第12話 嵐の夜に
小さな灯りの中、手早く茶碗を洗う。心なしか、水の出も強くなったり弱まったりする。洗って、ゆすいで、ふきんで拭いて、手探りで戸棚に閉まった。お茶を入れようかと思ったが、今、火を使うのは少々心配だったのであきらめる。万智子は前掛けを取り、丁寧にたたんだ。時計の針の音と、風が雨戸を叩く音が同じ大きさで迫ってくるようだ。万智子は不安を振り払うように腕を振ってみた。
と、そのとき、玄関から人の声がした。万智子はろうそくを掴み、小走りに見に行った。
火を掲げると、人の姿がある。
「どちらさまですか」
「隣の鹿島です。万智子ちゃんかい? だいじょうぶかい」
「おじさん!」
万智子はかぎを開けようと、靴脱ぎを下りかけたところ、
「いいよ、開けなくて。それよりお父さんはまだかい? 商店街の方で水が出たっていうから、伝えに来たんだよ。お店のひとは誰か連絡つくのかな?」
「えっ!」
「とにかく、こっちでも消防団が出るからね。戸締りしっかりして気をつけるんだよ」
隣人はそれだけ伝えると、また雨の中を行ってしまった。
「誰だったんですか?」
いつのまにか悠がいた。万智子は玄関先に立ち尽くしたまま、振り返った。
「どうかした?」
「お店の方、水が出たらしいの」
万智子は答えて、玄関を上がった。
「あたし、見に行ってくるわ」
万智子は足早に自分の部屋に向かった。悠が後をついてくる。
「見に行くだって? 無茶だよ。この天気だぞ。俺が行ってくる」
万智子はぴしゃりとふすまを閉じると、汚れてもいい袴に素早く着替えた。入用なものを濡れないように厳重に包んでたすきがけにする。その上からマントを着込んだ。
身支度は三分とかからなかった。出てきた万智子は悠に父親のマントを差し出し、きっぱりといった。
「もちろん、あなたも一緒に行くのよ」
悠は天を仰いだが、黙って雨具を受け取った。
まったく、さっきまで停電でびくびくしていたくせに、この雨風の中、店を見に行くと云い出す了見が知れない。悠は心底そう思った。
悠が玄関を開けた瞬間、ものすごい突風がふたりを押し戻した。悠がその中、傘をさし、万智子は急いでかぎをかけた。
「本気で行くの?」
悠はもう水だらけの顔で片方の眉をあげている。まったく小憎らしい顔だ。でも今は頼るしかない。万智子も負けじと言い返した。
「行きます」
「しょうがないな」
悠は例のため息を吐くと、左手を差し出した。
一瞬どきりとしたが、これは非常事態だった。万智子は素直にその手に掴まった。濡れて冷え切っていたが、思った以上に力強かった。悠に手を引かれ、風の中を進みながら、そういえば、健と手をつないだのはもう何年前のことだろうと思った。まだ少女だった。と思う。そしてそのときに健を好きになったのだ。確か。多分? どうして正確に思い出せないんだろう。
悠に手を預けながら、そんなことを万智子は考えていた。
普段なら三分の距離も、雨風の中では三倍以上かかって、店に辿り着いた。
商店はさすがにどこも閉まっている。だが、消防団が片っ端から木戸を打ち付けて回っていた。
「どうやって入るんだ」
悠が叫んだ。
「裏から」
万智子も叫び返したが、店の裏を通る用水路をみてぎょっとした。樋を伝う水も雫どころか水道をひねったような勢いである。
消防団のおじさんが云っていたのは本当だった。排水溝の流れがうそのように速い。そして、かなりとばくちまで来ている。
店の表はガラスの上から木戸が打ち付けられていた。とりあえず、店の若い衆は対策を施してくれていた。
「入ろう」
悠に促され、万智子は裏口のかぎを開けた。
風から解放され、ほっと一息ついた。雨具をきていたので、着物はしめっただけで済んだが、髪からは雫がたれていた。雨から上がり、万智子は途端に濡れた顔をさらしていることが恥ずかしくなった。お風呂からあがったわけでもないのにどうしてだろう?
