2 屋根の上にひそみましょう

 

 

 

 次の日、夜半過ぎ。準夜勤を終え帰途についたガーランは、ふと、教会に寄ってみようと思い立った。

 昨夜は結局、ガーランが呆然としている間に、呪詛の主はさっさと礼拝堂を退出してしまったようだった。意を決したガーランが屋根の梯子をくだり、礼拝堂の二階の回廊に降り立った時には、辺りには人の子はおろかネズミ一匹見当たらなかったのだ。

 ――あんな忌まわしい祈りを神に捧げる者がいるとはな。

 他人の不幸を神に願うなど、果たして許されることなのだろうか。ガーランは眉を寄せた。

 呪いは、呪った者に返ってくる。彼は子供の頃に何度もそう言い聞かされ育ってきた。そして、今でもそれは真理だと思っている。

 もっとも、呪いは勿論のこと祈りにしても、呪文や印のちからによって恩恵を賜る「癒やしの術」と違い、神がそれらを漏れなく拾い上げてくださるかといえば決してそういうわけではない。だが、それでも人は神に祈り続けてきたし、これからも祈らずにはおられないだろう。人々にとって神という存在は、「心の支え」そのものに他ならないのだ。

 そういえば、と、ガーランは苦笑を浮かべた。教会は当然として、鎮守の大木と呼ばれている楡の木や、天高くそびえる霊峰相手にも、「良縁がありますように」だの「逃げた羊が無事帰ってきますように」だの、皆好き勝手に祈っているな、と。神様も、管轄外の仕事を請け負った場合はそれぞれの担当の神様に申し送ったりするのだろうか、などと馬鹿なことを考えてみる。

 そうこうしているうちに、ガーランは東の教会に辿り着いた。簡素な門をくぐり抜け、年季の入った石畳を奥へと進む。灯りこそ灯されていないが、祈りに訪れる者のために礼拝堂は夜中も施錠されることはない。盗まれて困る物など何もないからな、と豪胆に笑う助祭長の顔を思い浮かべながら、ガーランは礼拝堂へ向かった。

 と、暗闇の中、前方でひらりと何かがひるがえった。

 次いで、静かに扉が閉まる音。

 ガーランは口をきつく引き結んだ。そして、今度は気配を殺して歩き始めた。正面にある、先ほど何者かが入ったと思われる扉を横目で見て、礼拝堂の側面へ回り込む。

 例の眼窓の真下、祭壇のある祈りの場は建物の一番奥まった所にある。その場所へ少しでも近づくべく、ガーランは壁際を這い進んだ。植栽を避けながら、側壁に並ぶ腰高窓の下部に隠れるようにして。

 そろそろか、と足を止めたガーランの耳が、遠い声を捉えた。

「何卒、愚か者に報いを」

 暗がりをぬって聞こえてきたその声は、ともすれば風の音にかき消されてしまいそうなほど小さく、だが、決して弱々しくはなかった。並々ならぬ思いを込めて、静かに紡がれる、闇の祈り……。

 ――意外と若そうだな。

 紡がれる言葉の内容とは裏腹に、凜とした美しさすら感じられる、声。俄然興味が湧いてきたガーランは、声の主の姿を求めてそっと身を起こした。窓の下辺に手をかけて、そろりそろりと頭を上げる……。

 体勢を変えようとした拍子に、ガーランの靴が小枝を踏んだ。枝の折れる音が、夜のしじまにやけに大きく響き渡る。

 しまった、とガーランが思う間もなく、礼拝堂の中を足音が走り去っていった。慌ててガーランも立ち上がり、建物の表側へと向かう。

 木の根に何度も躓きながら植え込みを抜け、なんとか礼拝堂の正面へ出たガーランを待ち受けていたのは、人っ子一人いない静まり返った前庭と、……微かに残る甘い花の香りだけだった。

 

 

 

 翌日、準夜勤二日目。同じく準夜勤だった警備隊隊長の、「飲みに行かないか」との誘いを断って、ガーランはまたも教会へ向かった。どうしても「彼女」のことが気になったからだ。

