第7話 下宿人にスキを突かれる

「へえ、ここ、けっこう広かったんだなあ」

 離れは廊下から入った板じきが一畳と八畳ほどの広さがあった。ただ、収納がまったくないので、行李やら机やら布団が部屋の端に並んでいる。窓は南北に通り、風通しもよい。殺風景だったが、万智子が気を利かせたのか、柱のひとつに竹の一輪挿しがかかっていた。彩りといえばそのなでしこくらいであった。

「で、どう? やっていけそうかな」

 健は北側の、悠は南側の窓に腰をかけた。

 ふたりの間をぬるい風が通り過ぎた。

 悠は詰襟に指を入れ、首元を緩めた。

「他に行くところもないので」

「おいおい、穏やかじゃないな。この家が気に入らないのかい」

「まさか、やさしく面白いおじさんにあんな美人な娘さんまでいるんですから。文句のつけようがないですよ」

 悠は淡々と云った。

このふたりは一見まるで印象が違うのだが、さすがに血がつながっている。一瞬真顔で眼を合わせたふたりは、よく似ていた。が、健はすぐにいつものやさしい顔になり、

「桐島家にいるよりはいいだろう?」

「桐島家は僕を望まなかったでしょう?」

 悠はすかさず云った。

「君が望まなかったんだろう?」

 健はやんわり否定した。

「あと、もし必要なものがあれば遠慮なく僕に云ってもらいたい。真田のおじさんもそういったかもしれないけど、君はここに離れて住んでいるだけで、桐島家の一員であることに変わりはないんだ。望むと望まざると関係なしに面倒は見る」

健はきっぱりといった。そして、今度は諭すような口調になった。

「君さえよければ、卒業後うちに来てもらいたいんだ。これは僕の親父も同意している。このことは忘れないでいてほしい」

 何度も聴かされたことだった。だが到底返事をする気になれない。結局のところ自分にはまだ決定権はないのである。せいぜい拒否権を示すだけだ。今もまた、無言で返事を避けた。

 ちょうどそのとき、佐代がほとほとと戸を叩いた。

「用意ができましたので、どうぞ」

 

 父の隣に悠が、前に健が座り、番頭の坂木と店の若い店員ふたりが端に占めた。万智子は健の隣だったが、それはすなわち悠の正面でもある。

「こちらが、桐島悠君だ。編入試験も無事合格。来年帝国大学に入学する予定だから、うちの本は読み放題にしてやってくれ」

 店員は拍手をし、悠は照れたような表情でお辞儀をして見せた。

 父の音頭で乾杯となった。席の主役はやっぱり父と健であった。悠は静かに箸を運んでいるが、年の近い田畑や吉岡に話し掛けられると、丁寧に答えていた。

 万智子は父や健の話に割り込むことも無粋なので、一通りお酌をすると、あとは料理のとりわけや酒を運んだりと、佐代の手伝いに回った。

「お嬢さん、少しは召し上がったんですか」

「トロと卵は食べたわよ」

 万智子は台所で佐代特製のチラシ寿司を分けていた。

「あと、これはここで食べるし」

 佐代の分と自分の分には錦糸玉子をたっぷり乗せた。

 佐代は笑って、お盆に取り分けたチラシ寿司をのせて運んでいった。

 万智子は台所で熱燗の面倒をみながら、チラシ寿司や煮物をつまんでいた。健と話ができないのは残念だが、悠の前ではきっと落ち着かないと思った。これはこれで気楽でいい。

 そのとき、廊下のほうから足音が渡ってきた。

「お酒、ありますか」

 ちょうど様子を見ていたところだった万智子は、

「はい、ただいま」といって振り返った。

ところが、空のお銚子を持って立っていたのは悠である。店の若い衆のどちらかだと思っていた万智子は思いがけずびっくりした。

 一瞬手をすべらせ、つまんでいた熱燗の口を湯の中に取り落としてしまった。その拍子に熱せられた酒が手に跳ねた。

「あつっ」

 万智子は手首を押さえたが、もう一度ふきんでもってお銚子を掴もうとした。

 すると、悠が押しのけるようにして万智子の手からお銚子をもぎ取った。

「なにしてる」

 いうなり、悠は万智子の手を掴み、水場にひっぱっていくと、勢いよく水道の栓をひねった。そうして、湯がはねた個所をその下に突っ込んだ。

万智子は驚いて、されるままになっていた。どうどうと流れる水にさらされて、やけどのあとはほとんどわからなくなっている。痛みも冷たさに麻痺して徐々に感じなくなってきた。すると逆に、悠に手をつかまれていることが気にかかってきた。

