第7話 リアが風邪を引いた日
早朝に目が覚めた。
窓から差し込む光は弱々しく、遠くを見れば太陽も目を覚ましたばかりだったようだ。生まれたばかりの光は淡いながらも、世界を照らし始めている。それは圧倒的な勢いと影響力を持って。照らされた世界は、それまでの色を否応なく変えていった。
隣ではリアが小さな寝息を立てている。
彼女もまた、太陽と似たような勢いと影響力を持ってる。目が覚めれば、その光で俺は色を変えてしまうのだろうか。ここ数日、俺は振り回されてばかりだ。
とはいえ、リアを太陽と表現するのは癪に障る。
興味本位で拾ったものの、俺の私生活や心はリアによって脅かされている。一般的に太陽とは良い意味で例えられるものだ。俺にとってリアは、そう言うものではない。成り行きで陥ったこの状況は、本意ではないのだから。まあ、俺は無遠慮に輝く太陽が嫌いなので、俺の価値観に即した意味でのたとえならば、間違いではないとも言えるだろうか。
俺はリアを起こさないように、そっとベッドを抜け出した。
布団から出ると肌寒い。厚手の服を一枚羽織って廊下に出ると、更に温度が下がった。日中は暑いが、早朝の冷え込みは中々だ。とりわけ、今日は寒い方だな。
軋む階段をゆっくりと降りる。
一階に降りると紅茶を淹れる為に湯を沸かした。いつもそうするように茶葉を計り、ティーポットを温め、沸騰した湯を注ぐ。保温の布巾を被せて、少し蒸らす。あとは砂時計が落ちるまで待ったら完成だ。
完成した紅茶をカップに注ぐと、ふわりと華やいだ。
朝の心地よい目覚めには、欠かせない儀式。この香りは心を落ち着け頭をすっきりさせてくれる。その日の予定を確認するには、うってつけの飲み物だ。それに今日みたいな朝の冷え込みが厳しい日には、この温かさも一層尊いものになる。
「……ふぅ。」
至福のため息。
この一時だけは、俺本来の私生活の在りように戻る事ができた。しかし、いつもそうするように今日の予定を考え始めると、日常は霧散した。
今日の予定、それすなわちリアの事である。
昨日はリアに魔法を教えた。今日はどうしたものだろうか。リアに教えて欲しいと言われたのは剣と魔法。リアの体調が万全ならば剣でも良いが、そうでないなら魔法の一択だろう。もっとも、ある程度身に着くまでは、一方に専念した方が良いだろうけれど。
リアの魔法の腕はまずまずだ。
やや優秀と言ったところ。既に回復魔法の下地があるので、基礎を学ぶ上での下地は十分だったのだ。変な癖もついていないようで、純粋に下地が魔法習得にプラスに働いている。このまま1週間くらい基礎トレーニングを続ければ、それなりに物にはなるだろう。俺としては、剣を教えるのはそれからにしたいところ。
とりあえず、今日の午前中は魔法の訓練。そして午後からは食料の買い出し。帰り際に、またリアと外食するのもありか。昨日の食事は、存外悪くは無かった。いや、そもそもそれもリアの体調次第か。
食事と言えば、まずは朝食の準備だな。
リアももう少ししたら起きてくるだろうし、何か適当に作るか。朝は簡単で良いだろう。食材は何があっただろうかと確認しようとして、ふと気づく。当たり前のようにリアの朝食を作ろうとしている自分がいる事に。
「……重症だな。」
まあ、今は仕方がない。
リアの体調がすぐれない内は、それもまあ頷ける。だが、その先は……? 毎日、俺がリアの飯を準備するのは腹立たしい。快復したら、色々と仕込まなくてはな。
そんな事を考えながら朝食の準備をする。
買い置きのパンを切り分けて、レタスを千切り、肉を切っておく。これでリアが起きてきたところで火を通せば、焼肉サンドの出来上がりだ。簡単に済ませると言っておきながら、朝っぱらから肉を食べると言うのは豪華だな。朝から少し重いかなとも思ったが、リアは中々食欲旺盛なようだから大丈夫だろう。
さて、後はリアを待つだけだが、中々起きてこない。
時刻もぼちぼち起床には遅すぎる頃に入り始めている。世の労働者であれば、既に仕事に従事しているであろう時間だ。主人よりも起きるのが遅いどころか、世間の常識よりも遅いというのは奴隷としてはあるまじき醜態。せっかく朝食まで準備して待ってやっているというのに、しかも俺に物を教わる立場だというのにだ。一向に起きてこないリアに怒りが芽生える。
しかし、起こしに行くのも腹が立つ。
なんで、俺がリアを起こしてやらねばならんのか。俺はあいつの従者ではない。俺は俺のやり方を貫くべきだ。俺がリアに合わせる必要は無いのだから。
決めたぞ。
この紅茶を飲みきっても起きてこないのならば、一人分の朝食を作り、買い出しに出るとしよう。そして、リアが起きてきたら、そこで説教してやればいい。よし、そうしよう。
紅茶を啜る。
だが、色々と考えていたら、味が良く分からなかった。
「良し――――!?」
がたん……っと音がした。
俺が立ち上がるのとほぼ同時、廊下の方からだ。
音の出所を確かめるべく、廊下の方へと歩いていく。
すると、階段の踊り場でリアが倒れているのが見えた。
「……おい?」
呼びかけてみるも、返事がない。
仕方がないので、駆け寄ってみる。
「……ごめ……さい。」
小さな声でリアが謝っていた。
謝罪の意味が分からない。どうしたと聞いてみても、うわごとのように謝罪を口にするだけだった。
明らかに普通ではない。
まさか魔黒病が完治していなかったのだろうか。だが、確かに治療したはずだ。それに、リアは潜伏させているだけで、発症はさせていなかった。魔黒病の症状も出ていない。魔黒病は皮膚が変色して黒くなっていく。リアの皮膚は普通のままだ。
いや、普通……か?
