第60話 熊
扉から現れたルカさんを私達は凝視する。
彼女は、私とソファーに横たわるジュディさんに小さくお辞儀をする。
「真人さん、お友達かしら? あなた、変わったのね。今まで、友人なんて無意味だって言ってたのに」
ルカさんは小首を傾げる。
身体は強張り、
幽霊でも見ているかのような表情で、かたかたと震える手でルカさんに指を指す。
「嘘だ。ルカさんは寝室で眠っているはずなのに……」
「寝室? まさか……」
ルカさんはずかずかと土足で上がり込み、真人さんが立ちはだかるのを避けて奥の寝室へと向かう。
何が起きているのか分からないまま、私と麗は急いで彼らを追いかける。
ひやりとした空気が漂う寝室。
私達が先程入った時間よりも遅くなっているため、陽の光が入らず暗く冷たい雰囲気だ。
ルカさんは自らにそっくりな矢切さんの遺体を見つける。
「オーストラリアで出会った、あの子ね」
ぽつりと呟いた後、鋭い目つきでルカさんは真人さんを睨む。
「真人さん、今まで亡くなったふりをしていてごめんなさい。単刀直入に話します。私は、何もかも捨てて、新しい人生を生きたかった。身勝手なのは分かってた。でも、これ以上、面白くもないのに笑うのも、誰かのために生きるのも、したくない」
「嘘だ。嘘だろ。君のお母様だって、僕が婿としてクリニックを継ぐと知ったときに喜んだだろう」
うろたえる真人さんに、ルカさんはぴしゃりと言い放つ。
「それは、私のお母様の都合でしょ」
真人さんは、視点が合わないまま言葉をまくし立てる。
「ルカさんだって、僕が配偶者だったら大いにメリットがある。まず、僕は美容皮膚科医だ。金もある。そして、美容皮膚科医に恥じないルックスも兼ね備えていて世間体も良い。しかも、僕はルカさんを深く愛している。僕以上に、君を大切にする人はもう現れないだろうに」
「あなたは相変わらず、世間体だのメリットだの言ってるのね。上から目線に聞こえてしまうのは承知してるけど、あえて言います。あなたが可愛そうだったの。物心ついた頃から家庭に居場所がなくて、うちに住み込みで働くあなたが」
ルカさんの言葉に、私は思わず口元を覆う。
だから、真人さんは家族の話をしたときに豹変した態度をとったのか。
隣にいる麗を見ると、彼もまた琥珀色の瞳を大きく見開いている。
「あなたが私に執着するのは、お母様のポジションを狙いたいため。彼女を私の顔に仕立て上げて、あたかも私が瀕死状態で生きているかのようにして、お母様達を騙すつもりだったのでしょう。こんな状態になっても、見捨てないで愛する健気な配偶者として、うちとの関係を続けるつもりだったんでしょう!」
ルカさんは声を張り上げる。
真人さんは片手で頭をかいた後、矢切さんの遺体の前に置いてあるアロマキャンドルにマッチで火をつける。
薄暗い部屋にオレンジ色の光が不気味に揺れる。
炎に照らされる真人さんの血の気のない表情に、エキゾチックな南国を連想させる香りが相反しすぎておぞましい雰囲気を醸し出す。
「ルカさんがそんなに荒々しい性格だなんて、思わなかったよ。僕は本当にルカさんを愛しているのに。またルカさんが僕を好きだと言ってくれるまで、いつまでも待つからね」
静かに、まっすぐと告げる真人さん。
目が、ぞっとするくらいに無機質だ。
その言葉を聞き、ルカさんは下を向いて唇を噛みしめた後に、きっぱりと言う。
「あなたのものに戻ることはない。私には、大切にしたい人がいる。あなたじゃ、だめなの。私はあなたを裏切った。でも、自分をこれ以上裏切りたくない。その償いは何かしらの形で行うわ。だから、私のことで他の子を巻き込むのはやめて」
真人さんは、宙をしばらく見つめたあと半笑いをする。
壊れた玩具のように不自然に笑い、それはゼンマイが切れた如くぴたりと止まる。
「じゃあ、連れてきてよ。僕が納得のいく人だといいんだけど」
ルカさんは黙って入り口の扉を開ける。
そこに立っていたのは、大柄の権田原さん……ではなく、どす黒い色をした熊だった。
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