浪漫文興堂

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第1話 片思い

ご一新前は、ここ市ヶ谷界隈は武家屋敷が多く、今もその名残で堅苦しい連中が暮らしている。しかし、時代の流れの中、徐々に四民平等が進み、商店を構えるものや、ちょっと小金をもつ連中が連なってちょっとこぎれいな横丁が並び始めていた。

 真田文興堂も、もとはそんな武家屋敷があったところに立っている。創業者は真田三九郎という。先祖代々れっきとした士族であったが、ご一新を期にすっぱり髷を切った。もともと道楽で古文書や絵草子などを収集していたし、ちょっと名の知れた目利きでもあったから、趣味が仕事になるならもっといいと心機一転したものだ。これが案外お武家つながりで、繁盛した。当初は「文経堂」であったが、その長男の経一郎が継いだとき、「ひろく文献に興じる」という趣旨で「文興堂」と改めた。 

 真田万智子は数えて十九代、文興堂では三代目である。

 真田家の後継ぎは万智子ひとりだった。母は十の年になくなり、父は後妻をもらわない。そして今のところ、十七歳の女学生がこの店の看板娘を張っていて、商売は安泰なのである。

 この日は土曜で学校は半ドンだった。万智子はいつものように帰りがけに店に顔を出した。お稽古ごとがない日は「文興堂」の前掛けをして、夕食の支度の時間まで店に立つ。

「お嬢さん、おかえりなさい」

 番頭の坂木が太った身体をひねって出迎えた。万智子よりも背が低いのに、横幅は倍くらいある男である。もっとも万智子は女にしては背の高いほうで、これは真田家の遺伝である。

「ただいま、あら、お父様は?」

 父は店番こそ務めないが、ヒマがあれば店内をうろうろして、常客と世話話をしたりするのが好きである。それで大抵は顔は見えずともどこからか声がしたりするのだが、今日は気配がない。そのことに万智子はすぐに気が付いた。

「今日はひさしぶりのお客様がみえまして、お住まいの方に戻られましたんですよ。お嬢さんもいらっしゃるようにとのご伝言です」

「お客様ってどなた?」

 すると坂木は恵比寿のような顔をした。

「まあ、いっていらっしゃい」


 戻るといっても、店から住まいはつながっているようなもので、歩いて五分とかからない。江戸っ子のせっかちは袴の裾をはためかせて、三分で玄関に駆け込んでいた。

「ただいま」

 靴脱ぎに見かけない革靴が一足並んでいる。

 ひさしぶりのお客様って・・・! 

万智子はぴんときた。すぐさまガラス戸に姿を映してみる。曲がったリボンを直してふくらませ、襟元を正すと、笑顔をひとつ、今度はごくしとやかに客間へ急いだ。


 客間は日本家屋の中に洋風好みの祖父が改装したものだ。舶来もののあやしげな螺鈿のテーブルが置いてある。お客様をもてなすのにはちょっと風変わりで面白がられるのだが、一方で落ち着かないのか長居をしないから、父も便利に使っている。

万智子は扉を小さく叩いた。これも西洋風の礼儀なのだとか。まるで学校の職員室に入るのと同じだ。ふすまと違って向こうがまったく見えないところが緊張する。

「どうぞ」

 聴こえた声に、本当の笑顔がこぼれる。万智子は勢いよく扉を開けた。背の高い青年が立ち上がった。

「やあ、万智子ちゃん」

「健(たける)兄さん、おかえりなさい」

 万智子の声が素直に弾んだ。

桐島健はにこやかに応じた。少し日に焼けて、それが白い麻の背広に映えている。髪が伸びたみたいだ。

万智子はこの八つ年上の健兄さんに物心ついた頃から片思いしている。

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