第二回バス転落事故検討会(3)


 それは第一回検討会で調べた新聞の情報と矛盾する点はなかった。しかしそれでも、バスの暴走を納得させるだけの推論ではないように僕には思われた。警察の発表に無理やり合わせるようにして、バスの運転手の操作ミスが採用されたにすぎないのではないか。

「表面的には警察発表の焼き直しにすぎない。でもこの中で、佐倉くんが今言ったことを裏付けるデータがある」

 そういって彼女は自分のレジュメの一部に赤いペンで丸をつけた。

「一ページ目の、【道路管理用カメラの映像】のところを見て。事故現場手前約八五〇メートルのカメラというのは、ネットには上がっていなかった。でも、これを読むとこのバスはカーブに入る手前でブレーキランプが点灯していたことが明記されている」

 やはりこのドライバーは、基本的な運転操作を理解し、実践している方のようだった。

「そして事故現場手前約三〇〇メートル手前のカメラのところ、これはさっきみんなで見た映像のことだけど、ここでも光度の増加に言及がある。しかし不自然にも、その理由については語られていなかった。というよりも、説明ができなかったからあえてそれを避けたと見える。だけど、わたしはそれをブレーキランプだと思う。なぜならこのドライバーは、カーブに入る直前にブレーキを踏む習慣があったから。それに光度の増加はそれでしか説明がつかないから」

 僕は脳内で位置関係を整理する。事故現場から峠までは約一キロ。つまり峠からはずっと下り勾配となっている。バスはそこから一貫して減速していなかった。しかし、事故現場手前八五〇メートル地点のカメラと、同じく三〇〇メートル手前のカメラでは、バスがブレーキを踏んでいる。どう考えてもおかしい。

「問題は、なんでブレーキを踏んだのに、こんなに激しい事故が起こってしまったのかだ」と僕は言った。「この資料からも、減速した形跡はないことがわかる。【運航記録計の記録状況】の箇所の記述で、『峠を越えるあたりでは時速は四十キロほどであったが、その後走行速度は急激に上昇し、一貫して減速することなく加速をしながら速度が九十五キロに達した後、急激に減速して停止している』とあるからね。そして、フットブレーキを踏んでいたことも間違いがないと思う。これが示しているのは――」

「ブレーキの故障」と森さんが言い切った。「それしかない」

 やはりそうなるのか。

「そこでわたしは、ブレーキ周りの車体検証の結果を確認した。メーカーが自分たちの縄張りで行わせた車体検証だけどね。それでも新聞が『異常なし』と一言で片付けた割には、さまざまな問題があるように見えた」

森さんは再び手元の資料に目を向けた。

「二ページ目を開いて。まずは前輪用のエアタンク。穴が開いていて、エアは残っていなかった」資料に目を落としながら森さんが言った。「だけどこれは多分、事故の衝撃で穴が空いたんだと思う。事故の前にタンクに穴が空いてエア圧が下がっていたら、運転席から大きな警報音が鳴る仕組みになっていた。でも今回はバスの乗客の中で、その音を聞いた者は一人もいなかった」

 となるとブレーキが効かなかった理由は他に何があるだろう。

「次に床下部の広い範囲の腐食。しかし『ブレーキペダルを手動で動かしたところ、正常に作動した』とあるから、これも直接的な原因とは考えられない」

「じゃあ、他にどんな原因が考えられるんだろう」と糸山が唸った。

「わたしもそれがずっとわからなかった。でもある出来事を思い出して、それがヒントになったの」

「ある出来事?」と僕が訊ねる。

「この前の小学校での公演のこと。ドライアイスの冷気の影響でホースの中の水が凍って、それで水が出なくなっちゃうアクシデントがあったでしょ?」

「まさか――」

「そう。エアーブレーキは車内に張り巡らされた配管を伝って、ブレーキペダルからの力を伝えている。その配管にあった水分が、真冬の夜中の峠の凍てつく空気によって凍らされたとしたら――」

「でも水分なんてどこにあったの?」と星原さんが話の途中で食い付いた。「このレポートにだって、当時の天候は晴れていて、路面には雪もなかったって書いているじゃない」

「水分ならあったよ」と森さんは言った。「空気を圧縮した時には、その副産物として凝水が発生するの。そのためエアタンクのなかにはエアドライヤーというものがあって、中の空気を乾燥させるものがあるんだけれど、それも完全に水分を取り除けるわけではない。特に古いタイプのものはね」

