第64話 モクテル(田中様の視点)

 初夏の風が書物のページを撫でる。

 エメラルドグリーンの海に、真っ白な砂浜。

 フリルのたっぷりと付いたパラソルに、ハイビスカスの花の飾られたパイナップルベースのモクテル。

 白い翼の鳥達が遠くに飛んでいる。

 絵画のような、シドニーの海辺での光景。


 クラシックが鳴り響く、スマートフォンの着信。

 麗さんだわ。

 電波があれば誰とでも繋がれるなんて、便利なようで不便な世の中になりましたこと。


 スマートフォンの電源を切る。

 手元にあるモクテルを一口含み、動揺で渇いた口を潤す。

 シドニーのからりとした空気でさえ、どんよりと生暖かく感じる。


 どこで私は道を間違えてしまったのかしら。

 誰に聞かせる訳でもないけれど、私の昔話でもしようかしら。


 私の生まれは東京郊外にあるキャベツ農家、いわゆるお百姓の娘。

 キャベツのお味噌汁も、のどかな雰囲気も嫌いじゃないけど、やっぱり銀座や丸の内、赤坂などのスタイリッシュでモダンな街に住みたいと思っていた。

 

 初恋の人は、5つ上の同じく農家の家の人。

 特別ハンサムな訳ではないけれども、無口なロマンチスト。

 彼の選ぶ言葉の並びが、独特な例えが好きだった。

 運良く私は彼にプロポーズされた。

 式場を決めるのも、私の好きなようにしていいと言ってくれる優しい人。

 私は憧れのホテルがあった。

 赤坂のホテル美詩南葉びしなは……四季折々の花が咲くガーデンで、特に初夏の薔薇の花の時期でのチャペルが美しい式場。

 華菱さんのところのホテルだ。

 高いと最初は渋られたが、私は絶対にそこがいいと譲らなかった。


 結婚式を挙げた幸せの絶頂の直後、彼は病気で帰らぬ人となった。

 

 その後、私は彼の子を身ごもっていたことが分かり、家族に見守られながら出産した。

 男の子で、名前を「真人」と名付けた。

 母になった後も、私は彼との結婚式の余韻が忘れられず、真人を家族に預け、家族の反対を押し切って赤坂で週末のアルバイトを始めた。

 少しでも彼の思い出が薄れないように、あのホテルを毎日見られるように。

 生活費をまかなうために時給のよいカフェーで働いた。

 赤坂のこじゃれたブティックのお高いワンピースを見て、買えないけれどもそれを着てダンスホールに遊びに行く自分も想像したりして寂しさを紛らわした。

 

 カフェーで常連だったのが、紳士服のオーダーメイド店の男。

 私の二番目の夫となる人だ。

 彼は地主でもあったため、いわゆるお金持ち。

 一目で分かる生地の良いスーツに、ぴかぴかとした黒い革靴、値段を聞くのが怖いくらい高そうな腕時計。

 彼は私の容姿を気に入ってくれ、ひどく求婚した。

 正直に未亡人だと伝えた私に、彼はこう言った。


「それでも大丈夫。大変だったろう。でも、子どもはいないんだろう? 君のことは愛せるけれども、流石に子までは……。僕と結婚してくれたら、一生困らせないどころか、欲しいものは何でも買ってあげる」


 憧れの街に住み、欲しいものが何でも手に入るという欲に目がくらんだ。

 このまま田舎に残っても、思い出にしがみついて退屈な人生を歩むだけ。

 真人にも好きなものを買ってあげられず、苦しい思いをさせるだけ。

 私は彼に嘘を付き、再婚した。 

 皮肉なことに、結婚式は相手の希望でまた華菱さんのところのホテルだった。

 そのときの華菱さんのお父さんのお顔といったら、今でも忘れられない。


 まだ何も話せないくらい幼い真人は姉夫婦に無理やり託した。

 両親には「もう二度と帰ってくるな」と言われた。

 「こんな田舎くさいところ、ごめんよ」と悪態をつき、赤坂での豪遊生活を過ごした。

 たまに夫の目を盗んで真人に会いに行き、彼が喜ぶようなプレゼントを渡した。

 会う度に、真人と一緒に暮らしたいという気持ちは強くなった。

 そのうち、夫は海外にビジネスを広げるからと言い、海外へと移住した。

 付いてきて欲しいと言われたが、飛行機が怖いと言って断った。

 はなから夫に魅力を感じなかったし、彼がいなくなったら真人と一緒に暮らせるかもしれない気持ちが強かった。

 

 一緒に住む話を、真人は断った。

 私が本当の母だと伝えたら、姉夫婦の家に居にくくなって私のところに来るだろうと思ったのに。

 卑怯なのは分かっていた。

 自分勝手なのも分かっていた。

 あのときの真人の目が本当に悲しそうだったから、帰り際に華菱さんのところの住み込みアルバイトのチラシを置いた。

 話は華菱さんのお父さんにすでにつけておいた。

 姉夫婦でも、私のところでもない彼の居場所のために。


 真人には軽蔑けいべつされながらも、あれからも会いに行った。

 話して分かってもらえるなんて思わなかったけど、ただ会いたかったから。

 彼も嫌そうにはしつつも、毎回私と会ってくれた。

 彼の20歳の誕生日には、箱根の別荘をプレゼントした。

 真人はぽつりと言った。


「こんなのいらないから、側に居てくれたら良かったのに」


 火事で思い出の別荘は燃えた。

 最期くらい彼と一緒にいたいと思ったから、炎のなかに飛び込んだ。

 うなだれていた真人は飛び起き、私の口を素早くふさぎ、手を引いて別荘から駆け出した。

 そのお陰で私は助かったのだ。



 助けられた命で、私はこれから何をする?

 


 キバタンがけたたましく鳴く声が聞こえる。

 同時に、スマートフォンが鳴る。

 麗さんだ。


「最近は忙しいの。棺コーディネートにはしばらくいけないわ。あ、コーディネートは完成でいいからね」


 一方的に告げると、麗さんの慌てる声が聞こえた。

 

「うるさい鳥だ。わざわざこんなのを見に行きたいだなんて」


 苦虫を噛み潰したような仏頂面の真人に、私はふふっと笑いかける。


「無駄といいながら、休みを取って来てくれたんでしょう」


 シドニーの焦げるような暑さでぬるくなったモクテルを彼に手渡すと、ぷいとそっぽを向いた。

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