第39話 自撮り棒

 深夜0時を告げるメロディが鳴り終えた後、私達の脳内からルカさんの記憶は消えなかった。

 熟眠はできなかったものの、少し眠った後でもルカさんの記憶は消えなかったまま朝を迎えた。

 洗面台にて、きっちりとスーツを着こなした麗と出くわす。


「おはよう。私、まだルカさんのこと覚えてる」


 麗は目を見開く。


「僕もです。本来でしたら、記憶がまるまる消されるはずなのに。事務所に寄って白亜さんに報告しましょう」


 彼の言葉に大きく頷き、急いで私も仕事着に着替え、職場に向かう。



 職場に到着すると、白亜さんの机には湯気の出るホットコーヒーの入ったマグカップが置かれていたが、彼の姿はない。


「おはよ」


 白亜さんは扉の閉ざされた面接室から出て、「使用中」の札を立てる。


「朝からさっそく幽霊対応だよ。オーストラリア旅行……じゃなくて出張するように伝えたでしょ」

「おはようございます。北里ルカの件ですが、僕達は彼女を覚えているのです。確かに、僕の姉という記憶で間違いありません」

「やっぱり、麗達もか」


 ルカさんの記憶が消えていないのは嬉しいが、起こり得るべき事態が起きていないのは不安になる。

 白亜さんは手元にある資料に目を通し、ふぅと小さくため息をつく。


「2人のことだから、今日来ると思ったよ。実は、万が一に備えて対応するために、昨日は日付が変わるまで残ってたんだ。そうしたら、案の定秩序維持係から連絡があってさ。記憶は消せないって。まさか、

「生きているですって!?」


 庁舎の天井が崩壊しそうなくらいの大声をあげる麗。


「死亡届が出されて、成仏できていない人間は全て幽霊という扱いになるのが筋なんだけど、北里ルカの場合は死亡届のみ出されて、当の本人は生きている状態だ」

「姉はクルージングの最中に船が沈没して亡くなったので死体は見つかっていませんが、実は亡くなっていなくて今もどこかで生活している……という解釈でよろしいのでしょうか?」


 感情が高ぶり、早口になっている麗を私達は穏やかな口調でなだめる。


「そういうことになるね。まずは落ち着こうか」

「麗、ひとまずはお姉さんが生きていて良かったね」


 白亜さんと私は安堵あんどするが、麗の表情はどこか晴れない。


「生きているなら、助かったなら、どうして姉は真人さんや僕に連絡しないのでしょう。危ない人間に連れ去られて監禁されていないか心配で」

「それは分からないけどさ、北里ルカが生きているのは事実だから。こればっかりは考えたって仕方ないし、幽霊関係でないなら俺達は業務外だから、情報を得るのも難しいと思うな」

「でも……」 

「そんなことより、今日から葵ちゃんと旅行なんだから。お姉さんは大事だけど、目の前にいるフィアンセとの時間も大事にしな?」


 白亜さんに諭すようにされ、麗は小さく頷く。


「そうですね。姉には姉なりの理由があるのかもしれませんし。白亜さん、休暇をありがとうございます。僕達、楽しんできますね」

「うん、気をつけて。お土産はカンガルーのぬいぐるみがいいな」


 白亜さんはやっぱりすてきな上司だ。

 大きなカンガルーのぬいぐるみを買ってこないと。  

 

 歩きながら、麗は鞄から何かを取り出して組み立て、スマホを取り付ける。

 自撮り棒だ。


「今までは葵さんがカメラマンでしたが、これからは2人で写りますから。いいですよね。旅行前に自撮りをマスターするのです」


 ぷるぷると震える手で自撮り棒を持つ麗の左手の上から、私は右手を重ねる。


********************


 葵と麗が旅行準備のために帰宅した後。

 白亜係長は黒縁眼鏡をかけ、面接室をノックする。


「おまたせ。少しは落ち着いた?」


 面接室の机に顔を伏せ、女性の幽霊は肩を震わせている。

 白亜係長は過去に業務でお菓子の檻を作った際に使用した板チョコレートの包み紙をはがし、ぱきんと折って一列を豪快に自らの口に放り込む。


「あー、おいしー。元気のないときには甘いものだよね、


 名を呼ばれてゆっくりと顔を上げるのは、幽霊となったチュウオウ区のギャル風な職員・矢切由香。

 ウサギの目のように充血しており、鼻の下も被れている。

 白亜係長は、昨晩やってきた彼女を一目で由香だと認識できなかった。

 記憶にある明るめの茶髪は緩く巻かれた長い黒髪になっていたし、瞳の色はカラーコンタクトによって青色、何より顔の造りが

 彼女は自らの名前と最近整形したという事実を告げ、一晩中この事務所で泣きじゃくっていた。

 白亜係長はチョコレートをひとかけら、彼女の口元に近付けると、由香はぷいと顔を背け、代わりに指でそのチョコレートを摘まむ。


「やっぱり白亜さん、優しい。甘えた気持ちで来ちゃったけどさ、チョー後悔。


 由香は腫れぼったい顔をくしゃっとさせて笑う。

 瞳に張り付いてしまったカラーコンタクトをじれったそうに取ると、焦げ茶色の本来の瞳が表れる。

 整形して顔は変わってしまっても、変わらない彼女のちょっとしたしぐさや言葉遣いに、白亜係長は胸を痛める。

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