第45話 第二の人生(ルカ回想編)
キャンプ生活を始め、数日が経過。
私は、食料の買い出しをするために海から少し離れた小さな街に出掛けた。
街ではフリーマーケットを催しており、ドライフルーツや蜂蜜、ジャムなどの食料品だけではなく、オーナメントや切り絵の絵葉書などのハンドメイド作品が出ていた。
「フリーマーケットは初めてですか。好きなところを見てきていいですよ。後で迎えに来ますね」
「わかりました、ハンドメイド作品コーナーを見てこようと思います」
権田原さんといったん離れ、私はハンドメイド作品の露天を一つずつ見ていく。
羊毛フェルトのおとぼけ顔のマスコット、色合いのどぎついキャンドルなど、日本のデザインとは一味違っていて、見ているだけで楽しい。
シドニーの街や動物を描いたポストカードを売っている50代半ば程の品の良いアジア人女性のお店の前を通ると、独特な形の美しいオペラハウスを背景に、羽を広げるキバタンのポストカードが目に留まる。
数日前の景色がなぜか懐かしく、涙が浮かぶ。
露天の女性は、目を見開いて私を見つめ、震える唇で声をかける。
「ジュディ、ジュディなの? ジュディよね!?」
日本語には間違いないが、何を言われているのか分からない。
「人違いです」と言おうと口を開こうとすると、彼女は大粒の涙を流しながら強く私を抱きしめる。
「酷いことを言ってごめんなさい、あなたが一番気にしていたことだったのに。本当にごめんなさい。どんなあなたも私の子。戻ってきてくれてありがとう。そして、おめでとう。女性として生きることにしたのね」
女性として生きることにした?
私はもともと女性だけど。
この人、絶対に勘違いしている。
早く言わないととは思いつつ、驚きと戸惑いで言葉が出ない。
パックのサンドイッチを抱え、50代半ば程の金髪で青い目のふくよかな男性がこちらにやってくる。
女性に抱きつかれる私を見ると、驚いた表情をしてサンドイッチパックを地面に落として涙を零し、力強い大声で叫ぶ。
「オゥ、ジュディ!」
「あなた、私達のジュディが帰ってきたのよ」
「神に感謝! ジュディ、女性になったんだね。ジュディらしくていいな。今までいろいろ葛藤しただろうに。もう安心しなさい」
この男性は、女性の旦那さんらしい。
そして、「ジュディ」という名前は女性の響きがするが、本当は男性で、彼らの息子なのだろう。
彼らは私を見て、家出をした後に性転換した息子が帰ってきたと思っていると読んだ。
ジュディという男性は、余程私に似ていたのだろう。
「お待たせしました。今夜はご馳走ですよ。そちらの方々は?」
フランスパンを突き出した買い物かごに、果物や干し肉、根菜などを入れた権田原さんは、ジュディさんのご両親を不思議そうに見る。
「こんにちは。柳橋ジュディの母です。ひょっとして、あなたが今までジュディの面倒を見てくださったのですか?」
「お会いしたのは数日前です。事故か何かで海で沈んでいたところをたまたま僕が通りかかっただけで。相当なショックを受けており、記憶も曖昧らしいですし、今まで何をしていたのかもあまり話たくはない様子です」
「本当に、本当にうちの子をありがとうございます」
涙で顔をぐしゃぐしゃにして笑うジュディさんご両親。
権田原さんは、私に微笑む。
「ご両親と出会えて、良かったですね、ジュディさん」
私はジュディさんじゃない。
そう言おうとしたけれど、言葉が出ない。
驚きや戸惑いではない。
あえて否定しなかったのだ。
私には帰る場所がない。
帰るべき場所には帰れない。
こんな身元もはっきりしない状態で権田原さんと一緒にいても、彼に迷惑なだけだし、彼だってずっとここで生活をしている訳ではないし。
運良く、権田原さんもジュディさんご両親も、私が事故のショックで記憶を無くしたと思っている。
ジュディさんになりきって両親と生活してしまえばいい。
せっかく我が子が帰ってきたと喜ぶ彼らを悲しませたくないのではない。
帰る場所がないから、私のために彼らを利用するのだ。
でも、もし本物のジュディさんが帰ってきたら?
そのときは、そのとき考えよう。
その後。
私がシドニーでジュディさんとして生活している間、権田原さんは日本に帰ってからも時々遊びに来てくれた。
彼の飾らない優しさに惹かれ、私は権田原さんを好きになり、交際を始めた。
彼を思うと自然と笑顔になれたし、会いたいと思うようになった。
偽りとはいえ、彼とのささやかな幸せがずっと続けばいいのにと思っていた。
執事が向いていそうなんて言わなければ良かった。
小さな幸せすら叶わない。
それは、因果応報にすぎないのだろう。
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