「手、冷たくない?」

 いたたまれず、万智子は小声で云った。悠の手も同じく水にさらされている。

「別に」

 無愛想な声がすぐ耳元で聴こえた。悠は万智子より背が高かった。健より低いと思っていたのだが、万智子よりは頭一つも大きかったのである。発見であった。

「痛みは?」

「ええと、もうだいぶ」

 よくなったといおうとしたとき。

「そろそろ失礼するよ」

 万智子と悠は並んで振り返った。

酒で顔の赤くなった健がのれんを分けて立っている。万智子は悠の手からさっと手を引いた。

「どうかしたの」

 健はふたりの顔を見比べて不思議そうに見ている。

 万智子はしどろもどろに前掛けをねじった。

「なんでもないの、ちょっと」

「やけどを水で冷やしていたんです」

 万智子の後ろで悠が云った。

 万智子はぎょっとしたが、健は心配そうな顔になった。

「やけどだって? だいじょうぶかい」

「ええ、もう平気です」

 万智子は前掛けで手首をくるむようにして隠した。

「それより、健兄さん、もうお帰りになるの」

「うん、そろそろ戻るよ」

「じゃ、玄関までお見送りするわ」

 健が悠を見た。万智子も振り返ると、悠はしかたないというような顔で後に続いた。


「親父殿によろしくな」

 健は父に礼をし、悠に向かって云った。

「じゃ、法事の時に」

 しかし、悠は肩をすくめただけで返事はしなかった。父は咳払いをし、健は苦笑した。万智子は健の替わりにカバンを持った。

「健兄さま、そこまでいくわ」

 万智子は健について玄関を出た。

 門のところまで、万智子は健の後ろを歩いた。すぐそこの距離であったが、月明かりに健の影を踏みしめているだけでも嬉しかった。

 門の敷居をまたいだところで、健は万智子に向き直った。

「万智子ちゃん、この前も聞いたけど、女学校を卒業したらどうするか決めた?」

「いいえ、まだ」

 健はやけに含みがあった。いいあぐんでいるようでもある。万智子はさっと緊張した。

「そうか。今云うべきかどうかわからないんだが」

 万智子は全身を耳にして、健の言葉を待った。

 ところが。

 まったくだしぬけに、万智子の脇からにゅっとぶかっこうな塊が飛び出した。

「健さん、わすれもの」

 悠が手に風呂敷包みをぶら下げて、健に差し出した。健も万智子も虚をつかれ、一瞬動きが止まった。が、いち早く健は笑顔になり、悠から包みを受け取った。

「ああ、ありがとう」

 結局、一度途切れた会話はもとには戻らなかった。

 万智子は呆然と、片手をあげた健を見送った。

 からり、と下駄の音を鳴らして悠が云った。

「残念だったな」

「聴いてたの!」

「そっちが立ち話してたんだ」

 まったく悪びれない悠の態度に万智子はかちんときた。

「悪趣味!」

 その言葉に悠は立ち止まった。振り返り、真っ赤な顔をしている万智子と対峙する。

「あのひとがそんなにいい?」

「あなたに関係ないわ」

 図体はでかいが年下の悠に恋心を問われて、万智子は目を白黒させた。

「そうだな」

 不意に悠は面倒くさそうに話を打ち切った。だが、玄関の前で背を向けたまま、こう云ったのである。

「関係なくはない。俺は桐島家が嫌いだ。だから、桐島家を好きな人間も嫌いだ」

万智子は息を吸い込んだが、悠はさっさと玄関をくぐっていった。ほんの三分前は、やけどのお礼を言おうと思っていたけど、絶対にやめだわ。口が裂けても云うものか! 


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