「なるべく拭いてあがってね。本が濡れたら大変」
万智子はそっぽを向いたまま、悠に手ぬぐいを差し出した。
悠はおとなしく云うとおりにしたが、ふたりが狭い入り口で身体を拭くのは大変だった。特に万智子は髪をまとめてきたものの、もとが長いのでいつまでも湿っている。しょうがないので、姉さんかぶりにまとめてしまう。格好悪かったが、あくまで非常事態である。
悠が店のランプをつけた。
店員が気を利かせ、下段のものはもう上へあげられていた。だが、店内を見に行った悠が万智子を呼んだ。
「おい、こっち、水がきてるぞ」
木枠を水がしみだしていた。しかもみるみるうちに広がっている。雨足も弱まる気配がない。そして、あの排水溝。万智子は手を握り締めた。
「どうする?」
悠が静かに訊いた。不思議なことにこの声で万智子は気持ちが引き締まった。
万智子は大きく息を吸い込んだ。
「とりあえず、店にあるものはこっちにあげましょう」
文興堂は接客や絵草子などを広げるために一段高い畳敷きが設けられている。
ランプを上に掲げると、万智子は畳敷きを片付け、悠は店から本を運び出した。大きな店ではないものの、蔵書はかなりある。小一時間休みなく働いても、まだ棚一本しか終わっていなかった。その間に水はついに一筋の流れとなり、入り込んできたのである。
「おい、これ借りるぞ」
悠が奥から荒縄とくぎとを持ってきた。
「どうするの?」
「応急処置」
戸の枠のわずかな隙間に荒縄を押し込んでいく。樋にも埋めたが、すぐに水がにじんでくるようだった。万智子はありったけの雑巾をそのあたりに敷き詰めた。
そのとき、店の電話が鳴った。万智子は飛びつくようにしてそれを取る。悠もすぐ近くにきた。
「もしもし?」
「ああ、お嬢さんですか!」
坂木であった。天の助けと思ったが、雑音が入り、よく聞き取れない。万智子は必死で受話器に耳を押し付ける。
「もしもし、今どこなの? お父さまはそこにいるの」
「だいじょうぶ、ですか? 汽車が止まって、しまって。お店は」
「今のところはだいじょうぶよ。でも危ないわ、だれか」
のんびりした父の声が変わった。
「万智子か?」
そこで、ぶつっという音がして通話は切れた。
「なんだって?」
万智子は首を振った。
「多分まだ向こうよ。汽車がとまっているみたい」
「援軍なしか」
悠が肩をすくめた。
「とにかく運ばないと」
万智子が言いかけたのを悠がしっと唇に手を当てて制した。悠は天井を見上げている。
と、ぽつん、とかすかな音が確かに聴こえた。
「雨漏り?」
先ほど積み上げた本の山のてっぺんに丸いシミがついている。
「そこ、どかして、早く」
大慌てで山積みの本を脇にのける。そうして見上げると、ゆっくりと、広げた悠の手のひらに雫が落ちてきた。
悠はため息をついて髪をかきあげた。
「意外と老朽化してる?」
「そうよ!」
いやみを切り返しているヒマはなかった。万智子は二階に駆け上がった。
「悠君、さっきのものもって来て!」
二階は書庫になっている。しかも高級な古書や掛け軸などが置いてある。湿気を嫌う本のために、桐を使って特別誂えしているはずだった。
万智子はランプを掲げた。すると、きらりと床が光った。近づくとガラスの破片である。見るとひとつだけある窓に木の枝が引っかかっているではないか。その勢いでガラスが割れ、雨がふきこんでいたのである。雨の雫はそのまま床に染み込んでいた。
「すげえな」
悠も上がってきて、ガラスを避けて窓枠を確かめた。
「これでどう?」
万智子はあちこち捜して茶箱の蓋をはがしてきた。
「とりあえず、覆わないと」
ところが、ここで悠が信じられない反応をした。横を向いたかと思うと、ぶっと噴出したのである。ついぞ笑顔なんぞ見せたこともないくせに、この非常時に笑い出したのだ。万智子は目を疑った。
