」

 そういうことなら買い物にいかなくちゃと健の母が提案し、健は苦笑して母をよろしくと万智子に耳打ちし、自分は出勤した。

 健の母は「横浜でお買い物は初めて? 東京とは違うものがあるのよ」とおおはしゃぎである。

 万智子も着替えるため、部屋に戻った。荷物からよそ行きをだすときに、例の発表の草稿を手に取った。

なぜだかここへ持ってきていた。でも、それも無駄になるみたい。

 万智子はほんのすこし当てが外れた。もちろんこれくらいでは健の信頼は揺らぎはしない。どうしたって女学生の研究発表よりも婚約者の前披露のほうが重要事項ではないか。

 頭ではわかっているのに、どうしてだががっかりした気分を振り払えずにいる。

 親戚に紹介される、という一大事を前にして、気合がいまひとつ乗らないのは問題だ。こういう気持ちで買い物に行ったら、迷うばかりで決められなくなる。

 些細なことにひっかかっていないで、あれを思い出しなさい。

 この家にきた時。なんて云って貰ったの?

 健は照れくさそうな顔をして、万智子を迎えたとき、こう云ったのだ。

「来てくれて嬉しいよ。僕もやっと腰を据えてこの家の商売に専念することができるようになった。そのときに、万智子ちゃんに傍にいてもらいたかった。つまり、その、万智子ちゃんのことはずっとそう思って見てきた。女学校を卒業したら、正式にこの家に来てもらえないだろうか」

 待ち焦がれていた瞬間。

 まさに想像どおり、といってもいいくらいに完璧な求婚の言葉だった。

 特に、『そう思って見てきた』という言葉は、万智子の心をくすぐった。長年の片思いが、全甲が、あらゆる努力が、報われたと思った。

 ただ少々残念だったのは、今この瞬間を親友に自慢できないことであった。そして、悠の顔がよぎった。あいつにもきかせてやりたい。

 どう? 健にいさまと幸せになるわよ、といってやりたいと思った。

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