第61話 火事

 どす黒い色の熊。

 よく見ると、首のあたりに三日月の様な白い模様ができている。

 これって、熊のなかでも特に危険な香りがプンプンとしているやつではないか。

 恐怖という言葉しか出てこない。

 もし、もしもこの熊が本物だとしたら。

 「死」という冷たく不穏な文字が脳裏にちらつく。


 熊は二足歩行でのっそりと一歩、また一歩と歩きを進める。

 叫んで熊を威嚇いかくしないように、乾いた口元に手を当てる。

 周りを見ると、皆一つひとつの動作が熊の機嫌を損ねないようにするために、必死で気配を消していた。

 熊は室内を少し徘徊し、何事も無かった様に別荘から出ていこうとする。

 あと少しでこの恐怖が終わると安堵あんどしかけた瞬間。

 

 ソファーの上でジュディさんが大きなあくびをしてむっくり起き上がる。

 ぱちぱちと大きな二重の瞳を瞬きさせた後、熊に近付いて背中を楽しそうにポンポンと叩く。


「オウ! よくできた着ぐるみデスネ! まさかのドッキリ?」


 熊はジュディさんへとぐるりと向きを変え、低い声で唸る。

 ジュディさんったら、何をやってるの!

 恐怖が何百倍になって到来する。

 熊は立ち上がり、ジュディさんを睨みつける。

 

「ハハハ、ボクは騙されマセン! テレビ局のスタッフ探してミセル!」


 ジュディさんは何事も無かったように扉から外に出ていくが、逆に熊は室内へと戻り、低く唸っている。


 安心したい。

 無意識に隣にいる麗をちらりと見る。

 彼は無言で横たわり、スーツの胸元をはだけさせ、顔周りに薔薇の花びらを飾り付けている。

 最後こそ美しい姿でいたいという彼の思惑なのだろうということが言葉無くても分かってしまった。

 彼も、死を決意したのだ。


 熊は当たりを見渡し、警戒しつつルカさんに近付く。

 ルカさんは真っ青になってその場に座り込む。

 華奢な肩が小刻みに震えている。

 真人さんは慌てた様子で台所から何かを掴み、熊の首に向かって突き刺す。

 果物用のナイフだ。

 熊の体からは赤い血がぽとりと垂れるものの、急所は外してしまった。

 興奮した熊は、雄叫びをあげながら真人さんに大きく手を振りかぶろうとする。

 

「や、やめて!」


 ルカさんが大声を張り上げた瞬間。

 目にも留まらぬ速さでスーツを着た権田原が現れ、熊の両腕をがっしりと掴みながら笑顔で語りかける。


「ハニー、今日は熊鍋だよ!」


「ガルルルル!」


 権田原さんと怒り狂う熊の取っ組み合いが始まった。

 真人さんの別荘は、一瞬にして熊と権田原さんの相撲のための土俵と化した。

 両者は一歩も引かない。

 息をのみ、その様子を見守る。

 熊が少しだけバランスを崩した際に、権田原さんはすかさず熊をひょいと持ち上げる。


「フンっ!」


 そのまま投げ飛ばした。  

 熊が投げ飛ばされ、孤を描きながら矢切さんの眠る部屋の窓辺へと激突する様子がスローモーションで視界に入る。


「グォォォォ!」


 熊は窓ガラスに叩きつけられ、派手にガラスの割れる音がする。

 私は矢切さんの部屋へと急いで向かう。

 割れた窓から外へと転げ落ちた熊は、逃げるようにして飛び出て行った。

 

「ハニー! 大丈夫だった!?」


 権田原さんはルカさんを強く抱きしめる。

 その様子を、真人さんは何とも言えない表情で見つめている。


「権田原さん、ありがとうございます。どうしてここに? ……あれ、何か臭う?」


 麗が不思議そうに尋ねるが、鼻を引くつかせて不審そうな表情をする。

 確かに、何かが焦げるような臭いがする。

 

「危ない! みんな逃げて!」


 ルカさんの声に反応して振り返ると、倒れたアロマキャンドルから火がレースのカーテンへと移っていっている。

 熊が激突した際の衝撃で、倒れてしまったのだろう。

 繊細なレースのカーテンを、穏やかなオレンジ色の炎が一瞬にして飲み込む。

 

 皆は一斉に出口へと逃げる。

 真人さんだけはベットに横たわる矢切さんの側に座り込み、悟った様に彼女の手を握る。


「真人さん! 何してるの! 早く!」


 彼は見たこともないような穏やかな表情で、首を振る。

 

「生きていたって、この先どうしろと?」


 真人さんはシッシッと私を手で追いやるような動作をする。


「早く行けよ。最期くらいは、好きな人と二人で居たい」


 低い声の真人さん。

 走ろうとするが、慌てて脚が滑り、割れたガラスへとダイブしてしまう。

 脚にガラスが突き刺さる。

 痛い。走れない。

 

「葵さん!」


 麗がこちらに戻ってきて、私を抱える。

 彼の髪はパンチパーマのようになってしまっている。


「麗!」


「急いで逃げましょう! 今、消防に助けを呼びました!」


 別荘の出口から飛び出し、近くに停めてあった麗のスポーツカーに乗る準備をする。

 誰かが、別荘に入っていく。

 目を疑った。

 まるでパーティーにでも行くような軽い足取りで、高いピンヒールにピンクのノースリーブワンピースの女性。

 田中様だ。

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