 この世知辛い世の中、ガーランだって人を呪ってやりたくなったことはこれまでに何度もある。「ヘソ噛んで死ね」程度の悪態なら、正直なところ日常茶飯事だ。ヘソではすまない鬱憤について、酒場でくだをまくことも珍しくもなんともない。

 昨夜の彼女にしても、ああやって呪詛を声にして吐き出して、心の安寧を保っているのだろう。呪いの言葉を神に聞かせるのはどうかと思うが、独りで恨みつらみを抱え込むよりは、ずっといい。

 ――耐えて、耐えて、その挙げ句、限界に達して、取り返しのつかないことになるよりは……。

 時を巻き戻すことは、誰にもできないのだ。そう、神にすらも。ガーランは苦虫を噛み潰したような顔で、夜道を急いだ。

 

 昨日よりも少しだけ早い時間に教会に着いたガーランは、迷うことなく礼拝堂に入り込んだ。勝手知ったる何とやら、入り口脇の狭い階段を登り、二階の回廊から丸屋根へと出る。件の人物を尖塔で待ち伏せする作戦だ。

 果たして、ガーランが眼窓の傍に腰を下ろすのとほぼ同時に、階下から足音が聞こえてきた。

 作戦成功、と口角を上げたガーランだったが、下を覗いてがっくりと肩を落とした。一昨日と同様、月明かりはその人物を照らしきることができず、ただ何者かの気配だけが闇の中にぼんやりと感じられるばかりだったのだ。これでは、下の彼女がどこの誰だか判別のしようがない。

「卑怯者に、相応の報いを」

 凜とした声が礼拝堂の壁を駆け上がり、眼窓を抜けて、ガーランの耳元をそっとくすぐる。

 なすすべもなく、ガーランは唇を噛んだ。

 

 

 

 次の日、ガーランは夜勤だった。

 夜警に出ている間も、ガーランは礼拝堂へ、あの声の主へと思いをめぐらせていた。

 ――今日も祈りに……、いや、呪いに行っているのだろうか。

 愚痴をこぼす相手として、神は打ってつけの存在かもしれない。尖塔に誰かさんが隠れているようなことでもない限り、その思いが他人に漏れることはないのだから。

 だが、もしも、それが単なる恨み節などではなく、決意表明だったらば……。

 ガーランは、ごくりと唾を呑み込んだ。

 そっと山の方角を振り返れば、月明かりの中、家々の屋根の向こうに切り立った崖が見える。大昔に大きな鬼が腰掛けに使っていた、と謂われている「居敷きの崖」だ。

 九年前、ガーランの目の前で、一人の娘があの崖から身を投げた。

 その娘は、ガーランもよく知っている娘だった。実家の裏に住んでいた、一つ年下の、いつもガーラン達悪ガキどもから少し離れたところで一人静かに本を読んでいた、内気な娘。

 

 それは、ガーランが警備隊員になって一年目の春のことだった。まだ実家住まいだったガーランが、裏庭で剣の素振りをしていた時、珍しくも彼女のほうから木柵ごしに彼に問いかけてきたのだ。ねえ、あなたは人を斬ったことがあるの? と。

 答えを口にするのが躊躇われてガーランが黙ったままでいると、彼女は小さく笑った。笑って、一言を呟いた。

「あのひとを、ころしてやりたい」

 彼女が最近、婚約までしていた男に捨てられたということを、ガーランは人づてに聞いていた。なんでも、相手の男が他の女の財産に目がくらみ、婚礼を目前にあっさり鞍替えしたらしい。

 ガーランは、彼女に何と言えば良いのか分からなかった。分からなかったから、ただ、おざなりに言葉を返した。

「そんな物騒なこと、言うなよ」

 しばしの沈黙ののち、彼女はそっと目を伏せた。そうね、と囁くように言葉を残して、彼女は去っていった。

 

 そして一週間後、ガーランは彼女と対峙する。捕り手と下手人という立場で、崖の上で。

 

