第14話 迷う心

 ふすまを後ろ手に閉めたまま、万智子は大きく深呼吸を繰り返した。

 急展開に頭がついていかない。混乱して動揺している。

いちどきにやってきたけれど、ひとつひとつは悪くない話のはずだ。だからまず、心配になることはないのだ。必死でそう言いきかせてみる。

 まず。健との話はもうずっと前から望んでいたことだ。たまたま女学校の研究発表と重なってしまったけれど。きちんとどうするか決めればいい。思えば女子大に進むかどうか、健は気にしていたような気がするが、研究発表をいやに思ったりはしないだろう。

 そして。悠のことは、今まで話してくれなかった父を少し恨んでみる。けれど、店の後継ぎ問題は万智子にとっても切り離せないことだったし、第一父は万智子の婚約話を先に進めてくれた。娘の気持ちを考えてくれての話である。感謝こそすれ、うらむなんてお門違いである。

 悠は、いえ、悠も真面目に考えていた。自分のやりたいこととそれをかなえるための道を開こうとしている。

 それは小さな衝撃だった。ついさっきまでは、生意気で云うことをきかない頑固者と思っていたのに、彼はもう人生の選択をひとつしようとしているのだ。

 悔しかった。

 今まで看板娘でかんばってきたつもりだったが、万智子の存在がなくても文興堂は続いていく。そのことがとてつもなくさびしかった。父と悠とで万事事足りるのだ。ひとり置いていかれたような疎外感が万智子を襲っていた。

 男と女の違いかしらと思った。

 悠の決断は店を存続させ、自らの夢もかなえる。

 万智子の夢は、健と結婚することだった。だが、その後は? 女学校が説くような良妻賢母なのか。そう思って、万智子は背中に水を浴びせられたような気がした。なんだかとてもつまらない!

 万智子は自分の足元がぐらぐらと揺れているような気がして、ふすまに寄りかかった。

 女学校、お稽古事、お店の手伝い。それらをすべて総合した自分の評判など、万智子が気にかけてきた全てがふいに色あせた。自信喪失の危機であった。このままの気持ちで健と婚約しても、ちっとも晴れがましくないではないか。

落ち込んでいる場合じゃない。

 万智子は机に向かった。女学校で渡された研究課題を取り出すと、猛然と取り掛かった。

 

「今度の大学合同の国語研究会で女学校代表で研究発表することになったの」

 夕食で、万智子はにこやかに報告した。

「それはたいしたもんだ。で、どんなことをやるんだ」

「今回の課題は女流文学なの。前に研究発表で早苗と『枕』の論文を作っていたんだけど、それを深堀しようと思って」

「それにしても、女学校代表ということは、送辞を読むようなもんだ。しっかりやりなさい」

 父はご機嫌で、店の本は好きなだけ使ってよいと請け合った。

「その発表会が夏休み中なのよ」

 万智子は上目遣いに父を見る。

「そりゃあ・・・」

 父は言いかけて、視線を泳がせた。

 敏感な悠は一瞬箸を止めたが、そ知らぬふりをした。こういうところまこと面憎い。

「女学校最後の年だし、きちんとやりたいと思っています。だから、例のお話は、すこし待ってもらえるように云っていただきたいの」

 万智子はわざと悠の前でその話をした。父は腕組みをし天井を仰いでいたが、「よしわかった。がんばりなさい」と云ってくれた。


 夕食が済んで、部屋に引き上げようとした悠を万智子が廊下に追いかけてきた。

「さっきの話なんだけど」

 暗い廊下で万智子の瞳のふちが艶を帯びて見えた。

「研究課題を放課後にやることになるの。それでね、一ヶ月だけなんだけど、時々お店に顔を出してもらえないかしら」

 万智子は慌てて付け加える。

「もちろん、あたしもできるだけ今までどおりにするつもりなんだけど、今回はちょっとがんばりたいと思っているの。でも、悠君も勉強があるわね。無理なら」

「いいよ」

 悠は承諾した。

「ありがとう。お店のほうには話しておくから」

 万智子はほっとして笑顔になった。薄闇でも人が笑った雰囲気はなぜだかわかる。ああ、そうだ、万智子は笑う時、下を向くくせがあるからだ。

「それより」と悠は云いかけた。

「なに?」

 万智子はやけに元気がよかった。昼間の様子が気になっていたのだが、どうもおかしい。

「いいのかよ、すぐに健さんの所にいかなくて」

「おあいにくさま、ひと月遅らせるだけです」

 万智子はつんとして、裾を翻していった。

 あとに残された悠はしばらく風に当たっていたが、例のため息をひとりもらした。

 そのひと月が待ち遠しいかもしれない。

 そう、健が思っているならよいが。


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