第42話 キャロットケーキ

 スパイスの香りが食欲をそそるはずのキャロットケーキ。

 生クリームたっぷりのスポンジ上に、人参のかたちのマジパンが飾られていている。

 おいしく味わうどころではないのだが、沈黙を埋めるためにケーキをフォークですくって口に運ぶ。


「権田原さん、どうしてここに?」


 麗は驚きを隠せない表情で尋ねると、どもった口調で困ったように答える。


「休暇を取らせて頂きましたので、彼女のお家にお邪魔していたでござい……」


 権田原さんはちらりとルカさんを見る。

 いつもの語尾に「マッスル」をつけるのを躊躇ためらっているようだ。

 彼女の前ではきっとマッスル言っていないのだろう。 

 

「権田原さん、はしなくて大丈夫です」


 麗も権田原さんの様子に気が付いた様で、彼に配慮する言葉を投げかけた。

 うやうやしくお辞儀する権田原さんに、ルカさんは整った顔をしかめる。


「麗ったら『敬語を話すのは僕だけ。美しい言葉ですから』なんて、まだ言っていたのね」

「え、あ、まぁ……」


 指摘されてタジタジになる麗を、権田原さんはすかさずかばう。

 

「僕が好きで言っていたのでございマッスル! 麗様、出会ったときはとても悲しそうな表情ばかりしていたので……。理由を聞いても首を振るだけだし、せめても麗様には笑ってほしいと思いまして。冗談で言ってみたらすごく『美しい!』と褒めてくださったので、それ以来語尾にマッスルを付けているのでございマッスル」


 耳まで赤くして恥ずかしそうに伝える権田原さんに抱き付くルカさん。


「さすが私のダーリン! 優しいわ。これからは私の前でもたまにはマッスルって言ってよ!」

、そんな皆様の前で……」


 

 さっきもお母さんはルカさんのとこをジュディさんって言ってたけど、どういうことだろう。

 状況が整理できず、困った表情をする私の顔をルカさんは覗き込む。


「あなたは?」

「婚約者の漆原 葵です」

「婚約者! 麗のナルシストっぷりを許してくれる女性がいるなんて、世界は広いのね。 弟を末永くよろしくお願いしますね」


 ルカさんは手を組んで大げさに天に祈りを捧げている。

 

さんに弟さんがいて、それが麗様だったなんて……初耳でございマッスル」


 権田原さんが麗とルカさんを交互に見比べる。


「ダーリン。ごめんなさい。ピュアなあなたを3年間ずっと騙していたわ。。私の本当の名前は華菱 ルカ。。しかも、私には婚約者もいたわ。本当にごめんなさい」


 ルカさんは肝が据わっている方らしく、言い訳する訳でもなく、険しい表情で潔く話す。

 この話より、船の事故で亡くなったはずのルカさんは何かのきっかけがあってジュディさんになりすまして生活していたのだろう。

 そして、権田原さんとの出会いはジュディさんとして過ごしていたときに訪れたに違いない。


「ジュディでもルカでもハニーはハニーだよ。訳ありだとは思っていたけど……無理に話さなくていいよ。今まで苦しかったよね。どんな君でも、ずっと僕は君が好きだ」


 権田原さんはルカさんの心の内を思い、ぽろぽろと涙を零してはシルクのハンカチで拭き取る。

 騙されたと憤慨ふんがいするでも、軽蔑する訳でもなくルカさんを思う権田原さんは、本当に彼女のことが大好きなんだろう。


「麗、葵さん。たまたま知られてしまったけれど、私が生きていることは、知らなかったことにしてほしい。もちろん、家族にも、婚約者の真人さんにも知らせないでほしい。勝手なのは分かってる。それに今、お世話になってる柳橋ジュディさんのママやパパをこれ以上悲しませたくない。私のことを、


 ルカさんは感情を殺して淡々と話す。彼女の胸の内には、いくつもの感情が渦巻いていることだろう。

 しかし、本来だったら現在はジュディさんは有給休暇を取ってオーストラリアに来ているはずなのに、どうして鉢合わせをしていないのだろう。

 それに、いくらジュディさんとルカさんが似ているからといえ、男女の身体の違いまでは隠せないのに、本物のジュディさんだと実の両親が思っているのも引っかかる。

 

「分かりました、お姉様。どうか、どうかお元気で。このことは、秘密にします。権田原さんも、せっかくの休暇を台無しにしてしまって申し訳ありませんでした」


 麗は、腰をしなやかに折り曲げて一礼する。

 彼はルカさんに事情をあえて聞かないし、こちらからも本物のジュディさんについては話さないつもりなのだろう。

 

「さようなら、お姉様。もう、二度とお会いすることはありませんが、一目見られたことに感謝します」


 麗がジュディさん宅に背を向けて走り出すので、私はルカさん達に一礼して後を追いかける。

 彼に追いつき、後ろから麗のポロシャツの裾を掴む。

 構わないでほしいと言わんばかりの表情で振り返る麗の額を、人差し指で軽くはじく。


「まーた、ひとりで抱えようとしてるでしょ」

「そんなに優しくしないでください」

「どういう意味?」

「心を許した相手をまた失うのが怖いです。だから僕には……」


 せわしなく動く彼の唇に、強引に自らの唇を一瞬だけ重ねる。

 琥珀色の瞳孔が大きく開いた。

 これから進む私達の未来が、さっき食べたキャロットケーキのように、スパイスのちょっぴり効いた試練はあるかもだけど、甘くて心躍るものでありますように。

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