第13話 知らせ

「最近、ご機嫌じゃない」

 ふたりして放課後、教員室へ向かう途中で大熊早苗に云われた。

「そう見える?」

「例の居候殿とうまくいっているとか」

 万智子は目を向いた。

「けんかばっかりよ」

 例の台風の日はとても頼りがいがあったのだが、あの日一日、正確には夜半から朝にかけての半日だけで、その帰り道にはもう早速ひと悶着あったのだ。

「ちょっときいてくれる? あの朝ね、後片付けもあったし、父が学校を休め、っていってくれたのよ。ところが、悠君ときたら」

 家に帰るなり、一風呂あび、その足で登校したのである。万智子はうとうとしたけれど、悠はほとんど徹夜あけだった。

「知らなかったんだけど、翌日単元試験があったらしいのよ」

「あら、大変」

「あたしとしては、もう休んじゃえばって云ったんだけど、そしたらあいつ、なんていったと思う? 『赤点取ってもあんたのせいにしないから』ですって!」

「それで? まさか赤点だったの?」

「いえ、組で一番」

「すごいわね」

「そうなの、だからまた腹がたつのよ。一夜漬けなんか必要ないくらいできるんなら、一言多いと思わない?」

 早苗がくすっと笑った。

「なに?」

「優等生のあなたがそんなこというなんて」

すれ違った下級生がぴしりと足を揃えてお辞儀をするのに、年上ぶって挨拶を返す。一応、万智子は才色兼備の先輩という触れ込みだ。

「前は随分気に病んでいたじゃないの。それがまたえらく辛口になったのね。その子、いとしの健兄さまの親戚なんでしょ」

 万智子は眉を寄せた。

「云われたら云い返しているだけよ? あとは別にいつもどおり」

「ふうん?」


 礼をして教員室に入ると、担任の教師が手招きした。

「大熊さんに真田さんね」

 担任はいかにも古文専門という鶴のようなおじいさんである。

「この間の『枕草子』研究はなかなかよくできていました」

「ありがとうございます」

「だから、あなた方を推薦しようと思いましてね」

 ふたりは顔を見合わせた。

「この七月にね、女子大と合同研究会があるんですよ。そこで発表してごらんなさい」


 万智子は勇んで家に帰った。早いところ父に報告し、店の本を貸してもらおうという算段である。

 ところが、父は真面目な顔をして万智子を待っていた。そしてわざわざ客間にお茶を持ってこさせた。

 しかし、ふと見ると、テーブルの上には来客用の茶碗がニ客のっていた。伊万里の灰皿も出ていた。骨董品で特別な時にしか父はこれを出さない。それがテーブルにあった。

 父はいかめしい顔で切り出した。

「実はな、桐島家からこの夏休みに家に遊びにこないかというお話があった」

 万智子は一瞬耳を疑った。胸がどきどきしていた。もう直感的にどういうことなのかわかっている。これは夢の瞬間の第一歩だ。だが、言葉にだしたら夢と消えてしまいそうで、口にできない。

「つまりだな、嫁入り前の行儀見習みたいなもんだ」

 万智子は眼を閉じた。これは決定的だ。もう、信じていい。

「正式に、桐島家から健君と婚約のお話があったんだ」

 父はにっこりした。

「どうした、うれしくないのか。おまえ、昔から健君が好きだったろう」

 万智子は胸を押さえた。うれしくないわけがなかった。だってこんなに鼓動が速い。だが、どうしてだか素直に顔に現せない。待ちに待った瞬間とはこんなものなのだろうか。

「だって急なんだもの・・・。そうだわ、もし私がお嫁にいったら、お店はどうなるんです?」

「そのことだが、実はな、悠君をうちに養子に迎えたいと思っている」


 父はさばさばしていた。まるでもう万智子が嫁に行き、替わりに息子を迎えたかのようだ。

 万智子ははっとした。

 もしかしてもう悠と話が済んでいるのだろうか。

万智子は急いで悠の部屋へ向かった。

外から戸を叩く。

「悠君、ちょっといい?」

「いや、今は」

 だが万智子は待たなかった。強引に戸を開けた。途端に、妙なにおいが流れてきて、万智子はその場に立ちすくんだ。

「もういいや、入って、においが漏れる」

 悠はあきらめたように手招きをした。

 恐る恐る足を踏み入れると、部屋のなにもかもが端に寄せられ、真中に大きな三脚のようなものが立てられていた。 

「絵をかいているの?」

 万智子は一抱えもありそうなキャンバスを覗き込んだ。そして思わず感嘆の声を上げた。

「すごいわ」

 画面いっぱいに踊るような色使いで山吹の花が描かれていた。絵について詳しいことはわからなかったが、目を奪われる絵であった。そしてそのまま引き込まれそうな迫力がある。

「こないだ生けてあったやつ。花をあとでもらったんだ。もう枯れちゃったけど」

「油絵なんて本物は初めて見たわ」

 万智子はパレットにといてある絵の具に顔を近づけ、まじまじと見た。匂いの原因はこれだった。

 すると悠は少し感心したように、万智子を見た。

「母は画家だった。志半ばだったけど」

「そうだったの」

 万智子は再び視線を絵に戻した。そのまましばらく絵を眺めていたが、

「で、話があるんじゃないの?」

 悠に云われ、万智子は唇を噛んだ。

 この絵をみて今ひとつ確信を持ったのである。だが、確かめないわけにはいかなかった。

「うちに養子に入るという話なんだけど、本気なの?」

 悠はわずかに目を見開いたが、例のため息はなかった。

「まだ返事はしていないけど」

「悠君、本当は帝大なんかじゃなく、絵を勉強したいんでしょう」

 悠は再び万智子をみた。

「それもある。桐島家にいたんじゃ、絵は描けなかった」

「お父さまはこのことは?」

 悠は頷いた。

「ご存知だ。絵の学校へ行っても構わないって云ってくれた。もし、桐島家で美術学校の学費を出してくれないことがあったとしても行かせてやるってね。だから、おじさんが望んでくれるなら、養子に入るつもりです」

父ならそういうだろう。そしてここが核心だ。

「文興堂は?」

 悠は唇を結び、答えた。

「おじさまが望むなら、継ごうと思ってる」

 真剣な表情だった。いつもの皮肉っぽさはなく、真正面から万智子を見つめ返している。万智子は気圧されるように、ため息をついた。

「それならいいの。邪魔してごめんなさい」

 万智子は笑って手を振った。なんだか胸が詰まっていた。自分が嫁に行っても、店は安泰だとわかったのにである。悠は性格は難ありでも、頭はいいし、父に素直に感謝をしている。養子に迎えても多分だいじょうぶだ。

 素早く、悠が戸口に立ちはだかった。

「ちょっと待った。他に言いたいことがあるんじゃないの」

「ないわよ、もう行くから、続きをして」

 しかし、悠はたちはだかったまま、どこうとしない。

「本当にもういいんだってば。お店をちゃんとしてくれて、父と仲良くしてくれたらそれで」

 そこまで云って声が詰まった。涙が出そうだった。万智子は強引に悠を押しのけると、自分の部屋へ駆け戻った。

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