第62話 ミネラルウォーター(真人の視点)
病院の無機質な白い天井。
ベッドの脇には、ナースコール。
重い身体を起こし、面白くないバラエティ番組がうるさいテレビの電源を消す。
枕元に置いてあるペットボトルのミネラルウォーターをコップへと注ぐ。
とぷとぷと、透明なコップに透明なミネラルウォーターが満ちていく。
半分ほど入れてペットボトルのキャップを閉じる。
常温のミネラルウォーターを自らの頬にぴたりとくっつける。
あの火事の起こった日。
僕はルカさんそっくりの見た目となった由香さんと、炎が徐々に広がる別荘で最期の時を過ごしていた。
水彩画の飾られた額や、スターチスの花の部分が逆さに吊り下げられたドライフラワーが炎に飲み込まれていく。
その様子を観察するのは、小気味良い。
確実に近づく死が怖いとは、
むしろ、これからもこの世界で生きる方がよっぽど興ざめだ。
振り返ると、これまでの人生は
子供の頃から、父、母、兄と妹の家族の間で、自分はどこか浮いていたのを感じていた。
避けられていたり差別されていたりする訳ではないし、かといってきつく当たられている訳でもない。
強いて言うなら、父と母の向ける言動が時折挙動不審だったり、眼差しが兄や妹に比べて
あくまでも、そんな感じがするというだけの話。
そんなひねくれた僕でも素直に待ち望んでいたのは、1ヶ月に一度、華やかな服に身を包んだ派手で綺麗な母の妹が来る日。
彼女は、いつも心躍るようなフルーツのたっぷりと乗ったケーキや、最新のおもちゃを僕にプレゼントしてくれた。
僕は彼女が好きだった。
物につられたのもあるが、一番の理由は彼女の表情だ。
さらさらとした黒色のロングヘアを腰まで伸ばし、ワインレッドのリボンの付いた大きな帽子で隠れる柔らかな笑顔。
彼女を見る度、大輪の花が咲く様に心が軽やかになった。
その姿は、まるで女神様。
男児の初恋の相手がやさしく構ってくれる保育園の先生だというのは珍しくない話だが、僕にとって初めて異性としての魅力を感じたのが彼女だった。
とはいえ、母の妹という親族にあたる人にそんな想いを抱いてはいけないと、必死に考えをかき消した。
どこか作り物のような家族との違和感を感じながらも、何事もなく過ごしていた日々は、高校の入学式を境に崩れ落ちた。
桜の花も一瞬で散るような冷たい嵐の日だった。
リビングで待っていた母の妹は僕に「私が本当の母」と告白し、一緒に住まないかと言われた。
逆さ吊りにされたみたいな吐き気を覚えた。
僕は、自分の本当の母親に恋心を抱いていたのかと。
両親だと思っていた人達からの哀れみの眼差しの正体にも気が付いた。
同時に、どうしてそんな状況になったのか、そして今更なぜ僕を迎えに来たのかという疑問と怒りも浮かんだ。
僕は彼女にその気持ちをぶつけたときの一言が衝撃的すぎた。
「聞かないで。お金が必要だったの。今の夫はお金持ちなの」
黒みがかった大きな瞳、長い
僕の怒りといろいろと問い詰めたい衝動は、空気の抜けた風船の如く
このあまりにも儚げな姿に、今の夫どころか僕を含め、多くの男達は彼女の思うように転がされたのだろう。
美しいものに、世は優しくできているのだ。
実の母の提案は、断った。
実の母が帰った後のリビングは地獄かと思うような苦しい空気が流れた。
実の母の姉は、バツが悪そうに「これは聞かなかったことにして」とため息をついてリビングから去った。
テーブルには、アルバイト募集のチラシが一枚。
金持ちの家の、住み込みでの手伝い募集だ。
乾いた笑いがふいに飛び出す。
僕はこの家からも、この家族からも、出て行くことを望まれている。
そして、僕自身も。
チラシを握りしめ、荷物をまとめ、痛いほどに冷たくて激しい雨風のなか記載された住所に一目散に向かった。
それが、僕にとって更に人生を狂わすものだとは知らずに。
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