第55話 金木犀(麗の視点)

 姉は、僕と矢切さんの顔を交互に見比べている。

 矢切さんは鼻を摘みながら姉を睨むが、臭いのか今までの思いが込み上げてきたのか、豪快に声をあげて泣き始める。

 気まずさと、姉にどこから話したらよいか、どこまで話せば話が伝わるかという戸惑いと、複雑な気持ちが渦巻いて軽く眩暈すら感じます。


 僕は胸ポケットからハンカチを取り出し、ダマスクスローズの香水を5プッシュほど振りかけ、矢切さんへ渡す。

 矢切さんはハンカチを奪い取り、庭のキンモクセイの木へと駆けては影に隠れ、座り込みました。

 姉を目の前にして文句を言おうと意気込んでいた彼女はもういないのも無理はないでしょう。

 姉は氷のように冷たい声で呟く。


「麗。ひょっとして、真人さんがからんでいるのかしら」


 僕は小さく頷くと、姉は両手で顔を覆う。

 姉はだいたいのことを理解した様だ。

 矢切さんの方を一瞬見て、僕に尋ねる。


「あの子は、どうやって真人さんと知り会ったのかしら。そもそも麗は彼女とはどういう関係?」


 背筋がひやりとする。  

 自然と早口でまくし立ててしまう。


「美容整形を考えてクリニックに行ったときに、真人さんに一目惚れしたみたいです。彼女は真人さんの好みの女性になるように整形してほしいと頼んだら、こうなってしまったみたいで。彼女が何かのきっかけで、真人さんがお姉様の写真を持ってるのを気が付いてしまい、彼を問い詰めたらお姉様のことを話したのですよ。彼女は矢切さんというのですが、たまたま僕の仕事関係で関わっている方でして、彼女から今回の話を聞いたときに口が滑ってお姉様がオーストラリアにいることを話してしまったのです。本当にごめんなさい。ごめんなさい」


 真実のなかにほんの少しの嘘を混ぜて話す。

 全くの嘘をでっち上げるより、相手に信じてもらう可能性が高くなるし、何しろボロが出にくいのです。

 大好きな姉を傷つける罪悪感を感じますが、ジュディや彼の家族をはじめとするたくさんの人間を姉が巻き込んだのだから、これくらいの事実を目にさせても罰は与えられないでしょう。


 話を聴き終えると、彼女の顔は火照り出す。白い頬だけでなく、鼻の頭までもが赤くなっていく。

 

「やっぱり、こんなこと……いけないことだったのよね」


 僕の口から言葉は出ない。

 

「日本にいるとき、私は無理してたの。両親が忙しかったから私がしっかりしないとって思って。みんなに、嫌われるのも怖かったの。『いいルカさん』でいたかったの」


 姉は泣きじゃくる。

 僕はスーツの胸ポケットからハンカチを取り出そうとしましたが、先ほど矢切さんに渡してしまったのでないことに気が付きました。

 

 身のまわりの人をすべて気にかけ、良い素振りでいるのは限界があるのですね。

 僕は矢切さんにハンカチを渡し、姉には何も差し出さなかった。

 姉はこういうとき、ハンカチがなかったら手元の膝掛けを相手に渡して「涙を拭って。ハンカチでなくてごめんね」と言っていたでしょう。


「知らない土地で、知らない人達との出会い。私の気持ちで素直に行動してもいい。誰の利益も考えなくていい。そんな生活が楽だって知ってしまったの」


 今まで僕は、優しい姉に甘えてばかりで、姉に負担を背負わすようなことばかりしてしまったのですね。

 姉は子ども時代に、きちんと子どもでいられなかった。

 姉がいてくれたから、今の僕があります。

 しかし、僕がいなかったら、姉はもっと自然に振る舞えたでしょう。

 両親がもっと姉の気持ちに寄り添っていたら、姉は自らの意志で行動や未来を選択する楽しさを早くから知れたでしょう。

 だからといって、彼女の行動は許される訳ではない。


 目頭が自然に熱くなる。

 でも、ここで涙を流してはいけません。

 一粒でも涙を流したら、絶対に次から次へと溢れ出てしまいますし、鼻水だなんて僕の美意識に反しますから。


 どのような場面でも、美しくあれば身も心も守れるのです。


「このお家だって、家出をした息子さんがいるのよね。もうしばらく帰ってないみたいだけど、いざとなって本物のジュディさんが帰ってきたとき、私がいると知ったら深く傷つくわ。あんなに優しくしてくれたご両親も裏切ってしまうし……」


 姉が話し終えると同時に、キンモクセイの木が揺れる。

 小さな星の様なだいだい色の小花が揺れ、どこか懐かしい感傷的な香が漂う。

 矢切さんが隠れている位置から飛び出してきたのは、ジュディさんのご両親。

 

「やっぱり、ジュディではなかったのね」


 ジュディさんのお母様の悲しそうな瞳が視界に入る。

 姉はうつむき、ぐったりとうなだれる。

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