第11話 嵐
悠が真田家に同居をはじめてからひと月が経過した。
山吹はいつのまにか花を散らし、真田家では水色の紫陽花の鉢が玄関を彩っていた。
悠は教室の窓から今年初めの台風の訪れを眺めていた。時折吹く風が校庭の木々をめちゃくちゃに散らしている。この分だと授業が切り上げられるかもしれない。
「なにぼんやり見てるんだよ」
級長の門倉がどっかりと机に腰掛けた。彼は転校生の悠にやたらと話し掛けてくる。級長なので面倒を見ているつもりかと思ったが、単に話好きだった。無駄口をきかない悠と波長があうと思っているらしい。
「別に。外」
しかし、門倉は勝手に会話をつなげた。
「ああ、台風だな。今日は七時間目は切り上げらしいぜ。こういうとき釣りに行くとおもしろいんだよ。どうだ、つきあわないか?」
台風に釣りとは物好きな、と思ったが、悠は短く断った。
「今日はやめとく」
こういう返事でも門倉は全然気にしない。
「そうだよ。おまえのところ、店やってるだろう? なにかとあるんじゃないか」
先日、校門前での出来事を門倉はしっかり見ていた。それから万智子のことをしつこく訊いてくる。悠は適当にかわしていたが、門倉は変に情報通なので内心冷や冷やしている。
文興堂に首実検に来られることだけは避けたい。
「そうだな、早く帰るよ」
しかし、逆らわずに返事をしたのは、思い出したからである。
たしか、今日は真田のおじさんは本屋の会合で留守をしている。お手伝いの佐代さんも一人娘の結納があるとかで休みをとっていた。従って家には万智子ひとりのはずだった。この天気では女学校はもっと早い時間にしまったかもしれない。ともかく早めに家に帰ろうと思ったのである。
六時間目が終わった頃にはすでに雨は大粒になっていた。
空はみるみるうちに荒れ模様になっていった。ようやく玄関に駆け込んだときには、髪からしずくがたれていた。
「傘をもってなかったの!」
万智子が驚いて、手ぬぐいを持ってきた。
「役に立たなかったから、途中から走った」
悠はざっと頭を拭いただけで、玄関を上がろうとしたところ、万智子はすかさず指摘した。
「制服、きちんと衣文かけにかけなきゃだめよ。しわになっちゃう」
法事の一件以来、どんな態度をとっても万智子は受け流してしまう。前はいちいち反応して面白かったのに、最近はやけに強くなってしまった。もっともそれには悠のほうがつっかからなくなったという変化もあったのだが、悠自身はそのことに気付いていなかった。
「はいはい」
悠は面倒くさそうに答えた。
「ね、今日のお夕飯なんだけど、六時半ごろでいい?」
「はいはい」
悠は云ってから、立ち止まった。
「万智子サンが作るの?」
万智子は前掛けをつけている。
「そうよ?」
「だいじょうぶ?」
「失礼ね!」
いきり立った万智子の横を悠はさっさとすり抜けた。
「ま、期待しています」
そういいながら、顔はほころんでいた。
約束どおり、六時半ごろ、悠は居間をのぞいたが、支度がなかった。だが、いい匂いはしているので、台所へ行ってみた。
万智子が背の高いテーブルに鍋の支度をしていた。
「こっちでいい?」
「別に」かまわないと悠は席についた。
「鍋?」
土鍋に水炊きが湯気を立てている。ちょっと季節はずれである。
「そう、考えたの。悠君とお膳で向き合っても、お通夜みたいになりそうだから」
万智子は胸を張った。悠は肩をすくめた。変なことを考えるものだと思った。だが、一方でふたりきりであると万智子のほうも考えたのだと思ったら、少し気分がよかった。
万智子は思いつくままに喋っていたが、悠も短く返事を返した。ふたりでこんなに話をするのははじめてだった。そしてけんかにならなかったのも。
時折木の影が乱暴に窓を叩いた。そのはずみか、天井の明かりがゆらゆらする。
「お父さま、だいじょうぶかしら」
なにげなく万智子が云った時、ぱちんとなにかの切れる音がして、光が落ちた。瞬きの間に、辺りは真っ暗闇になる。
「えっ! 停電?」
「多分」
暗くなった途端に、外のものすごい風の音が聴こえてきた。悠は暗闇に目がなれるまでしばらく待っていようと思ったのだが、早くも 万智子は立ち上がろうと椅子を後ろに引いた。
「ちょっと待って。動かないほうがいい」
悠が云ったのに、万智子はもうどこかにけつまずいている。しかたなしに悠は自分が立ち上がった。
「ろうそくは?」
「そこの戸棚にあると思うんだけど」
万智子が動く気配を感じ、悠はきっぱり遮った。
「いいからじっとしてて」
戸棚はすぐそばだった。悠は手探りで戸棚を開け、中を探ったがそれらしきものがない。
「ないよ」
「そんなはずは」
万智子が立ち上がる気配がした。そろそろと足を進めているが、再びどこかにぶつかっている。
「おい、こっちだ。手を」
悠は気配の方へ手を差し伸べた。
「え? どこ?」
万智子も手を伸ばした。
「どこって棚のところだよ」
ようやく悠は万智子の細い手をつかみ、暗闇の中引き寄せた。
「ここ」
掴んだ手を引出しまでもっていく。
「ああ、この下なの」
万智子は一つしたの引出しを探り、ろうそくを見つけた。悠がマッチを擦り、ようやく台所に小さな灯りが戻った。悠はろうそくを小皿に上に立てた。
万智子が眉を寄せている。
「離れって雨漏りしたことある?」
悠は驚いた。
「雨漏りするの?」
「これだけ降ってるから心配という話よ?」
確かに風は唸るようだし、雨もその勢いでつぶてのようだった。ろうそくの乏しい灯りはたよりなく揺れている。
「まあ、そのときは避難するから」
「今日はもうこっちに泊まったら? 戻るだけでびしょぬれでしょう」
離れへの短い渡り廊下に屋根はついている。ほんの三歩の距離だったが、この天気では言う通りかもしれなかった。
万智子の言葉に悠はにやりとした。
「もしかして怖いの?」
「まさか、子供じゃあるまいし」
万智子はつんとしたが、長いまつげがしばたたいたのを悠は見逃さなかった。
ろうそくの低い灯りは万智子の顔の陰影をはっきりと浮かび上がらせていた。
伏せたまつげや、高い頬骨が美しい影を落としている。透き通るような肌に唇はそこだけ朱をともしたように鮮やかである。黒と白と赤の配置であるだけなのに、このひとのものは特別に見えた。
知らなかった。このひとはきれいなひとだった。
ふいに万智子が顔をあげ、悠ははっと目を逸らした。
一瞬、心の中を見られたかと思った。というよりも、自分が今さっき考えたことに戸惑っていた。
「ちょっと見てくる」
悠は云って、ろうそくを手に持った。万智子も慌てて立ち上がる。
「どこに?」
「戸締り、確認してくる。いいからそっちは片付けてて」
万智子がほんのわずか心配そうな顔になったので、悠はからかった。
「怖いなら一緒にくる?」
「さっさと行ってきて」
万智子は猛然とお茶碗を重ね始めた。
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