「ちょっと、何? なんで笑うの?」
しかし、悠は金槌を握ったまま、肩を震わせている。
「だって、そうだろう? うちのほうならともかく、東京のど真ん中で、木の枝が飛んできて、窓を割るかよ! しかも、こんな馬鹿でかいのが。よくもまあ次から次に」
「は?」
万智子は初め憤慨したものの、あんまりいつまでも悠が笑っているので、ついにはそれが伝染した。
くすっと笑いがこみ上げると、それは止まらなくなる。ふたりして目を見合わせた瞬間、同時に噴出した。
「普通、こんな時に笑う?」
「自分だって笑ってる」
万智子は懸命に板を窓に押さえつけた。それを悠がなんとか打ち付ける。しかし、作業は途中何度もくすくす笑いで中断された。
「早くしないと、雨漏りが止まらないでしょ!」
ようやく、窓を閉め、濡れた個所をきれいにふくと、雫は下へは伝わなくなった。
だがまだ本の移動が残っている。
上で笑っている間に水が染み込んでいた。万智子は雑巾を絞っては敷き詰め、悠はひたすら本を運んだ。
夜中の零時を過ぎた頃だろうか、ようやく一番上の段を残し、本をすべて上にあげた。
ほっとして、万智子は額を押さえた。
「休んだら?」
悠は時計を指差した。
「え? でも、もう少しだし、だいじょうぶよ」
すると、悠は立ち上がってきて、ひょいと万智子の肩を押した。万智子はよろめいて、そのまま後ろにあった椅子にぺたりと座り込んだ格好になった。
「いいから、座ってて。交代要員はいないんだから」
そう云うと悠は後ろを向いて、また黙々と作業を続けた。一冊一冊を腕に重ね、丁寧におろしていく。あの扱い方なら坂木も文句を云わないだろう。細くて筋張った長い指。ちゃんと男のひとの手だ。どうしてこんな時は心がこもっているのかしら。
そのまま悠を見ていたと思ったのだが、いつのまにかうとうとしてしまったらしい。はっと気が付いてみると、目の前まで本の山が増えていた。その代わりに棚はからっぽであった。
一段下で、悠が柱に寄りかかるようにして眠っていた。
耳を澄ますと、嵐のような風の音はもうやんでいる。万智子は店の半纏を取ってきた。そっと悠に着せ掛ける。そうして自分も本の隙間の中に座り込んだ。
多分もうだいじょうぶだ。朝になれば店員も駆けつけるだろう。父も坂木も汽車が動けば、帰ってくる。とにかくなんとかなったわ。認めたくないけど、悠のおかげだ。悠がいなかったら、この嵐の中店に辿り着けたかどうかもわからないし、こんなに本を運ぶことはできなかっただろう。
雨はまだ降り続いている。念のため、雑巾をまた絞って取り替えたほうがいいかもしれない。
でも、ちょっとだけ、と万智子は目を閉じた。
遠くから人の声がたくさんしているような気配で、悠は目を覚ました。木戸の隙間から陽射しが差し込んでいる。そして、肩には万智子が顔を寄せていた。妙に温かかったのはこのせいか、と思った。そしていい匂いがしたことも。顔を覗き込むには、近すぎた。悠はそのまま起こさないようにじっとしていたが、まもなくはっとしたように万智子が身を起こした。
「おはよう」
悠は眉をあげて、云った。
「おはよう」
万智子は慌てて身体を離した。ちょっとのつもりが、寄りかかって眠ってしまうなんて。髪も後れ毛だらけで乱れまくっている。非常事態は解除された後の建て直しが難しい。
「店の人、着たみたいだぜ」
悠は伸びをしながら、振り返った。
木戸をとりこわす音がしている。徐々にガラス戸があらわになって、台風一過のひかりが店に流れ込んできた。
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