第6話 下宿人にため息をつく

 翌朝。

 食卓には啓四郎のお膳しか並んでいなかった。

「今朝はどうしたんだ。万智子は?」

 佐代はお給仕をしながら、

「なんですかねえ、当番だとかで早く出られたんですよ」

「そうか。悠君は今日から学校だったかな」

「ええ、学生服を着てらっしゃいましたから」

 万智子はいつもより三十分以上早起きをした。食卓で悠と顔を合わせないためだが、そのときには悠はすでに出た後だった。それがまた腹が立つ。

 どうして何も言い返せなかったんだろう。言われっぱなしだなんて自分にも腹が立った。

 当番ということはうそなので、万智子はがらんとした教室でいらいらと昨夜のことを思い出していた。

 十分もした頃だろうか、本物の当番が登校してきた。

「おはよう。どうしたの、こんなに早く」

 それが仲良しの大熊早苗だったので、万智子はほっとして袖を引っ張った。

「早苗! ちょっと聞いてくれる」

 誰もいない教室で、万智子は早苗にこの週末の出来事をぶちまけた。

 早苗の当番の仕事を手伝いながらなので、机の上を吹いたり、黒板けしを叩いたりしながらである。が、少女の口は休むことなく、耳もまたそれをなんなく聞き取った。

「じゃ、万智子、毎朝この時間に来るわけ?」

「それどころじゃないわよ。夕ご飯をどうしようかと思ってるの」

 万智子は悠をもう徹底的に無視すると誓っていた。必要最低限以外、金輪際おせっかいなどやかない。それにはまず顔を合わせないようにしようという魂胆である。

「悠君の食事を離れに運んじゃいなさいよ」

「でも、お父様になんて云ったらいい?」

「ええと、それは、悠君がそうしてほしいと云ったっていうのは?」

 いい案が浮かばない間に、そろそろ登校時刻で、鈴を振るようなさんざめきがあちらこちらからなだれ込んできた。

「ま、あたしはちょっともったいないと思うけど。だって、その悠君、美形なんでしょ。今度見に行きたいわ」

「人事だと思って!」

 早苗は片目をつぶって見せた。

「ま、元気出しなさいよ」

 友の言葉に万智子は肩をいからせたが、出てきたのはまたしてもため息だった。


 確かに、猛烈に腹を立てているが、一方で落ち込んでいた。勝気な万智子は認めたくなかったが、やはり、あそこまで正面きって文句をぶつけられては、自信喪失する。友達同士のけんかやいさかいとは全然違う。そう、これはまさにえらく嫌われた、という感じなのだ。そしてその理由が自分でわからない。なにか気に入らないことをしたのだろうか。

 健兄さまに頼まれているのに。

 万智子が一番がっくりきているのはそこだった。できれば桐島家の人間とはうまくやっていきたい。そう思って接したのがまずかったのか。

でも、そうとでも思わなけりゃ、やさしくなんかできなかったわ、あの第一印象! ぐるぐるぐるぐる、万智子は一日中ため息をついて過ごした。


 鬱々とした気分を抱えたまま、万智子は学校帰りに店に寄った。そうしてできるだけ時間をつぶそうと思っていたのに、顔を出すや否や、坂木が待っていたとばかりに飛び出してきた。

「ああ、お嬢さん、おかえりなさいまし。今日はすぐに戻ってきてほしいとのだんな様からのご伝言ですよ。悠さまの歓迎会をなさるそうです。あとでわれわれも参りますから」

 当ては大はずれで、万智子はのろのろと家に帰った。

 歓迎会ということはご馳走を作るので、佐代さんががんばっているだろう。万智子は玄関ではなく、裏の勝手口をくぐった。

「まあ、お嬢様、そんなところから」

「坂木に聞いたの。あたしも手伝うわ」

 もうかまどはすべて鍋が埋まっている。

「下ごしらえはもうできましたから。あとはお寿司がきますし。それよりお嬢さま、床の間のお花をお願いします」

「わかったわ」

 万智子は、水切りし、桶につけてあった花を持って居間に行った。

 今生けてある水仙から元気なものは残して、山吹を生けた。山吹は母の好きな花だった。毎年この時期になると父がどこからか腕いっぱいに抱えるほど取って来るのだ。なので、万智子もこの花はありったけ溢れるように四方に生ける。少し取り分けて、母の仏壇にも短く切って生けた。

 その夏を思わせる鮮やかな黄色と緑とを眺めているとき、玄関に人の声がした。

 手を拭きつつ、出ていくと、健と悠であった。

「いらっしゃい」

 条件反射で健には笑顔が出る。その勢いを借り、悠にもお帰りなさいと云った。

 健は今日もきちんと濃い色の背広を着ていた。その隣の悠は金ボタンの並んだ学生服を着ている。その学生服はちょっと特徴があった。ボタンの数が多いのだ。万智子は彼の編入するという学校が名門であると気が付いた。それにこうして見るとなかなか立派である。

 ま、健兄さまには負けるけど。

「これ、みなさんに」

 健はのしがついた一升瓶を掲げた。礼を云って受け取ろうとすると、「重いから」と健は自分で持ってあがった。

 こういうところが好きだなあと万智子は思う。

「居間でいいのかな」

「ええ、お願いします」

 健は酒を床の間に置くと、「悠君の部屋を見たい」と言い出し、悠とふたりで離れに行った。

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