 あの時、もっと親身になって彼女の話を聞いていれば。ガーランのこぶしが、固く握り締められる。

 ――もう二度と、あんな失態は繰り返さない。

 ガーランは、昨夜の礼拝堂の声を思い返し、唇を引き結んだ。あの、痛々しいほどに張り詰めた声は、九年前の彼女と同じ、覚悟を決めた者特有のものだ、と。

 ――いい声なんだけどな……。

 他人を呪うことなどやめて、いっそ妙なる調べを聞かせてくれたら。そう溜め息をついたガーランの脳裏に、ふっと閃くものがあった。

「……まあ、駄目でもともと、ってな」

 ガーランは小さく頷くと、にぃっと口のを上げた。

 

 

 

 夜勤明けの休日。昼間にたっぷりと身体を休めたガーランは、夜を待って教会を訪れた。

 二日前と同様、尖塔に上がって待ち構えていると、またしても夜半になって女がやってきた。

「神よ。どうか我が願いを聞き届けたまえ」

 どんなに目を凝らそうと、月の光なくしては女の姿は闇に沈んだきりだ。

 だが、それは向こうにとっても同じこと。ガーランは二度三度と深呼吸を繰り返した。そう、下にいる彼女からも、暗い尖塔に潜むガーランの姿を見ることはできないはず。

「どうか、苦しみを与えたまえ」

 ならば、上手くやれば、彼女が一体どういう問題を抱えているのか聞き出すことができるかもしれない。たとえ力にはなれなくとも、彼女の憂さを多少なりとも晴らすことができれば……。

 ガーランは、大きく息を吸い込むと、下腹に力を入れた。

「おのれの浅はかな行いで、傷つけられた者がいることを忘れぬよう、生涯消えぬ苦しみを」

「随分深い恨みなんだな」

 思いきってガーランが階下に放った声は、壁や床に反響しながら、暗闇の中へ吸い込まれていく。

 女が、黙り込んだ。

 女の出方を窺おうと、ガーランもまた口をつぐんだ。

 

 ――我慢比べか。

 中庭の木々が夜風に囁きを交わしている。

 沈黙を守り続ける女に、ガーランも無言で対抗した。

 と、不意に、階下の気配が揺らいだ。

 礼拝堂を吹き抜ける風の音が、ガーランの五感を惑わせる……。

 

 風がやみ、再び静寂が訪れた。

 ガーランはそうっと唾を呑み込んだ。全神経を集中させて、下の様子を探る。

 ――逃げられたか。

 小さく舌打ちして、ガーランは腰を上げた。溜め息一つ、礼拝堂に下りようと梯子へ向かう。

 その時、山のほうで突然ヨタカが鳴きだし、ガーランはぎょっとして動きを止めた。

 キョキョキョキョ、キョキョキョキョ。

 甲高い鳥の鳴き声が、小刻みに何度も夜陰を震わせる。脅かすなよ、とガーランが肩を落とした直後、軽い足音が眼窓の下から聞こえてきた。

 足音はまたたく間に遠ざかり、扉が開いて、閉じて、そうして今度こそ間違いなく真の静寂が世界を包み込む。

 危なかった、と、ガーランは思わず胸を撫で下ろした。

 

 

 

 次の日、準夜勤が終わると、またまたガーランは教会に直行した。

 今度は念のため礼拝堂の中を通らずに、暗闇に乗じて外から尖塔を目指すことにした。抜かりなく持参した背負い袋に靴を放り込み、木陰の死角を選んで石積みの外壁に挑みかかる。

 実は、ガーランが礼拝堂の壁に登るのはこれが初めてではない。去年も助祭長に庇の修理を頼まれて、壁から屋根へと登らされている。ただ、その時は助祭長が縄梯子を用意してくれていた。登攀とうはん訓練はガーランが最も苦手とする種目であったが、真面目に励んでおいて正解だったな、と彼は満足そうに自らに頷いた。

 ――迷える仔ヤギを群れに戻すのだ。どこから入ろうが、神様も大目にみてくれるに決まってる。

 月の光に助けられながら、ガーランはなんとか尖塔に辿り着いた。

 

