3 猿芝居を続けましょう
それから毎晩、ガーランは礼拝堂の壁をよじ登った。
女はいつも、開口一番「いるの?」と囁いた。
ガーランが無言でいると、女はこれまでどおり呪詛を口にし始めたので、彼は毎回「いるよ」と答えなければならなくなった。
そうすると、女はわざとらしい溜め息とともに、黙り込む。
そうして、あまりの静けさにガーランがうっかり居眠りをしてしまいそうになる頃、女は「精霊」に話しかけてくるのだ。
あなたは誰、どこにいるの、どこからきたの?
俺は精霊で、ずっとここにいる。アンタこそどこから来たんだ?
そんな問答を懲りもせずに繰り返しては、ヨタカの声とともに女は姿を消すのだった。
「また昨日も夜勤を交代してもらったらしいな」
大あくびとともに警備隊本部に登庁したガーランは、訓練場の扉の前で、不機嫌そうな声に呼び止められた。しぶしぶ振り返れば、えんじの上衣をビシッと着こなした切れ長の目の青年が、いかにも文句を言いたげな表情で階段を下りてくる。彼こそが、ルドス警備隊隊長その人だ。
「夜勤だけじゃなくて、ちゃんと非番も一くくりにして、交代してますから」
文句は言わせませんよ、と唇を尖らせるガーランに、隊長は、「そういうことが言いたいんじゃない」と肩を落とした。
「いいかげん休みを入れないと、身体を壊すぞ」
「でも、それじゃあ夜勤も入れなきゃならなくなるでしょ」
「当たり前だ」
隊長に真正面から顔を覗き込まれて、ガーランは思わず目を逸らした。しまった、と即座に視線を戻すも、隊長の目つきは険しくなるばかりだ。
「ガーラン、お前、何を企んでいる?」
「何も企んでいませんて。人聞きの悪い」
ガーランはそう苦笑を浮かべてから、大きく息をついた。
「仔ヤギがね、懐かなくって」
「は?」
「群れに帰ってくれないんスよ」
無言で眉をひそめる隊長に、ガーランは肩をすくめてみせた。
「そんなわけなんで、もう少し俺の好きにさせてもらえませんかね」
そうして更に五日が過ぎた。
ガーランと女は、お互いの正体は棚に上げたまま、世間話をぽつりぽつりと交わすようになっていた。
ガーランは、女が良家の娘であると推理した。他愛ない会話にさりげなく混ぜ込んだ
初等学校だけでは到底得られない博識さ。それは、彼女がいわゆる「上流階級」に属する人間だということを示しているといえよう。そう思って眼窓から影の仕草を見れば、なるほど、彼女には確かにそこらの町女とは違う、優雅さや気品が感じられるような気がした。
裕福な家のお嬢さんが、深夜お屋敷を抜け出してまで呪いたい相手とは。ガーランの興味は、日を重ねるごとにますます深みを増していった。
その答えは、何の前触れもなくもたらされた。
ふと途切れた会話の糸をどうやって繋ぎ直そうかガーランが考えていると、彼女がぼそりと呟いたのだ。まるで今朝見た夢の内容でも語るかのように、事も無げに。
「姉が、死んだの」
それは、彼女がガーランと最初に言葉を交わした時に口にした台詞と同じだった。
ガーランは黙って続きを待った。
「身分違いの恋人を父に殺され、断崖絶壁から身を投げたわ」
あまりにも衝撃的な告白に、ガーランは言葉もなく奈落を見つめる。
「姉は、父に仕えていた下級騎士と恋に落ち、将来を約束し合った。でも、父はそれに猛反対した。何故なら、父はさる有力者に、姉を嫁がせるつもりだったから」
深呼吸一つ、なんとかガーランは平静を取り戻した。
「政略結婚、ってやつか」
「お相手は、六十を越えてまだ独り身の男で、良からぬ性癖が噂される人物だった。まあ、絶望する姉の気持ちも解らないでもないわね」
淡々と紡がれる言葉からは、一切の感情が読み取れなかった。
「しかし、いくら縁談の邪魔になるからって、殺す、ってのは酷過ぎるぞ。どこかに訴えるとかできなかったのか? いくらお偉いさんでも、実の娘の告発なら……」
「枷が無ければ、ね」
彼女の声が、更に一段低くなった。
「『お前が余計なことをすれば、妹を殺す』……父はそう姉を脅したのよ。
母は早くに亡くなり、私達はたった二人だけの姉妹だった。だから……」
なんて腐れ親父だ、とガーランはこぶしを握り締めた。そんな奴なんかとっとと見限って、姉妹で家を出てしまえば良かったのに。そう考えかけたガーランだったが、即座に「無理か」と思い直す。
世間知らずの細腕の娘二人では、とても世の荒波を乗り越えてはいけないだろう。たちまち身を持ち崩すか、追っ手に捕まり連れ戻されるか。こうやって夜な夜な恨み言を神にぶつけるのですら、彼女にとっては精一杯の冒険のはずだ。
「妹を守りたい。でも、ヒヒジジイと一緒にはなりたくない。それで自ら……、ってことか」と、そこでガーランはあることに思い当たった。「って、まさか、アンタが今度結婚する相手って……」
「そうよ」
なんだか急にやりきれなくなって、ガーランは大きく息を吐いた。