よく見れば、リアの白いはずの肌がいつもより赤みが強い。試しに触れてみると、体温が明らかに高い事が分かる。
これは間違いなく風邪だ。
思い当たる節はいくつかある。確かに昨日の夜もそこそこ寒かった。加えて、俺は外食の為に体調の悪いリアを外に連れ出したし、就寝前にソファで寝かせていたのも身体に障ったのだろう。
俺が朝、起きた時には気づかなかったが、相当に体調が悪かったようだ。
リアは今も苦しそうに息を吐きだして、謝罪の言葉を述べている。何をそうまで謝る必要があるのか。
「何にせよ……このままではまずいな。」
俺はリアを抱きかかえると、階段を上った。
寝室に戻ると、そこにリアを寝かせて布団をかぶせる。リアは意識が朦朧としているようで、荒い呼吸をするばかり。まさか、ここまで体調が悪いとは……。そう言えば、子供は体調を崩しやすいと聞いたことがある。
発汗の量も凄い。
さらさらだった銀髪が、今はしっとりとした手触りになって肌に張り付いている。リアの額の髪をかき分けて手を当て、自分の額と改めて比べてみるが、やはり相当熱い。
回復魔法で治せたらいいのだが、この手の病気は治せない。
どういう理屈なのかは知らないが、風邪やその他特定の病気は魔法で治癒させることができないのだ。回復魔法も未だ発展途上という事なのか、神のいたずらなのかは知らないが、不便な事である。よりにもよって、蔓延しやすい病が治せないというのは厄介だ。
……しかし、大丈夫なのだろうか?
風邪とはいえ、意識が混濁するほどにリアは苦しんでいる。そもそも、これは本当に風邪なのか? 俺は回復魔法は使えるが医者ではない。ある程度の知識はあるものの、勝手な診断を下すのは躊躇われる。
医者を呼ぶか?
だが、リアは亜人だ。カティスでは亜人は迫害の対象となっている。加えて医者は亜人に対して差別意識の強い奴が多い。医者という特権階級からくる意識なのだろうが、劣等種族である亜人を診る事をいやがるのだ。だから、診てもらえるかどうかは怪しい。
それに、俺とリアの関係は微妙だ。リアの自由市民証書は俺が持っていて、リアは俺の奴隷という話になっているが、それはあくまで俺とリアの間での取決めだ。奴隷商を通した正式な契約締結には至っていない。万が一、医者が良からぬ動きをした場合に、面倒なことになる可能性がある。
……医者はダメだな。
無用なトラブルは避けたい。リアがこんな状態だというのに、更なるトラブルを招くのはリアの命にもかかわるかもしれない。カティスの人間は、亜人が体調不良だからと言って配慮などするはずもないだろうから。
俺は一階に下りて、桶と水差しに水を入れて持ってくる。
水差しをベッドのサイドテーブルに置くと、桶の方にタオルを入れて水を絞る。それをリアの額に当ててやると、苦しそうな表情がほんの少しだけ和らいだような気がした。
後は何をすればいいのか……。
身体を拭いてやろうにも、もう少しリアが意識を取り戻してからの方が良いだろう。何か栄養のあるものを食べるにしても、それも意識を取り戻してからか……。分からん、俺は看病などした事もないし、されたことも無い。
ベッドの脇にある椅子に座って、リアを眺める。
風邪は治る病だが、冒険者にとっては恐ろしい病でもある。出先で病に倒れてしまう冒険者は後を絶たない。とりわけ新米冒険者なんかが多い。金も仲間も無い新米は、疲弊しようが体調不良であろうが生きるために依頼をこなす。その結果、病によって倒れたり、病からくる集中力低下で命を落としたりする。
まあ、ここは街中であるし、俺もついている。
リアが命を落とす事は無い……と思う。しかし、意識が混濁するほどの症状というのは、少々まずいのではないだろうか。
「よし……。」
俺はおもむろに立ち上がると、外套を羽織って外に出る。
サイドテーブルの水差しに書置きを残した。外出する旨と水分補給をしろと。
そそくさと階段を下りて、買い出しに向かった。