「それで峠を下るときになって急にブレーキが効かなくなった理由にも説明がつく。山道を登るにつれて気温が下がり、上り道の間ずっと使われなかったブレーキの配管の中で、ゆっくりと水分が凍結した。そしてあの下り道に入った時、バスはフットブレーキを踏んだのにも関わらず、速度を落とすことができなかった」

「慌ててシフトを落とそうとしたが、その時すでにスピードが出過ぎてしまっていた。そのためにギアチェンジにエラーがかかってしまい、ギアはニュートラルに入った」と僕はその後を引き取った。

 そしてバスは時速九十キロでガードレールを突き破り、崖の下で横倒しになって停止したのだ。それが、僕たちの辿り着いた答えだった。

「運転手も怖い思いをしただろうね」と糸山が言った。「ブレーキが効かない状況で、なんとかしようとハンドルを切り、シフトレバーを操作してさ。でも、どうせならもっと手前でコースアウトして、壁かなんかにぶつかって止まっていればね」

 それは無理な話だと、糸山自身も思っているだろう。

「もし事故現場より手前のカーブでバスが転落していたら、バスに乗っていた方は一名たりとも助からなかったよ」と森さんは一時停止されたタブレットの映像を見つめながら言った。「なぜならそこは軽井沢橋の上だったから」

 背筋に冷たいものが走った。だが、そんな運転手は今や日本中で大量殺人犯として歴史に名を残してしまっている。マスメディアに踊らされた多くの国民が、彼を誹謗中傷した。

「誰もこれをおかしいと思わなかったのか?」と糸山が言った。「俺たちでも一週間あれば調べられたんだぞ。警察も検察も国交省も気づかなかったのか?」

「これはあくまで想像だけど」と前置きしてから僕は言った。「警察は光岸から賄賂を受け取っていたのかもしれない。一度は警察署に保管されていた事故車両がわざわざご親切にバスメーカーまで運ばれたのは不自然で、そうする理由はそれくらいしか思い浮かばない。国交省も事なかれ主義で変に波風を立てたくなかったからそうした。警察や検察と揉めたりするリスクは無駄に背負いたくなかったんだろう」

「じゃあ弁護士は? 裁判はもう一部で始まっているんだろ?」

「彼らは非常にお金にがめつい。そして自分のキャリアに傷がつくことを極端に恐れる。また警察と検察によって、誰がこの事故の悪者であるかはすでに決まっていて、それをひっくり返すことはできない、あるいは不毛だと判断したのだろう」

「メディアは?」

「メディアはメディアで、報道できない理由があったんだ」と僕は言った。

「理由?」

 僕は答えなかった。

「とにかく、運転手が悪かろうとバスメーカーが悪かろうと、美月はちっとも悪くないんだからね」と星原さんが強引に結論づけた。

 それはもちろんだ。たとえ彼女がお兄さんをそのバスツアーに乗るように提案していたとしても、それは殺したことにはならない。

 だがそう言われてもなお、彼女の表情にはまだどこかに自分を責めているような気配があった。

「柿田さんに会いに行きたい」僕はみんなの前で立ち上がった。「そこで今の僕たちの推理を聞いてもらいたい。何かまだ僕らは見落としているのかもしれない。柿田さんは何かそれを知っているのかもしれない」

「でも、会ってくれるかな。わざわざこんな学生と」と糸山が不安そうな顔をする。

「わからない。でも森さんが取材について来てくれれば、可能性はあるかもしれない」

「わたし?」

 僕は少し言うのを躊躇った。だが、結局のところそれを言わないという選択肢はなかった。

「柿田さんは多分あの事件に強い関心を持っていた。長年勤めた新聞社での最後の記事に、それを選んだくらいに。そして森さんは、その事故の遺族だ」

 つまりそれは被害者遺族という彼女の情報的価値を出汁に、柿田さんと会う機会を作ろうということに他ならない。お兄さんの個人情報をばら撒き、葬式にまで取材にやってきた報道関係者に嫌悪感を持っている彼女にそんな提案を持ちかければ、どんな蔑みの言葉が返ってくるかわからない。

 だが、彼女の返答は予想外のものだった。

「いいよ。わたしが柿田さんに会う口実に使えるのなら自由に使って」

「いいの? 本当に?」

「佐倉くんは信用しているんでしょう? 柿田さんのことを」

 僕は頷いた。

「じゃあわたしも信用しようと思う。佐倉くんの信用するジャーナリストのことを」

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