「で、アンタは、夜な夜な父親を呪い続けている、ってわけか」
「違うわ」
刃物のような声音が、辺りの空気を両断する。
「私が呪っているのは、姉よ」
彼女の言わんとしていることが理解できずに、ガーランはおずおずと問いかけた。
「でも、お姉さんは、亡くなったんじゃ……」
「ええ、あの崖から落ちたら、命はないでしょうね」
冷笑とともに彼女は言い放つ。
死者を呪う、ということの重さに気づいたガーランの背筋を、
――腑に落ちねえ。
夜道を歩きながらガーランは独りごちた。とはいえ、実際のところ何が腑に落ちないのか自分でもよく分からない。おのれの頭が悪いことを恨めしく思いつつ、ガーランは今夜も日課をこなす。
「また来たのか」
「あなたもね」
「俺は夜風の精霊だからな」
すっかり細くなった月の光が、頼りなげに床を照らしている。
雄弁だった昨日が嘘のように、彼女はじっと黙りこくっていた。
『私を身代わりにして、自分は常世でのうのうと暮らしているなんて、許せない』
昨夜、立ち去り際に彼女が残した言葉を、ガーランは反芻していた。
八つ当たり以外の何ものでもない子供じみた捨て台詞を聞いて、ガーランは驚くと同時に首をかしげた。これまでのやり取りから想像していた彼女の人物像と、ひどくかけ離れた印象があったからだ。
普段の会話で窺える彼女は、とても聡明だった。ガーランの小芝居に対する反応一つとっても、愚かな小娘という像からはほど遠い。
それが、いきなりのこの台詞だ。そうでなくとも、もやもやとはっきりしない「何か」が彼女の姿を霞ませている気がして仕方がないのに。ガーランは知らず唇を噛んだ。
――姉さん、か……。
兄弟のいないガーランには、それがどのような存在であるのか今一つ見当がつかない。なんとかして彼女の思考を辿れないか、と頭をひねるガーランの脳裏に、先日、同僚の妹が忘れ物を届けに本部にやってきた時のことが浮かび上がってきた。兄を容赦なく言い負かす妹を見て、ガーランは自分に妹がいないことを神に感謝しつつも、じゃれあう二人をどこか羨ましく思ったものだった。
――ああそうか、甘えているのか。
意識を階下に戻したガーランは、何となく納得した。きっと、彼女達は仲の良い姉妹だったんだろう。姉が亡くなってしまった今も、彼女は姉に甘えにここにやって来ているのだ。「馬鹿なこと言わないの」との叱責を求めて。
こうやって人目につかない所で羽を伸ばし、そうしてまた朝が来れば、たった独りで理不尽な運命と闘うのだ……。
――もしかしなくても、俺、お邪魔虫なんだな。
悪いことしたなあ、とガーランが頭を掻いていると、久方ぶりに彼女が話しかけてきた。
「どうして、毎晩邪魔をするの」
痛いところを突かれて、ガーランは密かに苦笑を漏らした。潮時か、と。
ガーランはゆっくりと深呼吸をした。それから、腹に力を込めた。
「アンタみたいないい女に、呪いの言葉は似合わない」
「何も知らないくせに」
あからさまに鼻で嗤う気配が伝わってくる。
もう一度ガーランは息を整えた。
「いいや、知ってるさ」
面と向かっては、とてもこんな台詞は言えないからな。そう心の中で呟いて、ガーランは胸腔一杯に空気を吸い込んだ。
「アンタが、しっかりと背筋を伸ばして、惚れ惚れするほど真っ直ぐに立ってるってことを」
階下で、息を呑む気配がした。
再び、沈黙が辺りを支配する。
さて、猿芝居の種明かしといこうか、と、ガーランが腰を上げた時、遠くから木が軋むような音が聞こえてきた。
ヨタカの声だった。
「星送りが始まるわね」
ぽつり、と彼女が呟いた。
星送りとは、毎年この季節に行われる追悼と慰霊の祭りのことだ。新月の夜から三日間、人々は死者を悼んで川におふだを流す。太古の昔から続く夏の情景だ。
彼女は、どんな思いで姉を見送るのだろうか。唇を噛み締めるガーランの耳に、いつになくしおらしい声が飛び込んできた。
「毎晩、こんな馬鹿な女の話に付き合ってくれて、ありがとう」
不意打ちを喰らい言葉に詰まりながらも、ガーランはなんとか声を絞り出した。
「いつ、なんだ? 結婚式は」
「星送りの祭りが終わったら」
「って! もう五日もないじゃねえか!」
礼拝堂内に、ガーランの悲鳴が何度も反響する。
微かに、ほんの微かに、彼女が笑った。
「さようなら、精霊さん。今まで楽しかったわ」
囁きが、夜風とともにガーランの頬を撫でる。
そして、扉が開く音。
「待てよ!」
そう叫ぶや否や、ガーランは屋根の梯子に飛びついた。何度も足を踏み外しそうになりながら、二階の回廊に下りる。階段を駆けくだり、扉を押し開き、礼拝堂の表へ飛び出した。
見渡す限り動くものは何もない、寝静まった世界に、ただヨタカの鳴き声だけが虚しくこだましていた。
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