買い出しに行くのは当初の予定通り、追加で少し買うものが増えるくらいだ。
閑散とした表通りを抜けて、街中へと歩みを進める。
時刻は正午まであと2時間くらいといったところ。この時間であれば、どの店も開いているだろう。時間的にはちょうど良いな。
街の商店街までくると、午前中の買い物客が一段落したところだった。
この時間に来るような客は、時間と金を持て余している奴くらいだ。その証拠に、商店街を歩く人はほとんどがゆっくりとした歩調で、買い物を楽しむような様子だった。
最初に薬屋を訪れる。
キラキラした商店街の中で異彩を放つ武骨な店。木造の角ばった古風な構えの店だ。店の入り口には木製の立札に縦書きで、『漢方薬』と書かれている。これが店の名前なのだろうか。
店内に入ると、木製の棚の様なカウンターに肘をついた爺さんが、こちらを一瞥した。
いらっしゃいませと会釈する様子もない。愛想の無い店主だ。店の面構えに負けず劣らずと言ったところか。無言で、何の用だと聞かれているような気がした。
「あの、すみません……連れが風邪をひいてしまったようで、薬を探しているのですが。」
時間が惜しいので、俺の方からさっさと声をかける。
「そりゃー、本当に風邪なんかね?」
「ええ、風邪だと思います。」
感じの悪い奴だ。
こちらを訝しむような目で見てくる。商売をしているのならば、ある程度は相手にへりくだるべきだ。俺は薬を買いに来た客なのだから。
「ふん……素人判断で、勝手に診察した気になってやがる。ワシはそう言うのが嫌いだ。」
「……。」
「まあいい、ワシは薬が売れれば金になるからな。おまえさんが誤診してようが、関係ない事だ。どうせ、医者は高いから、せめて薬だけでもと思ってここにきたんだろうがな。」
何てやつだ。思ってても言うなと言いたい。
そもそも、俺は金がないから医者を呼んでいないわけじゃない。トラブルを恐れてだ。この店主の目は節穴だらけだな。
「いくらですか?」
長居はしたくない。さっさと薬を買って出よう。
俺は会話する意思を示さず、淡々と言った。
「ふん……おい、おまえさんは、なんで風邪だと思ったんだ?」
ところが、店主の方が薬を出さずに質問を投げてきた。面倒くさいな……。
「熱が出ていたので、風邪だと思いました。」
「それだけか?」
「それだけと言われても……熱が出ていて、意識が朦朧として倒れたとしか。後は汗の量も凄かったですね。」
「ふむ。おまえさん、金はちゃんと持っとるのか?」
「ありますよ、ほら。」
店主に金の詰まった袋を見せる。
結構な額が入っている。薬を買うくらい造作もない額だ。店主の一方的な質問にイライラとしながらも従順に従った。
店主は袋の中身を確認すると、一度店の奥へと消えていった。
無言のまま消えるのはやめて欲しい。せめて何か言ってから行けよ。初めてきたが、この店には2度と来たくないな。
10分ほど待たされて、店主が戻ってきた。
手には布袋が握られていた。黒い巾着袋だった。
「おそらく、こいつで良かろう。」
「これは、風邪薬ですか?」
「ああ。亜人用のな。」
―――――――――――!?
脳裏に衝撃が走る。
なんと店主が持ち出したのは亜人用の風邪薬だった。いきなりの事で、混乱して言葉が出てこない。どうすればいいだろうか。
「そんな顔をしなくても良い。別にどうもしやせん。訳ありなんだろ?」
確信を得た表情。否定したとしても意味が無さそうに思う。
そもそも、店主は亜人用の薬を持ち出してきている。ならば売るつもりがあるのだろう。ごまかすのは無意味か……。
「……どうして、分かったんですか?」
「お前さんの匂いだ。亜人の匂いがする。しかも病に侵されている匂いだな。亜人は体調の変化に敏感で、匂いである程度の健康状態を把握することが出来る。とりわけ亜人の汗は匂いの塊だ。」
「な、なるほど。」
……俺は臭いのだろうか?
