第43話 海底(ルカ回想編)
麗が婚約者を連れて私の前へと現れた。
二度と会わないと思っていたのに。
血のつながった家族と会えて嬉しいような、過去の自分を思い出して憎いような、相反する感情が渦巻く。
臭いものに蓋をするように、過去を闇に葬ったつもりだったのに。
幼い頃から今に至るまでの記憶が、
私には物心ついたときから、自身のおかれた役割に囚われていた。
両親は仕事で忙しかったため、私は自然と麗の面倒をみていた。
正確には、メイドやボーイ達が衣食住の物理的なサポートを、私は気持ち的な面での彼の支えとなっていた。
麗は私ほど身体も心もタフではなく、よく風邪を引いて寝込んだり、肌荒れした皮膚を同級生にからかわれて泣いていたりしていた。
私が両親のかわりに、麗の側にいてしっかりしないと。
そう信じ、無理に明るく振る舞った。
見た目に関しても、自分の意志は二の次だった。
母譲りの青い瞳、父譲りの黒髪を腰まで長く伸ばし、清楚なワンピースを身にまとう姿は周囲から美しい人形みたいだと褒め称えられ、両親からもその姿でいるようにと言いつけられた。
髪を短くしてみたい、本当はボーイッシュな服装が好きだとは言い出せなかった。
当時の私を、「人形みたい」だというのは皮肉にも正しかった。
私が小学校低学年、麗が就学前のある日、泊まり込みのアルバイトの使用人がやってきた。
16歳の高校生・真人さんだ。
彼は若いながらも淡々と仕事をこなし、私達をよく気にかけてくれた。
休憩時間や業務後、彼はいつも分厚い参考書とノートを広げて勉強していた。
彼が医学生になってからも私達の屋敷に頻繁に通った。
私達の両親は彼をひどく気に入り、ひいきにしていた。
しかし私には、彼の笑顔の裏のどこか機械を感じさせる無表情の冷たい印象を拭いきれなかった。
彼は大学病院での研修医時代を終え、母の立ち上げた北里美容クリニックの医師として就職した。
ちょうどその頃、父と母は価値観の違いで離婚し、私は母側に引き取られ、苗字が「華菱」から「北里」へと変わった。
私が25歳になったとき、真人さんから結婚前提での交際を申し込まれた。
家族のように思っていたので、真人さんの気持ちを知り、驚いた。
しかし、何故か彼から告白されたことを私の母は知っていた。
希望に満ちた表情で彼の人柄やクリニックでの仕事ぶりを褒め称え、「クリニックの後継ぎは彼に決めているの」と、しきりに真人さんとの交際を
クリニック院長の娘の婚約者である医師が、クリニックを継ぐのは当然。
私が真人さんと交際すれば、母が喜ぶ。
喜んで彼とのお付きあいを始め、違和感があっても気のせいだと自分を騙した結果、交際3年目の28歳でプロポーズをされた。
真人さんと付き合って分かったのが、彼は論理的でないものは、無駄だと考える人だということだ。
オセアニア近辺の旅行で珍しい動物達を見たいと伝えても、「動物ならいくらでも動画で見られるだろう」と言い、旅行に同伴しようとはしなかった。
「危ないから」という彼の反対を押し切って、今回の一人旅を決行した。
これは、最初で最後の我が儘。
独身時代、一度くらいは自分の意志で行動してみたかった。
オーストラリアやニュージーランドの島国で、私はたくさんの珍しい動物に出会った。
海から自らの巣へと群れで戻るペンギン達、ものすごく速さで急に道路へ飛び出す野生のカンガルー。
彼らから、
なかでも一番のお気に入りは、シドニーの植物園に遊びに来ていたキバタン。
白くふさふさとした身体に、黄色い冠をちょこんとつけてかわいらしい。
木の枝にとまるので、近づいてそっと見ていると、キバタンは片足を上げて握手を求めるようにおどける。
かわいらしい足に、触れるか触れないかの間際で人差し指をそっと差し伸べると、キバタンは羽を広げてシドニーの海へと飛びたつ姿が印象的だ。
小さくてか弱い姿でも、凛々しさと己の意志を持つキバタンは、私の心に強く訴えるものがあった。
オーストラリアでの1人旅が終わり、日本へ向かうプライベートクルーズが始まる。
非日常が終わる寂しさで、軽く暗い気分になる。
デッキより、徐々に遠ざかる島国を眺める。
突然の鈍い爆音と強い揺れに襲われ、私は海中へと叩きつけられる。
何が起きているのか分からないまま、船員達の悲鳴を聞きながら、身体は海底へと深く、深く沈んでいく。
少しずつ意識が失われていき、視界が暗くなる。
此処で永眠するんだと悟った瞬間。
何かの生物が近付いてくる。
魚にしては平たく、大きい。
マンタか。
いや、違う。
もっと分厚い、逆三角形の身体。
はちきれそうなほどの筋肉で盛り上がった、漆黒のダイビングスーツの男だ。
その姿は、ある意味でサメに遭遇したよりも恐ろしかった。
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