第2話 健兄さま
「それにしてもしばらく見ないうちにえらいべっぴんさんになったなあ」
万智子はお茶をだしながら、胸に顔を伏せるようにして照れた。
そこではっとする。今日の半襟の柄ったらなんなの。痛恨、だが、後の祭り。
そのとき、父が部屋に入ってきた。
「よう、万智子、戻ったか。健君にご挨拶は」
「はい、いまさっき」
父は万智子に頷いてから、健に一冊の本を差し出した。
「これ、親父様に」
桐島家は横浜の大きな商家で、文興堂は洋書を輸入してもらっている。東京の問屋より取り扱い範囲が広いのだそうだ。商売だけでなく、親同士が学友ということで、親戚のような付き合いをしている。万智子にとって健は幼少の頃からよく遊んでもらった幼馴染である。
健は押し頂くようにその本を受け取った。多分桐島のおじ様が集めている古文書だと万智子は思った。
「それで、健君はもうこちらに?」
「はい、そろそろ実家の商売を覚えさせてくれるらしいです」
それを聞き、万智子は内心で飛びあがった。
健は長男であるが、実家の商売を継ぐ前に武者修行で、もう三年大阪の問屋で働いていたのである。これまでは年に一度か二度しか会えなかったが、実家に戻るとなれば、俄然会う機会は増える。
そんな万智子の胸中を知ってか知らずか、父がのんびりと云った。
「万智子、横浜に戻る前に、最後の月給でなにかおごってもらえ」
健は笑って、承諾した。
「いいですよ。ついでにこっちのことにすっかりうとくなっちゃっているから教えてもらおう。最近東京じゃなにがはやっているんだい」
万智子はすでに何所で何を食べるより、何を着ていこうかを考えていた。
「そうね、今ちょうど学校で噂になっていて・・・」
ええと、こないだあつらえた桜の小紋をおろそう。あれにぴったりのリボンがある。
上野の森の中に洋食屋ができた。開店当初から評判で、女学校でもクラスの半分くらいがもう賞味していた。
「なんといってもオムライスよ」と聞いていたので、万智子は迷わずそれを頼んだ。健はカツレツを注文した。
「健兄さん、こういうところはいらしたことあるの?」
店は天井がいやに高く作られていて、明るい。ランプもはるか上のほうから照らしている。真っ白いテーブルクロスに、銀の食器が料理が来る前から並んでいる。それらがかちゃかちゃと鳴る音が小さくとめどなく流れている。
「仕事でならね。普段は一杯飯屋ばかりだよ」
「そんなこといって!」
万智子は笑った。そして全部本気にしたわけではないが、少しほっとする。
窓際の席では今まさにお見合いをしていた。双方三人ずつ向かい合い、真ん中にいる振袖の女性はさっきから下を向きっぱなしだ。
あれじゃ、正面のお相手はおでこしか見えないだろう。
健も気がついて、笑いながら万智子にきいた。
「万智子ちゃん、女学校はいつまでだっけ」
「来年卒業よ。やっと先輩のおとがめから解放されたの」
万智子の通う女学校はその先にもう二年の専門課程がある。それに進むかどうかはまだ決めかねていた。
「その気持ちわかるよ。最上級生は好き勝手だもんな」
そう云って笑った時、健のもとに給仕が伝言を届けてきた。
読むなり、健は「ちょっと電話をかけてくる」と席を立った。
「食事がきたら、冷めないうちに食べてくれよ」
「お兄様の分もね」
冗談で見送ってから、万智子は緊張を緩めた。ふとぴかぴか光る大きなスプーンを手に取り、覗き込む。
大きな瞳がぼんやり見返した。万智子の瞳は二重ではないのだが、まぶたがうすいので眉と瞳の間が狭く見える。鼻は少々高さが足りないと思うも、あぐらをかいてはいないのでよしとする。唇は紅を指さずとも赤いのが自慢だ。十七歳の肌はシミひとつなく、つややかである。
今ってけっこうキレイだと思うんだけどなあ。万智子は器量自慢だった母と祖母とに感謝した。
健に決まった相手がいないことは知っている。だが、それは父からの情報であり、結婚話が具体化していないというだけで、健自身に密かに想う相手がいるかどうかとは別問題だ。万智子の知らぬところで、たとえば大阪で誰かと出会ったりしているかもしれない。それが目下最大の懸案事項だ。
父は二言目には嫁に行きたきゃ行け、と云う。その場合、店はどうするつもりなのか、は教えてくれない。万智子とて、それがはっきりしなければ安心して嫁には行けない気持ちでいる。だが、父がそう云うのは娘の気持ちはお見通しだからだと万智子は思っている。だとしたら、桐島家は万智子をどう思っているだろう。
実家は懇意だし、名門女学校を優等で卒(予定)、美人、健康、若さ。条件は悪くないはずだ。だって、そのために日々努力している。お稽古事だって先生のお墨付きの腕前である。まあ、お裁縫はあんまり好きじゃないけど。
万智子は「気立て」という項目は都合よく考えている。
だが事実、近所の評判とて万智子が思うより常に上々である。文興堂の看板娘といえば、巷のご隠居さんのお気に入り、若衆の憧れの的、なのだ。
けれども、片恋の乙女にとって、想いは廻るばかり。どれだけがんばって外堀を埋めてみても、当人の気持ちがわからないではどうしようもない。結局悩みは尽きないのであった。
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