 いつもどおりに眼窓の傍らに腰を落ち着け、息を殺して、ガーランは待ち続けた。

 半時が過ぎる頃、階下に変化が現れた。突然、隅の暗がりで何者かの気配が動いたのだ。

 ガーランは知らず息を呑んだ。

 扉は開かれなかった。つまり、彼女もまたガーラン同様、下で待ち伏せをしていたのだ。念には念を入れて良かった、と胸を撫で下ろしてから、ガーランは上唇を舌で湿した。

 階下では小柄な影が一つ、会衆席の隅々までを見回っていた。そのまま月明かりの中に留まってくれ、とのガーランの願いも虚しく、影は最後に窓の外を確認したのち定位置に戻る。

 そうして、再び辺りは静謐に満たされた。

 さて、と、ガーランは顎をさすった。物事を先へと進めるためにも、彼女から情報を引き出さなくてはならない。

 ――野郎相手なら、話は簡単なんだがなぁ。

 こと女性相手ならば、「女たらし」の称号も輝かしい我らが隊長の真似をするのがいいだろう、そう結論づけてガーランは居住まいを正した。お定まりの呪詛を吐き出し始めた女の声を遮るようにして、眼窓から声を投げる。

「貴女のような美しい方に、かような呪いの言葉は似合いますまい」

 隊長の物真似にかけては隊内随一、とガーランは自負している。それに、これはガーランの本心からの言葉だった。もっとも、根拠など何もないのだが。

「美しい?」

 一呼吸置いて、鼻で嗤う声が響いてきた。対話成立、作戦成功だ。

「ふざけないで。あなたは誰? 昨日もいたわね。どこに隠れているの?」

 強気なところも悪くない。ガーランは満足そうに口角を引き上げた。さて何と名乗ったものか、しばし思案してから、ガーランはその瞳を悪戯っぽく輝かせた。

「私は精霊です。夜風の精霊です」

 さしものガーランも、神を騙るのはあまりにも畏れ多いと考えたのだ。

 一方、女は逃げるでなしに、靴音も高く説法台や祭壇の裏を見て回っているようだった。残響のせいで、ガーランの声がどこから聞こえてくるのか判らないのだろう。そもそも、自分の声がこんな高い所にまで届いているなど夢にも思っていないに違いない。

「隠れていないで、出てきなさい」

 ――意外と肝が据わっているな。

 ガーランは思わず笑みを浮かべた。気の強い女は隊長の鬼門だからな、などと勝手なことを胸の中で呟いてから、今度は心持ちいかめしい顔で「どこにも隠れてなどおらぬ」と助祭長の口調を真似てみる。

「嘘」

 冷たく一言を言い放ち、女は今度は窓を改め始めた、それから祭壇の横手にある通用口を開く。

 まさか、このまま立ち去るつもりだろうか。ガーランは猿真似をかなぐり捨てて女を呼び止めた。

「だから、どこにも隠れてなんかいないって!」

「まさか」

「現に、どこにもいなかっただろ?」

「でも、精霊がヒトの言葉を話すなんて……」

 精霊もまた、神と同様にヒトの理に縛られぬ存在である。だが、そんなことはガーランの知ったことではない。

「精霊だって、たまには人恋しくならぁな」

「……ふうん」

 物凄く不審そうな声が下から漂ってきた。が、ガーランは気にせず、ここぞとばかりに質問を繰り出す。

「で、この間から何をそんなに呪っているんだ?」

 女が、大きな大きな溜め息をついた。ややあって、投げやりな口調がそのあとを継ぐ。

「今度、結婚させられるのよ……」

「させられる? 好きでもないのに、ってことか?」

 また、溜め息が聞こえた。

 そして沈黙。

 やがて、いつもの感情を押し殺した声が真っ直ぐ眼窓を突き抜けてきた。

「姉がいたの」

 唐突な話題転換に、ガーランは目をしばたたかせる。

「『いる』じゃなくて『いた』?」

「……死んだわ」

 吐き捨てるように発せられたその言葉を追いかけるようにして、どこかでヨタカが鳴き始めた。

 夜気を打ち震わせる鳥の声に、つい気を取られたガーランが我に返った時には、女の気配はすっかり消え失せてしまっていた。

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