リアの匂いが染み付いていると言われると何とも言えない気持ちになる。リアの匂いは嫌いではないが、染み付いているとは思いもしなかった。……俺から漂うリアの匂いは、いったいどんな匂いなのだろうか?
「それだけではないぞ。おまえさんが見せた巾着袋の金……どう見たって医者を呼べる額だ。それだけの金がありながら、わざわざ自分で薬を買いに来ると言うのは訳ありな証拠だろう。訳ありとくれば亜人なのも納得できるし、亜人であれば訳ありなのも納得できる。」
自分の迂闊な行動を反省した。
俺は亜人だと不都合があると思って、その情報を隠していたのに筒抜けになっていた。店主の粗暴な応対に苛立って、警戒を怠ってしまったのだ。
「ふん、まあ訳ありだろうと、ワシは薬が売れればそれでかまわんからな。客の事情などいちいち気にしたりはせん。」
先ほどと同じ言葉が随分と温かみを持って聞こえてくる。
不思議なものだ。俺の店主への怒りは既に霧散していた。
「すみません、ありがとうございます……でも、亜人の風邪は何か違うんですか? それに、どうして薬があるんですか?」
「質問の多い奴だな。
基本的には亜人と人族の風邪は同じだが、風邪によって欠乏する栄養素が異なると言ったところだ。亜人に人族の薬を服用させても、効果が薄いこともある。とりわけ、風邪がそうだな。
あと、亜人の薬がある理由は、察しがつくんじゃないのかね。亜人ってのは貴族御用達の奴隷だろう? 表に堂々とは置けないが、需要は結構あるのだ。」
「なるほど……」
亜人と人間で薬に違いがあるのは知らなかった。同じような症状が出ているから対処も同じだと思っていたが、違う事もあるらしい。
それに、亜人は金持ちの牲奴隷として人気があるのはカティスでは常識だった。見目麗しい若い亜人の女は結構な高値で取引されている。となれば、病気になったから使い捨てという事も無く、治療をするのもうなずける。
最初は不快であったが、結果的には色々と世話になった。
金を払い、店主に頭を下げて店を出ようとすると――――。
「待て。」
店主に呼び止められた。
まだ何かあるのだろうか? 感謝はするが正直とっつきづらいので、そろそろおいとましたい。
「なんですか?」
「亜人の風邪について教えてやる。病と言うものは薬だけでは治らん。適切な環境で安静にし、栄養のあるものを食わねば、薬は効果を成さん。見たところお前さんは心得がなさそうなのでな。」
予想以上に良い人だった。
願っても無い申し出を二つ返事でお願いする。正直、家にいてもどうして良いのか分からずに飛び出してきた節はあるのだから、渡りに船だ
店主から色々と教わった。
無理に熱を下げる必要は無いが、意識が混濁するほどであれば熱を下げる必要があるとか。水分補給をこまめにして、室内には濡れタオルを干すなどして乾燥をふせぐだとか。後は消化の良い食べ物や、風邪に効く食べ物などなど。
ぶっきらぼうな言葉遣いこそ変わらないが、とても丁寧に教えてもらった。
ここまで丁寧に教えてもらうと、逆に疑問がわいてくる。
「どうして、そこまで丁寧に教えてくださるんですか?」
店主は少し面食らった顔をして、照れた顔を見せる。
「……ふん、まあ、その……なんだ、おまえさんが随分と亜人を大事にしているようだったのでな。」
「……え?」
「その染み付いた汗の匂いは、おまえさんが近くで介抱した証だろう。それに、亜人の為にこうして薬を買いに来ておる。カティスの人間には珍しい事だ。ワシはそういう慈愛に満ちた行動が好きだ。」
「……はあ。」
「この仕事をしておると、金持ち相手がどうしても多くてな。辟易しておったのだ。
貧乏人も来店することはあるが、さすがにワシも商売であるからして、金の無い者に薬を譲ることはできん。お前さんのように愛ある客を見ると嬉しくなる。」
慈愛だ、愛だと良い年した爺さんが口走ると寒気がした。
良い人ではあるし感謝はするが、やはりどうにも苦手だ。
愛……か。
俺は何のために薬を買いに来たのだろうか。もちろん、リアの治療の為ではあるが、それがリアへの愛だと言われると肯定しかねる。俺とリアはそういう関係ではないし、リアは小さな子供で色恋沙汰の対象ではない。俺が何故、薬を買いに来たのかと言えば、リアに奴隷としての責務を果たさせるため……ということになるのか。
感謝しつつも、もやもやとした気持ちで薬屋をあとにした。
その後は、薬屋の言葉に従って必要なモノを買いそろえ、足早に帰宅した。
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